和泉中央から久米田池

コウノトリがやってきているとの情報を見つけ久米田池へ。阪和線久米田駅から1kmほどですが、久米田池を一周するには自転車が欲しい。ずいぶん前に南海岸和田駅近くでレンタサイクルを借りたことがあるものの、電動アシストがあるか、今も営業しているのか不明。地図を眺めていると、電動アシストを借りられる泉北線和泉中央駅から久保惣美術館とは別方向へ4.6kmほど、岸和田駅からと変わらない距離です。泉北線で岸和田へという意外なルートを試してみることにしました。

5000系区間急行和泉中央行はせんぼくんラッピング編成。南海電鉄に吸収合併された泉北高速鉄道のイメージキャラクターですが、「せんぼくん存続総選挙」が実施され合併後も存続することになったらしい。その難波方から6両目は「冬」、せんぼくんとブラックせんぼくんがお雑煮を食べてます。

こちらの発車と同時に復刻塗装7100系が入線。和歌山市方には復刻塗装の10000系、ネットで情報のあった南海ホークスのヘッドマークが付けられていたのがチラッと見え、なんかいホークスさあいこう♪がイヤーワームに。新今宮か天下茶屋で下りて待ち伏せするという考えが頭をよぎったものの、コウノトリへ急ぎます。

発車前に流れていたのはなんとせんぼくんの車内放送。

やよい軒和泉中央店でランチ。店に入るとくら寿司のように席を決める発券機があって、ブース席のタブレットで注文してロボットが配膳、サイゼリヤのように食後に自動精算機で支払う方法。今日もやよい御膳。

和泉中央駅のペデストリアンデッキから岸和田方向の眺めです。足下は近畿道E26、久米田池は緑の丘の向こう辺り。ペデストリアンデッキから自転車駐車場へ直接下りられる入口があって事務所でレンタサイクル、応対してくれたのは前回と同じ愛想いいおっちゃん。

GoogleMapのルート案内に沿って近畿道下道の府道223号を下ったり上ったり、ペデストリアンデッキから見えていた緑の丘から岸和田市域に入り、林を抜けると府道40号。その先、GoogleMapのルート案内は古い屋敷に囲まれた狭い道を右へ左へ。何度か迷って牛滝川を越えて久米田池が見えてきました。

9年ぶりの久米田池、水は抜かれているものの、完全には抜かれておらず、鳥たちが食料を得やすい環境が提供されていて、鳥の国際空港とも呼ばれているそうです。聖武天皇の命により行基が開削、天平10年(738年)に竣工した灌漑ため池、46haで36haの狭山池より大きく、日本一の満濃池(138ha)がダントツですが、加古大池(49ha)と並ぶ2位クラスと言えそうです。小学校で久米田池の周囲は1里(4km)と教わった記憶があるのですが、実際には2.6kmです。

池の真ん中でカワウたちに混じってコウノトリがいました。でも遠い、250mくらいあります。

コウノトリとクロツラヘラサギ

コウノトリが4羽、ヘラサギも1羽。遠いだけじゃなくて逆光がキツイ。

どのコウノトリにも足輪が付けられています。左右の足輪の色の組み合わせで個体識別できるのですが、色は確認できません。兵庫県立コウノトリの郷公園の11月30日の情報では554羽、1971年の野生絶滅後、人工繁殖で着実に数を増やしている内の5羽(くらい)です。

1羽だけ離れてこちらへ向かってくるのはヘラサギ、じゃなくて絶滅危惧種のクロツラヘラサギです。ヘラサギと違って顔の黒い部分が広く、ヘラが先っぽまで黒い。

池の端の方、自分の間近までやってきてくれました。

しゃもじ形のくちばしをトングのように開いて、くるくる回転しながら池底をさらってます。

こんな採餌方法の鳥は初めてもハシビロガモのそれに似ています。ちなみにクロツラヘラサギもヘラサギも、サギじゃなくてトキの仲間だそうです。

振り返ると金剛山。正面には久米田寺の多宝塔、画面右端の塔は牛滝川から久米田池への取水塔です。

カンムリカイツブリとミコアイサ。

カンムリカイツブリたちが一斉に飛び立ちました。ミコアイサは動ぜず留まっています。

かなりの数が飛んで行ったもののまだいっぱいいるカンムリカイツブリに混じってミコアイサ。真っ白なミコアイサには小さくてもピントがよく合います。

池の向こうは小学校の遠足や中学の陸上部トレーニングで何度も上った神於山です。その向こうは和泉葛城山。

池畔に立てられていた案内図で現在地を確認、和泉葛城山眺望ゾーンと歴史保全ゾーンの境目付近です。

ミサゴが登場。長時間ホバリングしていたけど、なかなか上手く撮れず。

久米田寺

久米田寺です。天平10年に久米田池を維持管理するため行基により開基、永禄5年(1562年)三好氏と畠山氏の久米田の戦いで焼失、延宝2年(1674年)に再興。開放的な寺院で、拝観料とかもありません。

法隆寺夢殿を模して昭和32年に建立された八角堂は靖霊殿、お堂の前にいた80歳という女性に招き入れられました。三蔵法師の遺骨が祀られているそうで、中央に金色の仏像が安置され、手前には三蔵法師らしい浮き彫りの石板、右側には「唐三蔵大遍覚玄奘法師尊霊」、左側には「戦没者之霊位」と記された位牌が並べられた、岸和田市出身の戦没者慰霊のためのお堂らしい。

平成15年再建の多宝塔、足利直義(尊氏の弟)により寄進された仏舎利が祀られていると史料で裏付けられるらしい。足利氏だけでなく、楠木氏とも縁が深く、楠木正成・正儀親子が久米田寺に送った重要文化財の書状が残され、大阪歴史博物館に寄託されています。南朝北朝いずれとも良好な関係を保ちつつ微妙な立場にあったと思われます。

金堂(本堂)は明和7年(1770年)再建、大河ドラマべらぼうで大活躍していた松平定信揮毫による「隆池院」の扁額が掲げられているのですが、金字の一部だけが撮れてました。「隆池院」は当寺の院号で「隆(さか)える池の寺院」の意。

享和3年(1803年)再建の観音堂、左手は宝蔵。

文政5年(1822年)再建の開山堂(行基堂)、岸和田十月祭礼(山手のだんじり祭)では八木地区、山直(やまだい)地区の13台のだんじりが、それぞれの宮入りとは別に、行基上人の功績に感謝すべくここに集合するらしい。全然知らなかった。

文政7年(1824年)再建の大師堂、さらに奥にいくつも堂宇、塔頭寺院が5宇もあるようです。戦国時代に焼失も、江戸時代から平成まで長い時間をかけて、時の権力者や市井の人々の寄付や支援を得て復旧してきたことが分かります。

宝永3年(1706年)再建の大門、楼上のスピーカーからエンドレスでお経が流されていて、門の中に金剛山がすっぽり収まっていました。

手水舎の龍と境内図です。一地方寺院の域を越えた灌漑事業を基に据えた、聖武天皇、行基、楠木氏、足利氏、江戸幕府、さらには昭和の戦没者慰霊へと連なる国家的仏教寺院だったと、岸和田っ子なのに今更ながら学ぶことができました。郷土史家だった伯父さんにもっと色々教えてもらっておけばよかったと後悔。

三蔵法師遺骨の信憑性や、久米田合戦の詳細、いわゆる檀家寺ではなく拝観料も収受しない中での主な収益源は何かまで、久米田寺についてかなりつっこんだやりとりをChatGPTとしました。回答にはそれは違うんじゃないということもあったものの「久米田寺が単なる一寺院ではなく、和泉地域の歴史記憶を担う拠点」というまとめは間違っていないと思います。

境内奥には行基墓、さらに光明塚古墳、貝吹山古墳。久米田古墳群で墳丘に上れる古墳や円筒埴輪が並べられた古墳もあると分かりました。遠からず再訪することになりそうです。

ミサゴ

久米田池に戻ります。まだ1/4周しかしていません。池の柵のところどころにクロツラヘラサギのレリーフ。

池の南側に回ったあたり、池の杭でミサゴがお食事中です。

そこへもう一羽のミサゴ。

でっかい獲物をがっしり掴んでいます。2羽が並びました。向こうの白い点々はミコアイサやカンムリカイツブリたち。

南側からの眺めです。ぐんとズームするとダイサギよりずっと大きいコウノトリが2羽、まるでハシビロコウのようにじっと立ってます。順光になって周りのカモたちはマガモと分かりました。

池の東側に戻って来ました。広いです。24haのウメキタ(グランフロントを中心とした1期+グラングリーン大阪の2期の総面積)ふたつ分と言えばイメージしやすいかも。1300年も前に14年かけて竣工、ウメキタは2013年の梅田貨物駅廃止から2027年の全体まちびらき予定まで同じく14年。

クロツラヘラサギやミサゴたちの動画は別途VLOGにまとめるつもりです。

来た道の坂道上り下りは避けたいので別の道を行くと摩湯山古墳。仁徳天皇陵より古い4世紀後半築造の和泉国(和泉国成立は8世紀でそれ以前は河内国の一部)では最古級の前方後円墳で、こちら側が前方部。墳丘長200mで円筒埴輪列がめぐらされ保存状態が良いらしいものの墳丘に入ることはできないようです。

和泉中央駅に戻ってきました。高層住宅の向こうに神於山。

5000系区間急行運転手さんの背中です。

難波に到着、出てきたのは来る時に乗っていた5000系せんぼくんラッピング、両サイドの絵柄が違っていて山側がせんぼくん、海側は鉄道むすめの和泉こうみ。

南海ホークス

難波駅5番線に今朝チラッとしか見れなかった復刻塗装7100系サザンが停車中、テンションが上がりました。いっぱい並んだジャンパ栓に貫通幌、丁寧な塗装にピッカピカの窓枠。高校、大学の通学時のまんま、というかそれ以上にかっこいい。贅沢言えば、スカート無しで、ヘッドマークはこれじゃなくて、難波-和歌山市の急行か、千鳥が描かれた急行淡路号の円板を取り付けたいところです。

前4両は復刻塗装10000系。

10000系の側面になんと南海ホークス応援フラッグが貼られていました。

先頭車には今朝見たヘッドマーク、白いタカは久米田池のミサゴかも知れません。

10000系の登場は1985年、自分が東京の会社に就職した後なので、ヒゲ新こと旧1000系のような思い入れはないのですが、南海ホークス子供会会員だった自分にはこれも嬉しい。南海ホークスは1988年までなので、3年ほどこの色の10000系サザンが難波球場の脇を走り抜けていたはずです。

5番線降車ホーム側へ回ってみました。山側の側面にはキャップロゴになっていたNHマーク、Hは鉄道車輪になっているところがミソ。

ちなみに大学生の時には難波球場で入場券のモギリのバイトをしていました。確か8回表からは入場口が開放されていたのですが、バイトは試合終了まで帰ることができず、野球を見ていた記憶があります。南海-近鉄戦のこと、早く帰りたいのに、ピッチャー交代で、のっそりのっそりマウンドへ向かう西本監督、はよ行けやと心の中でつぶやいていたら、漸くピッチャー山口、と交代を告げていたことを覚えています。

後方は7100系、南海旧社章の歯車マークです。

ステンレス切文字の車番、昭和48年東急車輛の製造銘板。

降車ホーム側から復刻塗装7100系、種別方向幕のサザンに4つの★はサザンクロス、南十字星です。復刻塗装7100系とラピートの構図を狙ってみました。発車時、何と、南海ホークスさあ行こう♪のメロディ。イヤーワームだったのがホームに鳴り響きビックリ、嬉しくて涙が出て来ました。

この列車だけかと思いきや6番線はホークスホークス♪のあとの、なんかいホークス♪のメロディ。調べてみると、12月26日から1月5日まで(1月1日・2日を除く)に高島屋で開催される南海電鉄140周年記念南海ホークス展に併せて、復刻塗装車に球団マーク表示、5番線6番線の発車メロディが南海ホークスの歌になっていると分かりました。

南海のホームページを繰ってると未来に伝えたい南海電鉄との思い出のページに「デートの待ち合わせはいつもロケット広場」、長いエスカレーターを下りてくる途中右手のロケットが目に浮かびます。1978年から2007年まで設置されていたらしい。まさにわが青春の1ページ。

このあと新世界で忘年会。今や通天閣も南海グループ。