アジアのやきもの
暖かくなったので古墳めぐり再開のつもりだったのですが、寒の戻りで美術館めぐりに変更、1月に訪ねたばかりの大和文華館へ。アジアのやきもの展開催中です。
藤田美術館の曜変天目や楽茶碗、東洋陶磁美術館の様々な天目茶碗や青磁白磁に惹かれ、広島県立美術館で柿右衛門様式の古伊万里に魅了され、どっぷり陶磁器の魅力にハマってしまいました。肥前有田の佐賀県立九州陶磁文花館は憧れの存在として、陶磁器の歴史や大系を学園前で学べそうです。
後漢代(1〜3世紀)の緑釉博山炉(13)。釉薬の起源は紀元前3500〜3000年頃の古代エジプトで、中国では紀元前1200〜1000年頃らしい(AIに訊いても諸説あり)。酸化鉛を主成分とする釉薬に呈色剤として酸化銅を加えると緑釉になります。博山炉は理想郷と考えられていた「博山」を象った香炉で下の皿は海、蓋の上には海鳥。
南北朝時代・東晋(4世紀頃)の青磁鉄斑文天鶏壺(14)は浙江省婺州窯(ぶしゅうよう)製の注ぎ口が鶏の頭の壺。青くないのですがこれも青磁。青磁とは、鉄分を含む釉薬をかけ、還元焼成(焼成中に窯内の酸素を意図的に減らし、不完全燃焼状態にする技法)で青〜青緑色に発色させた陶磁器ですが、胎土(素地)や釉の鉄分が多く、還元が弱く、焼成温度や還元の管理が未成熟な青磁史の初期のものらしい。
鉛釉は唐代にさらに洗練され、緑釉、褐釉、白幽などを掛けた唐三彩が盛んに焼かれています。この三彩壺(15)の白い斑点は、釉薬をかける前に置いた蝋を焼き飛ばす技法によるもの。
南宋時代(12〜13世紀)青磁鯱耳瓶(16)は東洋陶磁美術館の国宝飛青磁花生と同じ浙江省龍泉窯製。粉青色と呼ばれる青緑色の青磁釉が厚く掛けられ、日本へ鎌倉・室町時代にもたらされ「砧青磁」と呼ばれ珍重されてきたもの。
北宋(10〜12世紀)河北省定窯の白磁印花牡丹文鉢(17)は器を伏せて焼成しているため、口縁には金属の覆輪が付けられています。文様を彫ったスタンプを素地に押し付けてから焼く「印花」の技法が用いられ、牡丹文の周縁の文様は雷文、ラーメンどんぶりでもおなじみですが、中国では殷代の青銅器にも見られ、同時発生的に古代ギリシャの陶器にも見られGreek keyと呼ばれるらしい。
金代(13世紀)磁州窯の赤絵牡丹文小壺(18)、磁州窯 は河北・河南・山西に散在していた民窯の総称、赤絵とは釉をかけて焼き上げた後、赤色顔料のベンガラと鉛釉の上絵の具で文様を描き、再び焼いた陶磁器で、明代の五彩磁器の先駆をなすもの。
「大明弘治年(1488〜1505年)製」銘の景徳鎮窯、黄地青花花文皿(26)、透明釉を掛けて焼成した上に上絵付けしたものは中国では五彩、日本では色絵と呼ばれ、景徳鎮でも多様な作品が生み出されています。黄地青花は青花を焼成した後、文様のない白地部分に黄釉を塗り込み再度低火度で焼成。見込み中央はクチナシ、周囲はザクロ、柿、ブドウ、ハス。
「大明嘉靖年(1522〜1566年)製」銘の景徳鎮窯・黄地紅彩龍涛文壺(27)、まず磁胎に透明釉をかけ白磁にしてから、全面に黄釉をかけて焼成、濃い紅色で文様の輪郭や細部を描き、周囲を紅色で塗りつぶしてさらに焼成されているそうな。徹底的に手間をかけて生み出されたツヤツヤの美です。岩礁が突き出した荒海の霊芝雲が浮かぶ上空に皇帝が乗るための龍が舞ってます。官窯ではなく民窯の作品だそうで、高級感ある壺なのに龍がとぼけた表情です。
明代末期崇禎年間の景徳鎮窯・五彩兎鶴文皿「祥瑞」(28)、日本からの注文で造られた青花磁器の一種。上質な素地にコバルト顔料が用いられ鮮やかに発色し、細密な幾何学文様が描かれています。ネジバナ風に区画され七宝つなぎや亀甲文の幾何学文様の上に鶴、真ん中にウサギ、周囲は花卉文と幾何学文がシンメトリックに配置され、口縁には鉄釉(口紅)が施されています。同名の微妙に図柄が異なる作品が東博、京博、東京富士美術館、五島美術館に所蔵されているようです。
明代末期に景徳鎮に代わって輸出用陶磁器を盛んに生産した福建省漳州窯(しょうしゅうよう)の五彩双龍文大皿「呉須」(29)。中央に折枝文、その周囲に火炎宝珠と四爪の龍、側面に折枝文と山や楼閣が描かれています。奔放な絵付けが日本の茶人にも好まれたそうな。
景徳鎮窯「大清康煕年(1662〜1722年)製」銘の桃花紅合子(30)、桃花紅は官窯で用いられた銅を呈色剤とし、欧米ではPeach Bloomと呼ばれ、桃の花に例えられる柔らかな色合い紅釉の一種。香合や化粧品を入れる蓋付きの容器です。
同じく景徳鎮窯大清康煕年製の素三彩果文皿(31)、硬い磁器質の白磁の素地に直接、緑、黄、紫などの低火度鉛釉で焼成された素三彩。見込み全面にザクロ、桃などが鮮やかで、現代のものと見紛うほどモダンに見えます。
続いて6点のみベトナムのやきものが展示されていたのですが割愛。タイのやきものも所蔵されているものの2点しかないので展示していないとのこと。「アジアのやきもの」であればインド、イラン、イラクなどのやきものも含まれるはず、ここは「東アジアのやきもの」が適切だったかも。
日本のやきもの
漸く日本のやきものです。古墳〜飛鳥時代の43須恵器𤭯(41)、𤭯(はぞう)とは胴部に開けられた穴に竹などの管を挿入して、酒や水などを注ぐための器。
奈良時代の須恵器長頸壺(42)は朝鮮半島から伝わった窖窯(あながま、原始的な単室の薪窯)と轆轤成形で作られた須恵器ではあるものの、日本でしか見られない器形、高火度の還元焔焼成で固く焼き締められシャープに仕上げられています。
ここで須恵器と土師器の違いを復習。須恵器は朝鮮半島から渡来の技術で、窯を使って1100〜1200度以上の高温で焼成、青灰色で固くて丈夫、貯蔵用や祭祀用、高級な食器に用いられました。土師器は弥生土器の流れを汲む伝統技術、野焼きで800〜900度程度の低温焼成、赤褐色で脆く、日用の調理や食器です。
江戸時代前期萩焼の粉引盃(51)。萩焼は文禄・慶長の役の際に渡来した陶工・李勺光、李敬兄弟が萩藩の御用窯を開いたのが始まり。朝鮮半島のやきものの影響が強く、本品も朝鮮時代前期の粉青沙器(37)に倣ってもので、見込みの円形は重ねて焼く時に間に挟まれた粘土を取り除いた目跡で見事な景色になってます。萩焼は土に吸水性があり、使い込むうちに変化する風合いで茶人に好まれました。
そういえば自分が結婚式を挙げた時の引き出物が萩焼の珈琲茶碗セットだったことを思い出しました。この粉挽盃同様にザラッとして、それでいてツルッとした感じの青い珈琲茶碗でウチの中を探せばでてくるはず。
江戸時代前期唐津焼の鉄絵盃(52)、唐津焼も萩焼と同じく渡来した朝鮮陶工の技術で発展。本品は鉄絵具で文様が描かれた絵唐津。寛永年間作の灰釉流掛茶碗(53)、黒田長政の命で朝鮮陶工の八山が開窯した高取焼(福岡市早良区)、本品は胴の下部を素地のまま残し、上方は黄味を帯びた白濁釉にさらに白い白濁釉が流しかけられています。
さていよいよ有田(伊万里)焼です。初期伊万里の染付山水文大皿(54)。1610年代に朝鮮半島の技術が伝わり、肥前有田で国産の磁器が初めて焼かれます。有田の磁器は伊万里港から出荷されたため伊万里焼と呼ばれ、1630年頃までの伊万里は初期伊万里と呼ばれます。濃い青色に鮮やかに山水図が描かれた径45.4cmの大皿、初期伊万里の傑作で重要文化財。
江戸時代前期の古伊万里、色絵鷲文深皿(55)。1640年代には中国の技術を取り入れ様々な色絵具で上絵付けした色絵磁器が有田で生産されています。本品は上掲の祥瑞を手本とした祥瑞手の古伊万里、見込みに鷲、周囲は幾何学文様で区切られ、それぞれに異なる植物、外側の文様も粋です。
柿右衛門様式の色絵牡丹鳳凰文角銚子(56)。重厚な古九谷様式と異なり、乳白色の地、明るい色絵、余白のある構図の柿右衛門様式の磁器。中国の明末清初の動乱で中国磁器が入手困難になり、東インド会社が目をつけたのが伊万里焼。多くの伊万里焼がヨーロッパに輸出され、王侯貴族のステータスとなり、マイセンやデルフト窯などがその製法を模倣、後年には景徳鎮のChinese Imariまで登場しています。オランダだけに門戸が開かれていたにせよ、鎖国時代に輸出産業がビッグビジネスになっていたことに驚かされます。
ちなみに初期の色絵磁器は古九谷と呼ばれるものの、実は加賀の九谷で焼かれたのではなく、伊万里から加賀に持ち込まれたもの、という説が有力らしい。
江戸時代中期の柿右衛門様式の色絵菊花文八角瓶(57)。柿右衛門様式特有の温かみのある乳白色の白磁に赤と金の菊花文、胴は八角で細首が四角に変化しているのも面白い。
桃山〜江戸時代の黒楽茶碗(60)は京都で早くから手捏ねで整形され低火度で焼成された施釉陶器。天正年間に初代長次郎が千利休の創意を受けて製作、二代目常慶の時に豊臣秀吉から「楽」の印を受け家号に。
江戸時代前期清水焼の色絵松梅文徳利(61)。木製ではないかと思わせるような朽葉色の貫入(細かいひび割れ)のある釉薬が施され、下部には松と梅、上部には七宝、青海波、亀甲の有職文様。京都で焼かれた楽焼を除く陶磁器が京焼と呼ばれ、17世紀中頃に野々村仁清により上絵付けされた色絵陶器が完成、江戸時代前期の典雅な造形意匠の京焼陶器は古清水と呼ばれます。尾形乾山(光琳の弟)は仁清の後継者。本品に銘はなく作者は不明も、琳派を思わせる美しさです。
陶器中心の京焼も磁器中心の古伊万里から強く影響を受け、色絵の配色や吉祥文様などに反映されているようです。尾形光琳乾山合作の銹絵絵替角皿、楽長次郎や野々村仁清の香合を藤田美術館で見たばかりです。
天明年間頃の奥田頴川作、赤絵龍文柏葉形筆洗(64)は京焼の磁器。奥田頴川は京焼で磁器の焼成に初めて成功した陶工。茶道具よりも筆洗、水滴、香炉、花瓶など文人の机の上の器を多く作陶しています。
文化4〜5年青木木米作、加賀春日山窯の黒地色絵瓜桃文鉢(65)。京焼の名工・木米が加賀に招かれ春日山窯を築いた時の代表作、素地は白黒逆ですが、上掲の素三彩(31)に倣ったと思われるザクロの構図。
江戸時代末期赤膚焼の赤楽宝珠文茶碗(66)。赤膚焼は天正年間に豊臣秀長が常滑から陶工を呼んで奈良の赤膚山に窯を築かせたのが始まりで、諸国のやきものの写しを得意としつつ、奈良絵と称される素朴な絵付けのやきものを生み出し、小堀遠州が好んだ遠州七窯のひとつとされます。郡山藩主・柳沢保光が信楽や京都の陶工を呼んで再興、本品は郡山藩藩医の青木木兎の作。
赤膚山はここ大和文華館から僅か3kmほど南にあり、学園前駅からバスで10分強。赤膚焼の窯元は現在も受け継がれ、登り窯が残され、作品の購入や陶芸体験などもできるようです。
梅とも桜とも異なるピンクのボケ。もういちどアヤメ。
2時になったのでアジアのやきもの展にもどって、学芸員さんによる展示品解説、ガランとしていたのにいつ集まったのか30人くらいの参加者と一緒に、たっぷり1時間勉強させてもらいました。
90点の展示品から57点に自分なりの紹介文を認めました。展示品に添えられた解説カードと、学芸員さんの解説、それにAIに訊いたことを自分なりにまとめ、自分の感想も交えたものです。やきものにハマったばかりの自分が、がんばって陶芸の専門用語を使って焼成温度や釉薬の違いまで突っ込まざるをえなかったのですが、間違った理解も少なくないかと。間違いを見つけたらぜひ教えて下さい。陶芸技法とかの理解は甚だ覚束ないものの、今後東洋陶磁美術館や藤田美術館を訪ねる時の視点が変わってきそうです。
竹の中庭は展示品を自然光で鑑賞するためらしい。展示内容によってはカーテンを下ろすこともできるようです。
この前は厚い扉が閉められていた講堂の扉が開かれていて、何やらセミナーを開催中、自分と同世代らしき聴講者たいっぱいでビックリ。外に出ると奈良交通の観光バスが3台もとまっていて、「奈良大学通信教育部」とありました。調べてみると文化財歴史学科の単科で、博物館学芸員の資格も取得できるらしい。いわゆる生涯学習を目指す高齢者をターゲットにしたカリキュラムですが、これはありだと思います。
蛙股池
大和文華館のテラスから見えた蛙股池の橋へ。この前鉄斎さんの掛け軸を鑑賞した中野美術館、今日は休館のようです。この先を蛙股池の橋まで抜けられるとGoogle Mapでは出てきたのですが、道路はフェンスで封鎖されていました。
5分で行けるところを住宅街の坂道を上り下りして10分以上かけて遠回りするとあやめ池小学校。あやめ池ではなく蛙股池の畔です。
くの字型の蛙股池の大和文華館から見えない側、ナポレオン鴨ことヨシガモが泳いでました。ミコアイサ♀とハシビロガモも。くの字型はカエルの脚のようにも見え、これが風変わりな池の名前の由来かと。