百人一首と肉筆美人画
もうすぐお正月、ということで百人一首探訪で嵐山へ。
宝塚線星のカービィと並走し、十三には9000系神戸線特急と3本同時に到着。
阪急嵐山駅より阪急嵐山駅前バス停にほど近い、Google Map★4.9のお寿司屋さんでランチ。暖簾も看板もないのですが、この店かなと覗いてみたら、中の人(大将)と目があって招き入れられました。シャッターの下りてるビューティーショップ隣です。
メニューはにぎり7貫1000円のみ。穴子とタコとマグロとサーモンにはタレが塗ってあって、右端のしょうが一切れはエビとホタテとイカに醤油を塗るため、左端のしょうがは食べる用とのこと。穴子は炙りたて。極端にひっそりした店構えに反して話し好きの大将、大悲閣へ出前した時の話が面白かった。
百人一首ヒストリー
常設展の「百人一首ヒストリー」。紅葉百人一首姫鑑(ひめかがみ、文化10年、1813年)は女性のための指南書、周りは17~19世紀の百人一首97番権中納言定家の札ばかりが並べられています。
小倉山荘藤原定家詠歌之図(17~18世紀)、作者は不明。藤原定家の山荘時雨亭は現在の常寂光寺の境内にあったと2年前のブログに書いてます。文暦2年(1235年)、定家が息子の妻の父、宇都宮頼綱から嵯峨の山荘に飾る色紙の制作を頼まれたのが、百人一首の原形とされる「小倉色紙」だそうです。どうやら時雨亭=小倉山荘らしい。
百人一首が脚光を浴び始めるのは小倉色紙誕生から二百年後の室町時代、連歌師の飯尾宗祇が小倉色紙を譲り受け、藤原定家につながる二条流歌道の継承者となり、権威付けされ、百人一首もその地位を高めます。江戸時代初期にかけて古今伝授と呼ばれる和歌の学問体系が確立してく中で、百人一首は入門書として存在感を増します。
百人一首がかるたの形になったのは江戸時代初期のようです。ポルトガルからもたらせれたCartaに由来し、和歌の上の句と下の句を分けて2枚1組にした歌かるたが作られるようになり、古今和歌集や伊勢物語、源氏物語などの王朝文学の和歌による歌かるたも作られたものの、圧倒的に普及したのは百人一首。
上の句と歌人名の読み札だけでなく、下の句の取り札も金箔の豪華な江戸時代の手書きかるた、その56番和泉式部です。
われても末にあわむとぞ思う、「せおはやみ」の落語でもおなじみの崇徳院、保元の乱で敗れ讃岐に流され怨霊になった悲劇の帝です。乱れてけさは物をこそ思へ 待賢門院堀河は鳥羽天皇中宮の待賢門院に出仕していた女房。大好きな西行さんはアップで。
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
いずれも平家物語の登場人物です。しづこころなくはなのちるらむ、お正月に母の実家に皆が集まった時に、読み手をしていた母の声が聞こえてきそうです。この美術館に案内すればさぞ喜んでくれたかと。
どのフィギュアもその歌の意味や作者の人物像を深く理解した上で、高いデザイン力と造形力をもってして作られたすばらしい作品群、海洋堂のフィギュアともまた違った叙情的な趣が感じられます。
予想を遥かに超えて見どころいっぱいの嵯峨嵐山文華館、特に清潔感がずば抜けていてとても快適に鑑賞できました。江戸時代の浮世絵だけでなく、上村松園とか明治から昭和の美人画にも俄然興味が出てきました。元任天堂社長の山内溥氏が私財を投じて設立された「百人一首殿堂 時雨殿」を改装して2018年にオープンした施設で、今は任天堂からは離れているものの、任天堂では今も小倉百人一首が販売されています。
企画展の浮世絵は全てすぐ近くにある福田美術館の所蔵品、企画展自体福田美術館との共催らしく、福田美術館と共通券も販売されていたのに、百人一首フィギュアを見るのが目的だったので嵯峨嵐山文華館だけにしたのですが、もっと上村松園を見たかったと思う一方、次の楽しみができたとも思います。
帰りがけに学芸員さんらしき女性を見つけ、百人一首フィギュアの作者は誰なのかを訊ねてみたところ、ヤマネという会社だと教えてくれました。調べてみると豊中にある模型製作会社で、嵯峨嵐山文華館の歌仙人形は同社の作品であることが記されていました。京阪電車のHOゲージ模型なども手掛ける一方、何と、近つ飛鳥博物館の仁徳天皇陵の巨大ジオラマや、弥生文化博物館の卑弥呼の館、奈良市役所の平城京ジオラマもこの会社の作品でビックリ。
祇園井特のフリーダ・カーロに見送られ、百人一首に絡めて小倉山を見に行くととにします。まだ紅葉が残る嵯峨野です。
紫式部、めぐり逢ひて見しやそれとも分わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな
藤原清辅朝臣、ながらへばまたこのごろや忍ばれむ憂しと見し世ぞ今はこひしき
小倉百人一首歌碑MAPによると、ここ長神の杜に19首、亀山公園に49首。