吉野大峰
母の祥月命日で墓参り。
学園前駅北口にはマックやケンタ、ミスド、コメダ、サブウェイとカタカナチェーンがあるばかり、近商ストアのビルの4階レストランフロアに上がると家族亭があったものの行列でビックリ。南口にまわってもスタバしか無いのはわかっているので、とりあえずローソンでおにぎりを買って空腹をしのぎます。自分的には住みたくない町ナンバーワンの学園前です。
第1章 伝説の地 吉野 ─役行者と蔵王権現に出会う─
来館者を出迎えるように役行者倚像および二鬼坐像(室町時代、吉水神社、ジュニアガイドのNo.1)、修験道の開祖・役行者(役小角)と弟子の前鬼・後鬼夫婦の3躯が並んでます。いずれも目に水晶が嵌め込まれていてちょっと不気味。斧を持っているのが夫で赤鬼の義覚、水瓶を持っているのが妻で青鬼の義賢。元は生駒山中に棲み、子どもをさらって食べる凶悪な鬼だったのが、役行者により調伏させられ忠実な弟子に。その調伏させられた場所が元山上千光寺で、我が家から見える生駒山地大原山の向こう側、近鉄生駒線東山駅から西へ1時間ほど歩いたところ。今も修験道の修行の場で覗き岩などの行場もあり、役行者が大峰山山上ヶ岳を開く前にここで修行したことから元山上と呼ばれるらしい。
壁際の展示ケースに沿って行列の後ろに並び、前の人が進むのを待ちながら鑑賞、を繰り返します。大峯八大童子立像(櫻本坊、ジュニアガイドのNo.3)は金剛杖や香炉などそれぞれに異なる道具を手にした修験者を守る8軀の童子像。
麓から山頂までの道のりが山水画のように描かれた大峰山全図(江戸時代、大和文華館)では西の覗も確認できます。小学生の夏休みに祖父に連れられ何度も歩いた道です。ざ〜んげざんげ、ろっこんしょうじょう、と唱えながら自分たちよりよほど早足でスタスタと先へ行く山伏(修験者)さんたち、時々法螺貝も吹き鳴らしていました。
国宝日本霊異記上巻(興福寺)は平安時代初期に編纂された日本最古の仏教説話集、役行者のエピソードに詳しく、鬼神を奴隷のようにこきつかい金峰山と葛城山の間に橋をかけようとしたところ、その橋を建設することを嫌がった一言主神は文武天皇に役行者謀反との讒言、それに激怒した役行者が一言主神を呪術の縄で縛り上げ谷の底に閉じ込めるも、讒言のために役行者は朝廷に追われる身となり、母親を人質に取られた役行者は伊豆大島へ流されるも、夜になると空を飛んで富士山で修行、仙人になったそうです。
伝役小角所持錫杖頭(吉水神社)や伝天武天皇男神坐像(竹林院)等々をおしくらまんじゅう状態で鑑賞、蔵王権現像の展示室へ。壁際に5軀の蔵王権現立像(大峯山寺)、TVで見た日通の美術部員さんたちが背負子で山から下ろしてきた蔵王権現像で、足の上げ方や表情が個性的も名前はなく1号から5号と番号が付けられているだけ。一番左の1号が右足を一番高く上げていて相撲の阿炎関の四股のようにカッコ良く、眉間を寄せ険しい表情も口角が上がり微笑んでいるように見えます。上掲ポスターに掲載された写真の蔵王権現です。2号から5号はチラシの2ページ目で確認できます。
そして展示室中央に1軀の蔵王権現立像(大峯山寺)が大峯山寺の本尊、千年間山を下りることなく修験者すら拝めなかった絶対秘仏。ただ5軀の1号かかっこよさに気を取られ、御本尊は1号ほど右足は上がっていなかったことくらいしか覚えていません。「1号が猛烈に足を上げてかっこよく暴れてくれているからこそ、中央の本尊はブレずに、泰然と人々の祈りを受け止めることができる」ので、1号のかっこよさに惹かれてご本尊はよく覚えていないというのは平安時代の職人の狙い通りの正しい見方だとGeminiが教えてくれました。
さらに26軀もの蔵王権現立像、本尊や5軀より小さく体躯やポーズ、表情も様々。ところがこちらは本尊や5軀とことなり重要文化財に指定されています。こちらは昭和時代に山を下り、奈良博に寄託され厳密な学術調査済みで重文に指定されたのに対し、本尊や5軀は「現役バリバリの信仰の対象」だから、だそうです。
同じ展示室に3cmほどの金色の小さな如来坐像と菩薩坐像、金メッキではなく、極めて珍しい平安時代の純金製で重要文化財。昭和58年〜61年に大峯山寺本堂解体修理の際、床下の発掘調査で見つかったことから「大峰山頂遺跡出土」となっています。3cmの極小サイズでも表情や衣のひだまで表現されています。
第2章は金峯山をめざして ─藤原道長の埋経 ─
国宝藤原道長筆紺紙金字法華経(ジュニアガイドのNo.50)は本展の目玉のひとつ。藤原道長が立て続けに起きた災害や疫病を鎮めるため、また自身の滅罪と極楽往生を願い法華経を書写し寛弘4年(1007年)に金銅製の経筒に納めて金峯山に埋納したもの。2015年に金峯山寺の納戸から191紙が発見され、2年半の保存修理を経て本展で初公開。展示されていた国宝は下半分が欠失しているものの紺色の紙に金泥の文字がくっきり。それを記念しての今回の特別展での蔵王権現展示に至ったらしい。
権力の頂点にあった左大臣藤原道長の吉野行(御岳詣)は、輿に乗って金峯山寺へ行ったものと思っていたら、豈図らんや。大河ドラマでも描かれていたそうですが、命がけの大冒険で、出発前の100日は酒、肉、五辛、欲、色を一切断つ厳しい禁欲生活を送った後、平安京から金峰山(山上ヶ岳)まで往復100キロ・13日間を不眠不休、用意された華美な宿舎を拒絶し、あえて質素な場所に泊まるなど、精神的にも自身を追い込んで、政敵や山賊、野盗の襲撃のリスクの中で断崖絶壁の山登りだったそうです。その御縁で本展の音声ガイドナビゲーターは大河ドラマで道長役の柄本佑さん。海苔缶のような国宝金峯山経塚出土藤原道長経筒(ジュニアガイドの「No.53)も展示されていました。
東新館から西新館へ渡る手前で18m x 4.5mの巨大スクリーンで大迫力の金剛蔵王大権現VR(プレビュー)。役行者が同じヤマザクラの木から2体の蔵王権現像を刻んだと伝承され、吉野山の金峯山寺は山下の蔵王堂、山上ヶ岳の大峯山寺は山上の蔵王堂と呼ばれていて、山上山下の蔵王堂と関連する子院を含めた総称が金峯山寺。山上は命がけで険しい山道を登りきった修験者の「最奥の聖地」、山下は「すべての人が等しく蔵王権現とご縁を結べる場所」として開かれているそうです。西新館に入ると山岳修行の様子などを紹介する動画を座って鑑賞できるようになってました。
第3章 ひろがる信仰世界 ─修験者・縁起・曼荼羅─
カラフルに彩色が残り、賑やかな光背を背負った如意輪寺の蔵王権現立像(鎌倉時代)は美術館ナビに画像がアップされていました。
第4章 後醍醐天皇 吉野へ ─山上の新政権─
如意輪観音坐像(鎌倉時代延慶3年)は後醍醐天皇の念持仏で如意輪寺の秘仏本尊、やはり今回の特別展が出開帳初公開。優しい表情の一面六臂坐像。博物館の展示では珍しく手を合わせている人が多かったのが印象的でした。
第5章 豊臣秀吉 華の宴 ─神木の桜花に詠う─
重要文化財吉野花見図屏風(細見美術館)は文禄3年(1594年)2月に豊臣秀吉が開催した吉野の花見を描いた六曲一双(ジュニアガイドのNo.143)。輿に乗った太閤さんを確認できます。
第6章 近世・近代の吉野と奈良
理源大師倚像(江戸時代、ジュニアガイドのNo.154)は理源大師(聖宝、ちょうほう)は醍醐寺を開いた修験道中興の祖、理源大師の大峰山再興の行脚で、町の人々が餅や干し飯を献上したことから「餅飯殿」の地名があるらしい。
仏像館
時間はもう5時を回っていて新館から仏像館への地下通路は既に閉鎖されていたので、一旦外に出て仏像館へ。前回訪問時よりかなり展示替えされていました。
出山釈迦立像(南北朝時代)は、出家後、山に入り六年間苦行を試みた釈迦が、苦行では悟りを開けないことに気づき、山を降りたという説話にもとづく釈迦如来立像(出山釈迦立像)。釈迦の体験と修験道は矛盾するのではとGeminiに訊いてみたところ、修験者は、釈迦が苦行では悟れないと言ったことを知っていて、それを踏まえた上で、「では、仏教の最高奥義(密教の理論)を使いながら、日本の霊山で命がけの修行をすれば、釈迦と同じ悟りに超高速で到達できるのではないか」と挑戦しているのが修験道、との回答でした。
頭髪や衣文が同心円を描いている長谷寺の釈迦如来立像(鎌倉時代)。
大峰登山の記憶
小学生の頃の大峯登山を記憶とGoogle Mapでもう少し辿ってみます。近鉄下市口駅からバスに1時間ほど揺られ洞川(どろがわ)の村、そこから川沿いの道を1時間ほど歩き、山道に入ると女人結界門、険しい山道を上り、洞辻茶屋で一休みし、鐘掛岩なる断崖絶壁を梯子と鎖で上り、山上にたどり着きます。
山上大峯山寺の薄暗い堂内で蔵王権現像を見た記憶があるような無いような。ただ大峯山寺のみすぼらしいお堂に驚いた記憶があり、Google Mapにアップされた写真ではて立派な瓦屋根に葺き替えられてはいるものの、寒々とした板壁はそのままです。
宿坊のぜんぜん美味しくない精進料理を食べて薄っぺらい布団で一泊、翌朝未明に叩き起こされご来光を見て、そのあとは恐怖の西の覗、肩と足首に縄を着け断崖絶壁の真上からぶら下げられます。まじでつま先だけが地面に付いているだけの状態で、眼の前には数百メートル下の森が広がるばかり。親孝行するか!と聞かれ、はいっ!と答えるしかありません。洞川の村に戻り、龍泉寺で滝行をする人たちを見て、バスに揺られ下市へ戻り、日本最古の寿司屋とされる弥助のお座敷に上げてもらいお庭を眺めながら鮎ずし、これだけが楽しみでした。
孫たちが付いて行かなくなっても、祖父は叔父とふたりで、年季の入った金剛杖を手に、確か80過ぎても毎年上っていました。祖父は特段修験道の講に入っていた訳でもないものの、木曽の御嶽山や富士山にも連れて行ってもらいました。御嶽山では木曽駒の湯温泉という贅沢な宿に泊まったこと、富士山では砂走をものすごいスピードで走り下りたことが記憶に残ります。富士山は登る山でななく見る山と痛感し、自分の富士登山は後にも先にもその1回だけです。
富士山へは母も一緒でした。後年、ある出来事で母と祖父が絶縁状態になってしまったことが何とも残念ですが、基本的には「えっちゃん、えっちゃん」と義父である祖父からも可愛がってもらっていた母です。