豊と葵
iPhone17 Proで曜変天目を試し撮りから2か月、7月の「豊」に続いて8月の「葵」の展示が始まった藤田美術館へ。殆ど外を歩かない鶴橋→京橋→大阪城北詰ルートで、ポケットにiPhoneだけ入れて超身軽モードです。
太閤北野大茶会高札(江戸時代)は、天正15年(1587年)に北野天満宮で開催された北野大茶湯について開催概要を記した高札、となりには太閤北野大茶会高札翻刻の軸。展示品は天正時代の高札ではなく江戸時代中期以降の太閤人気にあやかって書写されたものらしい。
AIと散々やり取りして、10月1日に北野松原で大茶会を開くので、老若男女、僧侶も俗人も、身分や貧富を問わず参加してよい、席は北野松原に自由に設けてよい、茶道具は手持ちのもので構わず、遠方から無理に名物道具を取り寄せる必要はない、などが記されていることを確認。お気軽に、どうぞいらっしゃーい、やはり世界史上まれな民衆派天下人だった太閤はんです。
豊臣秀吉像(江戸時代、16~17世紀)は、神仏や天皇しか上がることが許されない畳縁が用いられた上畳に座る神格化された秀吉。
「茶人すごろく秀吉ver.」は茶人としての秀吉のみにフォーカスしまとめられていて、ねねも淀君も登場していません。本能寺の変の後、山崎城の信長由来の茶道具で茶会を開き後継者であることを誇示、関白就任後の禁中茶会では組み立て式黄金の茶室を持ち込み権威を誇示、九州平定後は上掲の高札の型破りな北野大茶会を開催、と趣味である茶の湯を実に上手くかつ楽しげに政治利用していると分かります。
もう1枚のパネル「茶人すごろく利休ver.」では、利休が茶人として頭角を現したのは50歳を過ぎてからと分かります。天正18年の聚楽第での茶会で、最初は秀吉の嫌う黒樂茶碗を用いたが、秀吉が現れると別の瀬戸茶碗に取り替えた、秀吉と利休の間に価値観のズレがあることをうかがわせる、という記述が興味深い。ひょっとして利休より秀吉の方が民藝運動に近いセンスを持っていたのかも知れません。
生まれたばかりの秀吉は笏を持ち、生まれたばかりの利休は宗匠帽を被っていて、洒落がよく効いた2枚のパネルです。
小堀遠州作茶杓銘吾友、筒には「吾友」の松花堂昭乗へ贈る旨の書付け。隠居後の昭乗が十字の仕切りがある四つ切り箱を絵の具箱や煙草盆として愛用したいたことにヒントを得て、料亭吉兆が弁当箱として美しく盛り付けたのが松花堂弁当の始まりらしい。
唐物茶入銘野中(南宋時代)、小堀遠州が所持していた阿古陀(かぼちゃ)形の茶入、右側は挽家(ひきや)と呼ばれる茶入れを収めるための木筒で蓋には埜中(野中)、ふたつの布袋は茶入を入れる仕覆(しふく)、ふたつの蓋は牙蓋(げぶた)で内側には毒見のためとされる金箔が貼られているらしい。さんざんAIとやり取りして確認したのですが、茶入を仕覆に収納、それを挽家に収納。それを1年前の藤田美術館で見た真中古野田手茶入のようにマトリョーシカ状に収納箱に収納されていたようです。う〜んクレイジー。小堀遠州が愛した茶入というウェブページではさらに収納点数の多い茶入も。
番外
「金」のテーマは2ヶ月前に見ているものの、展示替えがあったのか、見逃しているものも。
紺地金銀字集古今仏道論巻上(中尊寺経、平安時代 - 12世紀)は唐の僧侶・道宣が編纂した、仏教と道教・儒教の優劣や歴史的論争を集録した書の書写。奈良国の吉野大峰展で見た国宝藤原道長筆紺紙金字法華経が同様に紺地に金泥文字の巻物でした。