百人一首と肉筆美人画

もうすぐお正月、ということで百人一首探訪で嵐山へ。

阪急梅田駅1号線で次の特急を待っていたら、3号線の北千里行普通、5号線の宝塚線急行の両側ドアが解放され、9号戦の神戸線特急まで見通せました。

9300系には既に初詣のヘッドマーク。

宝塚線星のカービィと並走し、十三には9000系神戸線特急と3本同時に到着。

愛宕山は山頂付近に積雪、比叡山は冬山の様相。

阪急嵐山駅より阪急嵐山駅前バス停にほど近い、Google Map★4.9のお寿司屋さんでランチ。暖簾も看板もないのですが、この店かなと覗いてみたら、中の人(大将)と目があって招き入れられました。シャッターの下りてるビューティーショップ隣です。

メニューはにぎり7貫1000円のみ。穴子とタコとマグロとサーモンにはタレが塗ってあって、右端のしょうが一切れはエビとホタテとイカに醤油を塗るため、左端のしょうがは食べる用とのこと。穴子は炙りたて。極端にひっそりした店構えに反して話し好きの大将、大悲閣へ出前した時の話が面白かった。

桂川にカワアイサ。急な流れに流されてきます。ようやく急な流れから脱出。

今日の目的地は公益財団法人小倉百人一首文化財団が運営する嵯峨嵐山文華館。

以下撮影した絵画の写真は画角の補正やトリミングをしています。

べらぼうな浮世に美人咲き誇る

企画展「浮世絵と美人画の軌跡」の第1章「べらぼうな浮世に美人咲き誇る」。文使い図屏風(作者不詳、17世紀)、童女が届けてくれた想い人からの手紙に心ときめかせる遊女、その気持ちのワクワク感が着物の弾む手毬で表されているらしい。江戸時代初期まで帯は腰の低い位置、ねねさんや淀君の帯はこの位置。

立美人図(長陽堂安知、18世紀)、遊女や花魁ではない垂髪、ずいぶん存在感を感じさせる女性です。

二美人と念仏法師図(作者不詳、17世紀)は仏の弟子を誘惑するふたりの遊女の図。

三美人双六遊戯図(月斎峨眉丸、18~19世紀)、市井の美女の双六対決を団扇での軍配で仕切る行司役の花魁。

花魁と禿図(宮川一笑、18世紀)。唐代の伝説の詩僧を美人画に仕立てた、見立て寒山拾得図(川又常正、18世紀)。帯の位置は腰の上に、歌麿の絵の女性たちもこの位置。

伎芸天図(今尾景年、19世紀)は花鳥画の巨匠が遊女を伎芸天に見立てて描いた作品。

京妓美人図(祇園井特、18~19世紀)、本展覧会のシンボルになっている作品です。祇園井特(せいとく)は井筒屋という遊郭の経営者だったらしい。フリーダ・カーロのような太い眉に惹かれます。この眉や髪の生え際や、べっ甲のかんざしの透明感は、版画では表現しきれない肉筆画ならではの優美さです。

ニュルンベルクの衣装(桂川甫賢、19世紀)、モデルはドイツ人の美人画。桂川甫賢はシーボルト弟子の蘭方医。描き込まれた横文字はDragt van Neurenberg、ドイツ語じゃなくてオランダ語らしい。

「江戸時代の美人画におけるファッション」のパネル、展示されている作品ので髪型や着物の柄、帯など流行の変遷とメイクについてわかりやすく解説されています。

おおっ、円山応挙の美人図(18世紀)です。賛は儒学者の皆川淇園。着物の柄は応挙ならではの写生。

雪月花(蹄斎北馬、19世紀)、花見、月見、雪見に興じる美人たち。蹄斎北馬は葛飾北斎の弟子。

品川沖潮干狩図(抱亭五清、文政8年頃)、遠近法の奥にどどんと富士。女性たちが皆こよりを手にしています。こよりでハマグリやアサリが採れたのか、調べてみたところ、こよりで貝が採れるはずはなく、女性たちは貝を探すしぐさを楽しんでいるもの。実際の採貝をしている子どもたちは女性たちの連れではなく、近所の漁村の子どもたちらしい。

娘道成寺(春川五七、19世紀)、春川五七は江戸生まれで京都に移り住んだ浮世絵師、戯作、滑稽本、読本、狂歌、彫刻にも長じた多才な人だったらしい。

上掲の潮干狩と同じ抱亭五清の母子図(文政3年)、自分の髪飾りや帯、下駄、こども服も、何ともおしゃれな江戸時代のヤンママ、潮干狩の子どもたちと身なりが違ってます。

百人一首ヒストリー

常設展の「百人一首ヒストリー」。紅葉百人一首姫鑑(ひめかがみ、文化10年、1813年)は女性のための指南書、周りは17~19世紀の百人一首97番権中納言定家の札ばかりが並べられています。

小倉山荘藤原定家詠歌之図(17~18世紀)、作者は不明。藤原定家の山荘時雨亭は現在の常寂光寺の境内にあったと2年前のブログに書いてます。文暦2年(1235年)、定家が息子の妻の父、宇都宮頼綱から嵯峨の山荘に飾る色紙の制作を頼まれたのが、百人一首の原形とされる「小倉色紙」だそうです。どうやら時雨亭=小倉山荘らしい。

百人一首が脚光を浴び始めるのは小倉色紙誕生から二百年後の室町時代、連歌師の飯尾宗祇が小倉色紙を譲り受け、藤原定家につながる二条流歌道の継承者となり、権威付けされ、百人一首もその地位を高めます。江戸時代初期にかけて古今伝授と呼ばれる和歌の学問体系が確立してく中で、百人一首は入門書として存在感を増します。

百人一首がかるたの形になったのは江戸時代初期のようです。ポルトガルからもたらせれたCartaに由来し、和歌の上の句と下の句を分けて2枚1組にした歌かるたが作られるようになり、古今和歌集や伊勢物語、源氏物語などの王朝文学の和歌による歌かるたも作られたものの、圧倒的に普及したのは百人一首。

上の句と歌人名の読み札だけでなく、下の句の取り札も金箔の豪華な江戸時代の手書きかるた、その56番和泉式部です。

幕末から明治にかけて、一首全てが書かれた読み札と、下の句のみが書かれた取札が登場し、百人一首を暗記していない人もかるたを楽しめるようになり普及が進み、明治37年に競技かるたが成立しています。その4番山部赤人。

大正6年に取り札が3行のひらがに制定された競技用「標準かるた」です。

ちはやふる小倉山杯優勝記念扇(平成2年)。近江神宮で開催される名人位・クイーン位決定戦とは別にここ嵯峨嵐山文華館で開催される、タイトル戦ではない競技の魅力・観戦の楽しさを知るためのオールスター戦だそうです。

これが見たくてやってきた百人一首フィギュア。

わが衣手は露にぬれつつ 持統天皇、衣ほすてふ天の香具山 持統天皇、ながながしき夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂。天皇は台付きです。お正月にさんざん遊んだ坊主めくりのルールはあまり覚えていません。

富士の高値に雪はふりつつ 山部赤人、声聞くときぞ秋は悲しき 猿丸大夫、白きを見れば夜ぞふけにける 中納言家持。

わが身世にふるながめせしまに 小野小町、知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸、からくれないに水くくるとは 在原業平朝臣。

一発逆転できるオールマイティジョーカーのような蝉丸、いつも頭巾をつけていたはずがこのフィギュアは坊主頭。平家物語を語る琵琶法師の祖らしい。

今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部、雲がくれにし夜半の月かな 紫式部、よに逢坂の関はゆるさじ 清少納言、の姫トリオ。

われても末にあわむとぞ思う、「せおはやみ」の落語でもおなじみの崇徳院、保元の乱で敗れ讃岐に流され怨霊になった悲劇の帝です。乱れてけさは物をこそ思へ 待賢門院堀河は鳥羽天皇中宮の待賢門院に出仕していた女房。大好きな西行さんはアップで。

嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

いずれも平家物語の登場人物です。しづこころなくはなのちるらむ、お正月に母の実家に皆が集まった時に、読み手をしていた母の声が聞こえてきそうです。この美術館に案内すればさぞ喜んでくれたかと。

どのフィギュアもその歌の意味や作者の人物像を深く理解した上で、高いデザイン力と造形力をもってして作られたすばらしい作品群、海洋堂のフィギュアともまた違った叙情的な趣が感じられます。

浮世の美人 伎芸乃夢姿

2階へ上がると靴を脱ぐようになってました。靴を置いた場所を写メに撮っておきます。顔出し百人一首は小野小町と在原業平。

ピッカピカに磨かれた廊下、障子の向こうは120畳敷の畳の展示室。椅子に腰を下ろしてひとやすみすると外は大堰川の眺め。

企画展「浮世絵と美人画の軌跡」の第2章「浮世の美人 伎芸乃夢姿」。大正11年、近松200回忌に際して刊行された大近松全集に印刷物として付録にされた版画の作品群がずらり。

心中天の網島(菊池契月、大近松全集第1巻付録)、妻子ある治兵衛と心中を約束していた遊女小春の図。嫗山姥(小川芋銭、大近松全集第9巻付録)は嫗山姥(こもちやまんば、名は八重桐)が雲に乗って息子の金太郎のもとへ帰るシーン。

雪女五枚羽子板(上村松園、大近松全集第12巻付録)、恋人を救うために変わり果てた姿で立ち現れた室町幕府侍女中川。

心中宵庚申(木谷千種、大近松全集第14巻付録)、悔しさに手ぬぐいを噛みしめるお千代。

花見之図(伊藤小坡)と花笠踊り(大林千萬樹)。

浅宵(磯田長秋)、線香花火を楽しんでいる遊女たちの襖絵。雨を聴く(上村松園、1942年)、あら雨、とひとりごとを呟いている美人。

この他に西の松園に対し東の清方と称される鏑木清方の作品も少なからず展示されていたものの、撮影NGだったのが残念。

予想を遥かに超えて見どころいっぱいの嵯峨嵐山文華館、特に清潔感がずば抜けていてとても快適に鑑賞できました。江戸時代の浮世絵だけでなく、上村松園とか明治から昭和の美人画にも俄然興味が出てきました。元任天堂社長の山内溥氏が私財を投じて設立された「百人一首殿堂 時雨殿」を改装して2018年にオープンした施設で、今は任天堂からは離れているものの、任天堂では今も小倉百人一首が販売されています。

企画展の浮世絵は全てすぐ近くにある福田美術館の所蔵品、企画展自体福田美術館との共催らしく、福田美術館と共通券も販売されていたのに、百人一首フィギュアを見るのが目的だったので嵯峨嵐山文華館だけにしたのですが、もっと上村松園を見たかったと思う一方、次の楽しみができたとも思います。

帰りがけに学芸員さんらしき女性を見つけ、百人一首フィギュアの作者は誰なのかを訊ねてみたところ、ヤマネという会社だと教えてくれました。調べてみると豊中にある模型製作会社で、嵯峨嵐山文華館の歌仙人形は同社の作品であることが記されていました。京阪電車のHOゲージ模型なども手掛ける一方、何と、近つ飛鳥博物館の仁徳天皇陵の巨大ジオラマや、弥生文化博物館の卑弥呼の館、奈良市役所の平城京ジオラマもこの会社の作品でビックリ。

祇園井特のフリーダ・カーロに見送られ、百人一首に絡めて小倉山を見に行くととにします。まだ紅葉が残る嵯峨野です。

小倉山

以前にも訪ねている西行井戸、竹柵で覆われた下に井戸があります。出家して間もない頃の西行の庵がこの付近にありました。左上の岩が歌碑。

を鹿なく小倉山のすそ近みただひとり住むわが心かな

長神の杜の公園に入ると小さな蓮池は茶畑池。

長神の杜から小倉山、軽トラが止まっているところは二尊院、左手に小倉山荘があった常寂光寺があります。

こもれびの、という百人一首があったような気がしたのですが、無いようです。木漏れ日という言葉自体が中世以降らしい。

森の中に百人一首が点在しています。

持統天皇、春すぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

山部赤人、田子の浦にうち出でて見れば 白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

紫式部、めぐり逢ひて見しやそれとも分わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな

藤原清辅朝臣、ながらへばまたこのごろや忍ばれむ憂しと見し世ぞ今はこひしき

小倉百人一首歌碑MAPによると、ここ長神の杜に19首、亀山公園に49首。

何気なくスマホをチェックするとかなり落ち込ませてくれるようなメールがあり、四条河原町へ出て一杯の気も失せてしまい阪急嵐山から帰ることにしました。

まだ4時前なのに日差しが消え、愛宕山も比叡山も雪は消えてしまっていました。

なにわよりかけあしでゆく京の夕暮れ 上町のおっさん

嵐山から桂乗り換えだと座れないので準急で帰ってきました。だいぶ落ち込んでいたのですが、百人一首の歌や美人画を見直していると色んな人の人生が感じられ元気が戻ってきた気がします。