アジアのやきもの

暖かくなったので古墳めぐり再開のつもりだったのですが、寒の戻りで美術館めぐりに変更、1月に訪ねたばかりの大和文華館へ。アジアのやきもの展開催中です。

藤田美術館の曜変天目や楽茶碗、東洋陶磁美術館の様々な天目茶碗や青磁白磁に惹かれ、広島県立美術館で柿右衛門様式の古伊万里に魅了され、どっぷり陶磁器の魅力にハマってしまいました。肥前有田の佐賀県立九州陶磁文花館は憧れの存在として、陶磁器の歴史や大系を学園前で学べそうです。

学園前駅を南口を出ると大和文華館、北口を出てバスに乗ると松伯美術館、どちらも近鉄運営の美術館です。

iPhoneで撮った木の根っこに止まっていたツグミ、なんか元気無い声で鳴いてました。

チケットを買って園内の坂道を上がると海鼠壁の美術館。坂道右手にユキヤナギ、左手には白梅。

さらに紅梅、だいぶ色が薄くなっているもののロウバイもまだ花を残していました。

展示室に入ると独立した展示ケースが3つ。

その3点です。有田焼の染付唐草文水指(写真8)、朝鮮半島から伝えられたばかりの磁器の技術で焼成された1630年代以前の初期伊万里。磁器としては厚手で軽やかさが感じられません。

明代初期景徳鎮窯の青花双魚文大皿(9)は白磁にコバルト顔料で絵付けし透明釉をかけて焼かれた青花磁器。元時代の景徳鎮窯で本格的に始められた技法で、世界中に広く伝わり、ロイヤルコペンハーゲンもそのひとつ。

朝鮮時代17世紀京畿道広州郡窯の鉄砂青花葡萄文大壺(10)、清朝との関係悪化でコバルト原料が入手困難になった時期の青花磁器。鉄絵具が主体で葉脈のみが青花と説明があるものの自分の目では青は確認できず。

中国のやきもの

地域別時代順に並べられていて最初の殷代(紀元前1600年頃)の灰陶鬹(11)、21画の鬹(き)は規の下に鬲(れき)、鬲は「かなえ」とも読み、三本足の器。青銅器の鬲を奈良博で見たことがあります。鬹は鬲に注ぎ口と取っ手が付いたもので、展示品の欠けてしまっている上部に大きな注ぎ口があったはずです。福岡市美術館に完全な形のものを見つけました。

続いて殷代でも少し時代が下った紀元前13〜11世紀の黒陶朱彩饕餮文鐃(12)、側面に殷代の青銅器でおなじみの饕餮文(とうてつもん)が描かれています。鐃(どう)は「どら」、本来は楽器ですが、土器なのでガーンとかゴーンとかじゃなくてたぶんチーン。

後漢代(1〜3世紀)の緑釉博山炉(13)。釉薬の起源は紀元前3500〜3000年頃の古代エジプトで、中国では紀元前1200〜1000年頃らしい(AIに訊いても諸説あり)。酸化鉛を主成分とする釉薬に呈色剤として酸化銅を加えると緑釉になります。博山炉は理想郷と考えられていた「博山」を象った香炉で下の皿は海、蓋の上には海鳥。

南北朝時代・東晋(4世紀頃)の青磁鉄斑文天鶏壺(14)は浙江省婺州窯(ぶしゅうよう)製の注ぎ口が鶏の頭の壺。青くないのですがこれも青磁。青磁とは、鉄分を含む釉薬をかけ、還元焼成(焼成中に窯内の酸素を意図的に減らし、不完全燃焼状態にする技法)で青〜青緑色に発色させた陶磁器ですが、胎土(素地)や釉の鉄分が多く、還元が弱く、焼成温度や還元の管理が未成熟な青磁史の初期のものらしい。

鉛釉は唐代にさらに洗練され、緑釉、褐釉、白幽などを掛けた唐三彩が盛んに焼かれています。この三彩壺(15)の白い斑点は、釉薬をかける前に置いた蝋を焼き飛ばす技法によるもの。

南宋時代(12〜13世紀)青磁鯱耳瓶(16)は東洋陶磁美術館の国宝飛青磁花生と同じ浙江省龍泉窯製。粉青色と呼ばれる青緑色の青磁釉が厚く掛けられ、日本へ鎌倉・室町時代にもたらされ「砧青磁」と呼ばれ珍重されてきたもの。

北宋(10〜12世紀)河北省定窯の白磁印花牡丹文鉢(17)は器を伏せて焼成しているため、口縁には金属の覆輪が付けられています。文様を彫ったスタンプを素地に押し付けてから焼く「印花」の技法が用いられ、牡丹文の周縁の文様は雷文、ラーメンどんぶりでもおなじみですが、中国では殷代の青銅器にも見られ、同時発生的に古代ギリシャの陶器にも見られGreek keyと呼ばれるらしい。

金代(13世紀)磁州窯の赤絵牡丹文小壺(18)、磁州窯 は河北・河南・山西に散在していた民窯の総称、赤絵とは釉をかけて焼き上げた後、赤色顔料のベンガラと鉛釉の上絵の具で文様を描き、再び焼いた陶磁器で、明代の五彩磁器の先駆をなすもの。

南宋時代(12〜13世紀)吉州窯の黒釉木葉天目碗(19)。同じ木葉天目が2つもあってひとつは重要文化財の東洋陶磁美術館のものと較べると、この木葉天目は葉っぱの先端が折れ曲がっているのが残念。やはり重文の木葉が圧倒的に美しいものの、この木葉からは当時の職人の苦労を感じさせられます。

同じく吉州窯の玳玻釉碗(20)、東洋陶磁美術館の玳玻天目に対し天目茶碗とはされていないようです。天目茶碗としては深すぎて、等間隔にドットが並ぶばかりの玳玻(たいは、べっ甲色の文様)は美しくなく、天目茶碗ならでは自然の技と人間の技の融合が感じられません。

ここから景徳鎮窯です。最初は北宋時代(10〜12世紀)の青白磁雕花小碗(21)。青白磁は釉薬に含まれた微妙な鉄分によって淡い青みを帯びた白磁。文様の部分に溜まった釉薬の青みにでています。

釉裏紅鳳凰文瓶(22)は釉薬の下に彩色のある釉下彩のひとつ。酸化銅を呈色剤として還元炎焼成して、緑ではなく紅色に発色させた釉裏紅、辰砂とも呼ばれます。鳳凰文と雲文を線刻し、文様の外側に酸化銅を含む顔料を施し、その上から透明釉で青みが出されています。

元後期景徳鎮窯の釉裏紅鳳凰文梅瓶(23)も釉裏紅で暗い紅色の文様が表わされているものの、一部は釉裏紅の発色が不安定で文様が飛んでいる部分があります。胴下部はラマ式の蓮弁文、中央は牡丹文と菊文に線刻の鳳凰、肩部は如意頭形の枠取りで上下に分けられ、下方は牡丹文、上方は雲文に線刻された鶴。

「大明宣徳年(1416〜1453年)製」と銘のある明代景徳鎮窯の青花牡丹唐草文面盆(24)、イスラム圏からもたらされたコバルト顔料を呈色剤とした牡丹唐草文の洗面器。

中庭の竹が映り込んだガラス越しに景徳鎮窯の磁器たち。

「大明弘治年(1488〜1505年)製」銘の景徳鎮窯、黄地青花花文皿(26)、透明釉を掛けて焼成した上に上絵付けしたものは中国では五彩、日本では色絵と呼ばれ、景徳鎮でも多様な作品が生み出されています。黄地青花は青花を焼成した後、文様のない白地部分に黄釉を塗り込み再度低火度で焼成。見込み中央はクチナシ、周囲はザクロ、柿、ブドウ、ハス。

「大明嘉靖年(1522〜1566年)製」銘の景徳鎮窯・黄地紅彩龍涛文壺(27)、まず磁胎に透明釉をかけ白磁にしてから、全面に黄釉をかけて焼成、濃い紅色で文様の輪郭や細部を描き、周囲を紅色で塗りつぶしてさらに焼成されているそうな。徹底的に手間をかけて生み出されたツヤツヤの美です。岩礁が突き出した荒海の霊芝雲が浮かぶ上空に皇帝が乗るための龍が舞ってます。官窯ではなく民窯の作品だそうで、高級感ある壺なのに龍がとぼけた表情です。

明代末期崇禎年間の景徳鎮窯・五彩兎鶴文皿「祥瑞」(28)、日本からの注文で造られた青花磁器の一種。上質な素地にコバルト顔料が用いられ鮮やかに発色し、細密な幾何学文様が描かれています。ネジバナ風に区画され七宝つなぎや亀甲文の幾何学文様の上に鶴、真ん中にウサギ、周囲は花卉文と幾何学文がシンメトリックに配置され、口縁には鉄釉(口紅)が施されています。同名の微妙に図柄が異なる作品が東博、京博、東京富士美術館、五島美術館に所蔵されているようです。

明代末期に景徳鎮に代わって輸出用陶磁器を盛んに生産した福建省漳州窯(しょうしゅうよう)の五彩双龍文大皿「呉須」(29)。中央に折枝文、その周囲に火炎宝珠と四爪の龍、側面に折枝文と山や楼閣が描かれています。奔放な絵付けが日本の茶人にも好まれたそうな。

景徳鎮窯「大清康煕年(1662〜1722年)製」銘の桃花紅合子(30)、桃花紅は官窯で用いられた銅を呈色剤とし、欧米ではPeach Bloomと呼ばれ、桃の花に例えられる柔らかな色合い紅釉の一種。香合や化粧品を入れる蓋付きの容器です。

同じく景徳鎮窯大清康煕年製の素三彩果文皿(31)、硬い磁器質の白磁の素地に直接、緑、黄、紫などの低火度鉛釉で焼成された素三彩。見込み全面にザクロ、桃などが鮮やかで、現代のものと見紛うほどモダンに見えます。


続いて6点のみベトナムのやきものが展示されていたのですが割愛。タイのやきものも所蔵されているものの2点しかないので展示していないとのこと。「アジアのやきもの」であればインド、イラン、イラクなどのやきものも含まれるはず、ここは「東アジアのやきもの」が適切だったかも。

蛙股池に面したテラスの眺め、あとで池の向こうに見える橋へ行ってみるつもりです。

朝鮮のやきもの

朝鮮半島には原三国時代(紀元前1〜3世紀)に中国から轆轤と窯の技術が伝わり、高句麗・百済・新羅の三国時代(4〜7世紀)には低下度の鉛釉陶も作られています。垂飾盃(33)は新羅の盃。

統一新羅時代、7世紀後期の製作と考えられる印花文細頸壺(34)、スタンプで押捺して文様(印花文)が施されています。

高麗・全羅南道康津郡出土の重要文化財 青磁九龍浄瓶(35)は高麗青磁最盛期の浄瓶。波濤の上に精緻な9頭の龍、よくぞ欠けずに残されたものだと思う。

13世紀頃高麗・全羅南道康津郡窯の青磁鉄絵孔雀牡丹文梅瓶(36)、酸化銅を含んだ絵具で釉下に絵付けした鉄絵で牡丹の折枝文、孔雀、蝶が描かれ、灰色の胎土に黄色みを帯びた青磁釉。鉄絵は中国では黒花、朝鮮半島では鉄砂、日本では銹絵とも呼ばれます。

15世紀の粉青象嵌蓮池三魚文扁壺(37)、日本では三島手と呼ばれる、灰色の素地に白土で装飾し青灰色の透明釉を掛けた粉青沙器。扁壷とは、轆轤成形の後に胴部を整形したもの。波の上の3匹の魚はトビウオでしょうか。

忠清南道鶏龍山窯の粉青鉄絵柳鳥文瓶(38)も三島手。 鉄絵で柳にとまる鳥たち。

18世紀京畿道金沙里窯の辰砂蓮華文八角瓶(39)、辰砂(釉裏紅)は釉の下に銅を呈色剤として紅色を表ししたもの。辰砂で描かれているのは鳥ではなく、大輪の蓮華。

19世紀京畿道分院里窯の白磁青花彩陽刻十長生文六角瓶(40)、移転を繰り返していた朝鮮王朝の官窯は、漢江の水運が発達したことにより分院里窯に固定され、青花や鉄砂、辰砂に透し彫り、浮彫などを用いて多様な白磁が製作され爛熟期を迎えます。六角形に面取りされた白磁の瓶に青花で十長生文(長寿のシンボルである日、山、水、石、雲、松、不老草、鶴、亀、鹿の吉祥文様)。

日本のやきもの

漸く日本のやきものです。古墳〜飛鳥時代の43須恵器𤭯(41)、𤭯(はぞう)とは胴部に開けられた穴に竹などの管を挿入して、酒や水などを注ぐための器。

奈良時代の須恵器長頸壺(42)は朝鮮半島から伝わった窖窯(あながま、原始的な単室の薪窯)と轆轤成形で作られた須恵器ではあるものの、日本でしか見られない器形、高火度の還元焔焼成で固く焼き締められシャープに仕上げられています。

ここで須恵器と土師器の違いを復習。須恵器は朝鮮半島から渡来の技術で、窯を使って1100〜1200度以上の高温で焼成、青灰色で固くて丈夫、貯蔵用や祭祀用、高級な食器に用いられました。土師器は弥生土器の流れを汲む伝統技術、野焼きで800〜900度程度の低温焼成、赤褐色で脆く、日用の調理や食器です。

奈良三彩ではなく奈良二彩碗(43)、奈良時代から平安時代初期に低火度の鉛釉陶で唐三彩も模した技法、本品の金継ぎは明治時代の漆芸家・蒔絵師、小川松民によるもの。

平安時代〜鎌倉時代の猿投窯(愛知県)伝猿投山窯址出土の山茶碗(44)、山茶碗とは猿投窯など灰釉陶を焼いていた窯で平安時代末期より製産されるようになった無釉の日用雑器類。

鎌倉時代瀬戸焼の灰釉印花巴文瓶子(45)、スタンプを押す印花の手法で巴文が全体に表され、褐緑色の灰釉が流れ落ちています。瀬戸焼は現代まで続く日本六古窯のひとつ。日本の中世において唯一施釉陶器を焼成し続けています。

鎌倉時代常滑焼の灰釉壺(46)、瀬戸焼を除く日本の中世のやきものは人工的に釉薬を施さず高温焼成した焼締陶が主力で、粘土紐の巻き上げ成形に戻り、やや歪な器体に、素地と灰の成分が高火度で溶解した自然釉が無作為にかかった壺や亀など、素朴な実用品が多数製産されています。

鎌倉時代丹波焼の灰釉壺(47)、高さ49cmの特大壺。

室町時代信楽焼の檜垣彫文壺(48)、信楽では鎌倉時代に常滑焼の影響を受け焼締陶を焼成、室町時代には独自の特徴が開花し、本品のように桧垣文を刻んだ檜垣文壺は信楽独自。信楽で茶陶が作られるようになるのは室町時代末以降。丹波焼も信楽焼も日本六古窯のひとつ。瀬戸、常滑、丹波、信楽の他、あとふたつの日本六古窯は越前と備前。

桃山時代美濃焼の志野柳文鉢(49)、中国陶磁器の写しから脱した志野焼や織部焼が登場。白土の素地に長石の白濁釉を掛けた志野焼の釉下に、鉄絵で絵付けされたものは絵志野と呼ばれる。

志野焼に続いて美濃で焼かれた織部焼の黒織部沓茶碗(50)、戦国武将で茶人の古田織部の好みから名付けられています。歪んだ作為性の強い器形に漆黒の黒釉を大胆にかけて、口縁に白い筋を回し、側面には釘彫で力強い格子文。

江戸時代前期萩焼の粉引盃(51)。萩焼は文禄・慶長の役の際に渡来した陶工・李勺光、李敬兄弟が萩藩の御用窯を開いたのが始まり。朝鮮半島のやきものの影響が強く、本品も朝鮮時代前期の粉青沙器(37)に倣ってもので、見込みの円形は重ねて焼く時に間に挟まれた粘土を取り除いた目跡で見事な景色になってます。萩焼は土に吸水性があり、使い込むうちに変化する風合いで茶人に好まれました。

そういえば自分が結婚式を挙げた時の引き出物が萩焼の珈琲茶碗セットだったことを思い出しました。この粉挽盃同様にザラッとして、それでいてツルッとした感じの青い珈琲茶碗でウチの中を探せばでてくるはず。

江戸時代前期唐津焼の鉄絵盃(52)、唐津焼も萩焼と同じく渡来した朝鮮陶工の技術で発展。本品は鉄絵具で文様が描かれた絵唐津。寛永年間作の灰釉流掛茶碗(53)、黒田長政の命で朝鮮陶工の八山が開窯した高取焼(福岡市早良区)、本品は胴の下部を素地のまま残し、上方は黄味を帯びた白濁釉にさらに白い白濁釉が流しかけられています。

さていよいよ有田(伊万里)焼です。初期伊万里の染付山水文大皿(54)。1610年代に朝鮮半島の技術が伝わり、肥前有田で国産の磁器が初めて焼かれます。有田の磁器は伊万里港から出荷されたため伊万里焼と呼ばれ、1630年頃までの伊万里は初期伊万里と呼ばれます。濃い青色に鮮やかに山水図が描かれた径45.4cmの大皿、初期伊万里の傑作で重要文化財。

江戸時代前期の古伊万里、色絵鷲文深皿(55)。1640年代には中国の技術を取り入れ様々な色絵具で上絵付けした色絵磁器が有田で生産されています。本品は上掲の祥瑞を手本とした祥瑞手の古伊万里、見込みに鷲、周囲は幾何学文様で区切られ、それぞれに異なる植物、外側の文様も粋です。

柿右衛門様式の色絵牡丹鳳凰文角銚子(56)。重厚な古九谷様式と異なり、乳白色の地、明るい色絵、余白のある構図の柿右衛門様式の磁器。中国の明末清初の動乱で中国磁器が入手困難になり、東インド会社が目をつけたのが伊万里焼。多くの伊万里焼がヨーロッパに輸出され、王侯貴族のステータスとなり、マイセンやデルフト窯などがその製法を模倣、後年には景徳鎮のChinese Imariまで登場しています。オランダだけに門戸が開かれていたにせよ、鎖国時代に輸出産業がビッグビジネスになっていたことに驚かされます。

ちなみに初期の色絵磁器は古九谷と呼ばれるものの、実は加賀の九谷で焼かれたのではなく、伊万里から加賀に持ち込まれたもの、という説が有力らしい。

江戸時代中期の柿右衛門様式の色絵菊花文八角瓶(57)。柿右衛門様式特有の温かみのある乳白色の白磁に赤と金の菊花文、胴は八角で細首が四角に変化しているのも面白い。

元禄年間頃の色絵ローマ字入把手瓶(58)は柿右衛門様式に代わって台頭した金彩を加えた金襴手。胴に「A」が描かれているのはオランダ語のazijn(酢)の意味、つまりヨーロッパの食卓の酢入れ。18世紀半ば以降中国磁器の輸出が盛り返し、伊万里焼の輸出は途切れたらしい。

色絵紐文皿(59)は有田を治める鍋島藩の藩窯で焼かれた献上用の鍋島焼。一見大胆なモダンデザインかと思いきや、よく見ると青と赤は組紐で、組紐の網目や房が微細に描き込まれていてビックリ。

桃山〜江戸時代の黒楽茶碗(60)は京都で早くから手捏ねで整形され低火度で焼成された施釉陶器。天正年間に初代長次郎が千利休の創意を受けて製作、二代目常慶の時に豊臣秀吉から「楽」の印を受け家号に。 

江戸時代前期清水焼の色絵松梅文徳利(61)。木製ではないかと思わせるような朽葉色の貫入(細かいひび割れ)のある釉薬が施され、下部には松と梅、上部には七宝、青海波、亀甲の有職文様。京都で焼かれた楽焼を除く陶磁器が京焼と呼ばれ、17世紀中頃に野々村仁清により上絵付けされた色絵陶器が完成、江戸時代前期の典雅な造形意匠の京焼陶器は古清水と呼ばれます。尾形乾山(光琳の弟)は仁清の後継者。本品に銘はなく作者は不明も、琳派を思わせる美しさです。

陶器中心の京焼も磁器中心の古伊万里から強く影響を受け、色絵の配色や吉祥文様などに反映されているようです。尾形光琳乾山合作の銹絵絵替角皿、楽長次郎や野々村仁清の香合を藤田美術館で見たばかりです。

江戸時代中期、讃岐理平焼の色絵扇面文六角鉢(62)。高松藩が京都粟田口の陶工森島作兵衛を招き判定内で小窯を築き作らせた御庭焼、、作兵衛が紀太理兵衛と改名したので理平焼と呼ばれる色絵陶器。

江戸時代後期、薩摩焼の色絵金彩菊草花文茶碗(63)。文禄・慶長の役の際、島津義弘が朝鮮人陶工を連れて帰国し窯を気づかせたのが始まりとされる薩摩焼、江戸時代後期には京焼から色絵の技法を学び、ふんだんに金彩を加えた金襴手と呼ばれる華麗な色絵陶器が発展。

天明年間頃の奥田頴川作、赤絵龍文柏葉形筆洗(64)は京焼の磁器。奥田頴川は京焼で磁器の焼成に初めて成功した陶工。茶道具よりも筆洗、水滴、香炉、花瓶など文人の机の上の器を多く作陶しています。

文化4〜5年青木木米作、加賀春日山窯の黒地色絵瓜桃文鉢(65)。京焼の名工・木米が加賀に招かれ春日山窯を築いた時の代表作、素地は白黒逆ですが、上掲の素三彩(31)に倣ったと思われるザクロの構図。

江戸時代末期赤膚焼の赤楽宝珠文茶碗(66)。赤膚焼は天正年間に豊臣秀長が常滑から陶工を呼んで奈良の赤膚山に窯を築かせたのが始まりで、諸国のやきものの写しを得意としつつ、奈良絵と称される素朴な絵付けのやきものを生み出し、小堀遠州が好んだ遠州七窯のひとつとされます。郡山藩主・柳沢保光が信楽や京都の陶工を呼んで再興、本品は郡山藩藩医の青木木兎の作。

赤膚山はここ大和文華館から僅か3kmほど南にあり、学園前駅からバスで10分強。赤膚焼の窯元は現在も受け継がれ、登り窯が残され、作品の購入や陶芸体験などもできるようです。

文華苑

1時を回ったところです。2時から展示品解説との案内があり、大和文華館庭園・文華苑で梅見して時間をつぶすことにしました。海鼠壁の建物を出たところ砂利敷の隅っこに青い花、アヤメです。梅林の坂道を下るとツバキ。

たわわに実った橘をバックに内裏梅。

黄色い花はサンシュユ、満開の梅は遅咲きの代表格の摩耶紅梅。

一つの枝に紅梅と白梅を咲き分ける思いのまま。

ひとつの花で紅い花びらと白い花びらの思いのまま。

梅とも桜とも異なるピンクのボケ。もういちどアヤメ。

2時になったのでアジアのやきもの展にもどって、学芸員さんによる展示品解説、ガランとしていたのにいつ集まったのか30人くらいの参加者と一緒に、たっぷり1時間勉強させてもらいました。 

90点の展示品から57点に自分なりの紹介文を認めました。展示品に添えられた解説カードと、学芸員さんの解説、それにAIに訊いたことを自分なりにまとめ、自分の感想も交えたものです。やきものにハマったばかりの自分が、がんばって陶芸の専門用語を使って焼成温度や釉薬の違いまで突っ込まざるをえなかったのですが、間違った理解も少なくないかと。間違いを見つけたらぜひ教えて下さい。陶芸技法とかの理解は甚だ覚束ないものの、今後東洋陶磁美術館や藤田美術館を訪ねる時の視点が変わってきそうです。

竹の中庭は展示品を自然光で鑑賞するためらしい。展示内容によってはカーテンを下ろすこともできるようです。

この前は厚い扉が閉められていた講堂の扉が開かれていて、何やらセミナーを開催中、自分と同世代らしき聴講者たいっぱいでビックリ。外に出ると奈良交通の観光バスが3台もとまっていて、「奈良大学通信教育部」とありました。調べてみると文化財歴史学科の単科で、博物館学芸員の資格も取得できるらしい。いわゆる生涯学習を目指す高齢者をターゲットにしたカリキュラムですが、これはありだと思います。

蛙股池

大和文華館のテラスから見えた蛙股池の橋へ。この前鉄斎さんの掛け軸を鑑賞した中野美術館、今日は休館のようです。この先を蛙股池の橋まで抜けられるとGoogle Mapでは出てきたのですが、道路はフェンスで封鎖されていました。

5分で行けるところを住宅街の坂道を上り下りして10分以上かけて遠回りするとあやめ池小学校。あやめ池ではなく蛙股池の畔です。

くの字型の蛙股池の大和文華館から見えない側、ナポレオン鴨ことヨシガモが泳いでました。ミコアイサ♀とハシビロガモも。くの字型はカエルの脚のようにも見え、これが風変わりな池の名前の由来かと。

蛙股池畔に立つあやめ池神社です。WikiPediaでは元禄期の創建とありますが、それよりずっと古い可能性が高そうです。狭山池の項で触れたように、蛙股池は日本書紀で推古天皇の時に造成された5つの池のひとつの菅原池と考えられ、この神社はその守護神として創祀されたと伝わります。あやめ池神社という呼称は、どうやら大正15年に開園したあやめ池遊園地であやめ池が有名になって以降のもとらしく、それ以前はどうやら単に池神社と呼ばれていたらしい。

境内に羽虫がいっぱい飛んでいたので入るのは止めておきました。橋はあやめ新橋という名前で架替工事中

日本最古のため池ともされる蛙股池に架かるあやめ新橋から大和文華館のテラスを確認できました。

中野美術館からの道はやはり閉鎖されていて平坦な道を5分ではなく、アップダウンの道を10分以上かけて遠回りする他なかったことを確認。

あやめ池駅です。北口を出てすぐにあったあやめ池遊園地は平成16年に閉園。遊園地のあった池はあやめ池ではなく菖蒲北池という名前と分かりました。

区間準急で帰り、布施で途中下車。いつもの小西商店で八尾の若ごぼうのきんぴらをアテにいっぱいひっかけて、日本最古の回転寿司である元禄寿司本店。美味しそうな皿に混じって、あまり美味しくなさそうな皿が回ってきました。