だんじりとスナガニ
昨日土曜日は5年ぶりにだんじり。自分は5年ぶりですが、岸和田のだんじり自体は祇園祭ですら中止された2020年でも規模を大幅に縮小して開催、当時の詳しい様子がオマツリジャパンでレポートされていました。
岸和田
過去に記憶のない厳しい残暑の岸和田祭りです。例年景気づけさせてもらっていた並松町の酒蔵さんは失礼してカンカン場へ向かいます。昼休みを見計らってやってきたはずが駅前商店街は通れず、裏通りを行ったり来たり。同行の友人に北町は「きたんまち」、南町は「みなんまち」とウンチクを披露したのに、町名看板の英文表記はKitamachiになってました。
駅から一直線の岸和田カンカン・ベイサイドモールへずいぶん遠回りしてたどり着くと東館のトイレは長蛇の列。西館へ向かうとユナイテッドシネマは営業していたものの大半の店舗が閉店していてビックリ。警備員さんに何度も訊ねながら館内を上がったり下がったりしてなんとかサイゼリヤにたどり着きひと休み。
川端筋とそかいみち(古い岸和田の住人でないと分からない表現かも)からのだんじりが合流する大北町交差点で、規制線ロープの最前列でたっぷりやり回しを堪能させてもらいました。
大工町のやりまわしです。
カーネンションのポスターが飾られた部屋、左に見えるのは足踏みミシン、小篠家の座敷を再現しているのではないかと思われます。尾野真千子さんのネイティブそのものな岸和田弁、「〇〇しちゃ〜る」とか「はよ食べり」が何とも気恥ずかしかった自分です。岸和田弁にコンプレックスがあっただけに、それが全国メジャーになったことにはずいぶん戸惑いました。
「だんじり年表」によるとだんじりの始まりは元禄16年、絵図に描かれた当時のだんじりは、託児所のお散歩カートに太鼓を載せただけのような何ともしょぼいシロモノでビックリ。洛中洛外図屏風に今と変わらない優美な姿が描かれている山鉾とは天地の差があります。城下町とはいえ、京都あるいは大坂や堺とは比べようもなかったと分かる我がふるさとです。
江戸時代末期のだんじり曳行を再現したジオラマ、どうやらだんじりが華やかで勇壮になったのはこの時代のようです。紙屋町の先代だんじりの作られた頃です。江戸時代200年で庶民の生活も大きく変化、ぐっと豊かになったようです。それでも曳き手の多くは褌一丁、カーネーションで登場した五軒屋町のだんじりの大正時代のシーンでも衣装はまちまちでした。揃いの鯔背な法被になったのは古いことではなく、昭和40年頃ではなかったかと。今や町ごとに趣向を凝らした意匠の法被だけじゃなくて、白いぱっち(股引)に地下足袋、それに鉢巻が決まり事のようですが、自分が子供の頃は学校の体操服のトレパンにスニーカーだったかと。
久々に訪ねた岸和田城、八陣の庭、東福寺方丈庭園等京都にもたくさん作品を残している重森三玲作庭の枯山水です。
城見橋通から駅前商店街へ。向こうからやってきたのは藤井町のだんじり。こちらの大工方も宙を舞ってます。
お土産を買いたいという友人を福板屋さんに案内するつもりがシャッターが下りてました。調べてみると福板屋は2010年に閉店、その後スギ薬局とキャンドゥが入っていたものの、それも閉店してしまった模様。
さらに駅前の木下書店がこの5月末で閉店にはビックリ。子供の頃から学校を卒業するまで通っていた、岸和田のインテリジェンス発信拠点だったような書店でした。文庫本、鉄道雑誌、学習参考書、受験資料、等々殆どここで買ったはず。本店は閉店も、岸和田市内に2店舗、泉北ニュータウンに2店舗あるそうで、第2阪和(国道26号)沿いの下松店をご利用くださいと案内されてました。岸和田祭りの時はハンパなく賑わう駅前商店街ですが、それ以外はさっぱり集客力が無くなってしまったようです。
しかしながら今まで見かけなかった高層マンションが建っていたり、アパホテルが出来ていたり、岸和田駅周辺も寂れる一方じゃなくて変わりつつあるようです。だんじりという極め付きの求心力があり、地元意識も強く、交通は至便、このまま廃墟になってしまうはずはないと思います。
男里川河口
日曜日の天気予報は終日曇りがち、どうしようか迷っていたもののやはりスナガニに会いに行くことに決め、2日続けて南海電車。
※この部分かなり鉄分が濃いので興味のない方は読み飛ばしてください。
泉佐野で3000系和歌山市行普通車に乗り換え尾崎に到着。営団地下鉄東西線5000系を彷彿とさせる切妻で一部鋼体のセミステンレス車、泉北高速で余剰となった同形式車が南海本線に転籍した車両です。乗っていた先頭車は3516、6連の最後尾は3515。3515編成は4連のはずがなぜか6連です。7月に踏切事故で3513編成の先頭車2両が廃車、中間車2両を3515編成に組み込んで6連になったものと分かりました。
泉佐野まで乗ってきた3000系の空港急行は先頭車の運転席後ろに席がなかったのは、中間車改造の3555編成の3556、3517編成と繋いだ6連だったと分かりました。3556はヘッドライトが四角いケースに入った改造顔、それに在籍する3000系全てが泉佐野で並んでいたと分かり、写真を取りそびれたのが何とも残念。
先月解体工事の真っ最中だった蔵のあったお宅は完全に更地になっていました。かなり広く200坪近くありそうです。
同じ枝からピンクの花と白い花を一緒に咲かせているサルスベリ。
南海7100系
樽井駅にたどり着き、7100系普通車に乗車。泉佐野で空港急行に乗り換えようとしたら次は6連でホームには人がいっぱいで見送りました。泉佐野駅近くで行ってみたいマーカーを付けていたお店はお休み、他にないか探してみると駅ナカにいい感じの居酒屋が営業中と分かりエスカレーターを下りてみると、ハンパな時間なのにほぼ満席で諦めました。ガッチョ(メゴチの泉州での呼び名)の天ぷらなどもメニューにあり、地産地消居酒屋のようです。いずれ改めて。
次の空港急行に乗車。岸和田到着直前、昨日訪ねた西日本一の集積らしい川端筋の屋台をチェック、ものすごい人です。ここもだんじりの曳航ルートなので、道路にやり回しの車輪のあとの木屑が見えます。
春木で車窓の向こうにだんじりが見え、開いたドアから動画、春木中町のやりまわしです。最後の方で黒い棒が画面を横切るのは電車のドアです。
春木地区でだんじりが15台も曳行とは知りませんでした。岸和田地区の曳行ルートと較べると春木地区の曳行ルートは行き止まりや折り返しがいくつもあります。どのように方向転換するのか見てみたいものです。
いい感じで撮れました。7000系7037編成が南海グリーンツートンに塗り替えられ、孝子、なんば、大和川、みさき公園、紀の川、千代田車庫とさんざん追っかけたのは9年前のこと。6000系6001編成が無塗装復刻、遠からず7100系の復刻塗装もあるはずと思っていたのが実現しました。
自分が小6だった昭和44年に7100系第1編成が登場、南海初の両開きドア、1段下降式窓のカッコよさにはビックリしたことをよく覚えています。実家は高架化される前の岸和田駅の真裏にあり、物心ついた頃から南海電車を眺めていた自分です。万博のあった昭和45年登場の第2次車からは何と冷房を搭載、ウチにクーラーもなかった頃で、あまりの快適さにビックリした記憶もあります。
ピッカピカの塗装にジャンパ栓が並んだところはほれぼれ。昔の南海の社章プレートもしっかり取り付けられています。
南海グリーンツートンの7169編成を見送ります。7037編成の時は南海グリーンサザン復刻塗装10000系10004編成と併結運転だったのですが、今回は7100系のみ。今日は空港急行の運用ですが、10000系と併結してサザンにも運用されており、当面男里川河口へ向かう時の楽しみが増えました。
高架完成後初めて下りた羽衣駅、せっかくなので3年ぶりに運行再開した高師浜線の電車をチェック、以前の2230系に変わり2000系が運用されています。隅っこがボックスシートになっている平成7年製5次車の2035編成ですが、快適なボックスシートに座っても乗車時間はわずか3分です。高師浜線らしい堺泉北臨海工業地帯の煙突群を入れて撮ってみました。