祇園祭前祭曳き初め二日目

私本太平記、新・平家物語、親鸞に続いて宮本武蔵を読んでます。KIndle版をダウンロードしてから半年経つのにまだ読了は43%。巌流島の決闘の剣豪ということと岡山県美作市の生家付近に智頭急行の宮本武蔵駅があるという前知識しかなかったのですが、関ヶ原の戦いで西軍の足軽だった武蔵(たけぞう)と同郷の本位田又八の逃避行から始まる長い長い物語です。沢庵和尚や柳生石舟斎ら有名人との出会いは興味深く読ませるものの、又八の母親で「男一匹ガキ大将」の水戸のババアを彷彿とさせる、お杉ババアがなんとも憎たらしく読むのが嫌になってなかなか読み進みませんでした。親鸞に登場する天城四郎も憎たらしくめちゃ嫌な奴なのですが、最後は改心して親鸞に帰依しており、ここまで読んでもまだ死なないお杉ババアもこの先改心するのではと予測しつつ読み続けています。

物語の舞台は江戸時代が始まったばかりの京都、京流剣術の名家吉岡流剣術道場主の吉岡清十郎を蓮台野で破った武蔵(むさし)はその直後に本阿弥光悦と出会い、野点の接待を受け、茶の湯の真髄に触れ、実相院町の本阿弥家に数日逗留することに。本阿弥光悦の名は聞いたことがあるものの、ひとことで何者と定義することは難しいほど多彩な千利休なき後のこの国の文化的リーダーのひとりだったと知りました。本業は刀剣の鑑定、研ぎ、拭いだったそうですが、茶道、書道、陶芸、能などでその功績を残しています。宮本武蔵との出会いはおそらく吉川英治の創作ですが、大坂の陣もまだのこの時代の様相が武将とは別の視点で丁寧に描かれています。

本阿弥光悦

実相院といえば岩倉ですが、応仁の乱までは堀川今出川辺りにあって、実相院町という住所が今も残されていると見つかりました。ちょうど祇園祭前祭曳き初め二日目です。去年一日目を見ているのでちょうどいいや、と京都の町歩きへ。

出掛けに何気なく新プロジェクトX~トットちゃんの学校~を見ていたらえらく感動してしまい、ウチを出たのはもう10時を回っていました。戦前にリトミックをベースにした理想の教育を実践するも戦後ほどなく廃校になったトモエ学園の物語、黒柳徹子さんに限らず卒業生の皆さんが心身ともにとても90代、100代には見えないことにビックリ、教育が百歳に至るまでも人生を変えるものとは思い至りませんでした。

ミャクミャクの8000系で出発、出町柳に到着。

叡電とは反対側、今出川通の出町柳バス停へ向かうと、前を歩いていたカップルが入ったお店が気になり、先にお昼を済ませて行くことにしました。

刺身定食です。カツオ、イカ、カンパチ(ハマチかも)、サーモン、タコ、それにハモの湯引き、さらにカツオの陰に透明のコリコリしたお造り、食べた記憶があるものの何かわからず訊いてみるとクラゲ。これに小鉢が5品、おつゆはきのこ汁。

器も素敵でご飯を平らげると鶴が出てきました。当然おかわり。京都でどこへ行くにも拠点となる出町柳にこんな美味しいお店を見つけたことは大きいです。

市バス201系統を堀川今出川で下りると反対車線側に白峰神宮。名前も知らなかったのですが、幕末に孝明天皇が命じ明治天皇が創建、讃岐に流されたままだった崇徳天皇を祀る神社だそうです。崇徳天皇の悲劇は私本太平記で読んでます。

拝殿前に左近桜、右近橘が並び、拝殿左手には竹竿で囲われた鞠庭(蹴鞠のコート)があります。この社地には元々蹴鞠の宗家飛鳥井家屋敷があったらしく、それに因みサッカーだけでなくバスケットボールやバレーボール、野球、軟式テニス、ゴルフ、と色んな球技のボール、さらにはバドミントンのシャトルまで奉納されていました。

白峰神宮から裏に抜ける道を出るとありました。本阿弥光悦京屋敷跡です。現在はおしゃれな共同住宅が立っていて何やら曰くありげな井戸があるものの、この井戸が何なのかは不明です。光悦の屋敷だけでなく周辺に一族や同業の職人さんたちが集まって暮らしていたそうです。

出窓で三毛猫が心地よさげに爆睡中。屋敷跡の碑だけじゃなくて本阿弥光悦ゆかりの何かが見つかりそうな気がして少し北の方へ歩いてみます。

仁丹広告付ホーロー住居表示みっけ。「區京上、油小路通上立賣下ル水落町」と右書き旧字体でおそらく戦前のもの、仁丹のロゴも綺麗に発色、全然錆びていなくてこれだけ状態のいいのは少ないです。簾の掛けられた朱塗りの格子窓とのコントラストも美しい。

もう実相院町を抜け水落町です。個人情報的保護的にどうかと思われる戸別住居表示が掲げられていたのですがせいぜい30世帯程度の町内会です。京都の町がなぜ今も小さく区分けされ古い名称が残され行政登記されているのか、とても興味深いのですが、長くなりそうなのでまたの機会に調べてみます。

チーチーと鳴き声が聞こえ見上げると電線にメジロ。

鉢植えのオニユリが咲いた油小路通の北端は上立売通との丁字路。去年のお正月にこの辺を歩いているのですが素通りしています。

報恩寺を紹介する高札が立てられた路地を奥へ進むとマップで見つけた奇妙な角丸長方形につながっていました。角丸長方形は実際には四隅がカットされた長方形でブロック塀に囲まれた駐車場です。東側の墓地の隅にみすぼらしい小屋が立っていたのですが、ここに「撞かずの鐘」と呼ばれる重要文化財の梵鐘が吊るされていると分かったのは帰ってから。

角丸長方形の北側に報恩寺の本堂、その手前に枯山水のお庭が広がっていました。徳川家光将軍宣下のために病をおして上洛していた黒田長政がこの本堂で亡くなったそうです。

本堂の右手に抜けると大きな山門、報恩寺は東に面していると分かりました。山門の外側に橋の欄干、橋の下に水の流れはないものの、かつてここを小川(こかわ)が流れていたそうです。

さらに北へ進むと小川跡の百々橋(どどばし)ひろばという小さな公園、応仁の乱ではこの辺りが西軍山名方と東軍細川方の主戦場になっていたこと、それに小川が埋め立てられたのはつい最近で昭和40年だったことが紹介されています。京都の空襲は他都市と較べると限定的だったこともあり、京都の人が「先の大戦」とは応仁の乱を指すというのもあながちジョークとは言い切れないと分かります。しかしながら京都も原爆投下のターゲットにされていたらしく、もし…、と考えるとぞっとします。

ちょうど講師に率いられた歴史探訪のグループがやってきました。この辺りで少しクランクしている小川(おがわ)通は西洞院通の一本西側を南北に錦小路まで続いています。

百々橋ひろばから北の小川通の美しさにビックリ、祇園以上です。

あまりにもこの町並みにマッチした薄桃色の和服の美しい女性の後ろ姿には思わず二度見してしまいました。

美しい和服女性が出てきたお屋敷門前に千利休居士遺跡不審庵の石碑。不審庵とは千利休が営んだ茶室の名で歴代の家元がこれを継承してきたと表千家のホームページにありました。つまりここが表千家のお屋敷そのもののようです。不審とは自然の偉大さ、不思議さに感動する心だそうです。本阿弥光悦の足跡を探していたつもりが10分ほど歩くだけで千利休に行き着いてしまいました。

小川通の美しい町並みは続き、見るからに清潔で眉目良い和装の男性が植栽に水を遣っています。裏千家今日庵が表千家不審菴に隣接していると分かりました。京の町中でも飛び切り上品な一画と言えそうです。表千家と裏千家の違いにも興味があるものの、これも機会を改めて調べてみたいと思います。

小川跡にかかる石橋から巨刹の山門に石畳が伸びています。日蓮宗本山本法寺の仁王門です。中へ入ってみることにします。

多宝塔は寛政年間のものでさほど古いものではないです。奈良京都を頻繁に訪ねるようになり、寛政(18世紀末)の築だと新しいとすら感じさせます。

グラデーションのカシワバアジサイが綺麗。

本堂前の松は「光悦翁手植之松」、やはり本阿弥光悦のゆかりが見つかりました。この寺が本阿弥家の菩提寺だそうです。隣の旅姿の像は長谷川等伯です。

書院に上がると光悦が作庭した巴の庭、誰もいない書院の縁側からじっくりお庭を鑑賞、一面青々としたスギゴケで覆われています。巴の庭とは3つの小さな築山が築かれていることに由来するらしいのですが、どれが築山かよくわかりません。しかし、不思議なことに冒頭に書いたトットちゃんが学んだトモエ学園と同じ巴です。さらに木曽義仲の愛妾、巴御前を思い出します。

ツマグロヒョウモン♀がヒラヒラ。

書院の奥側から見た巴の庭、花手水には自分の好きじゃない菊の花が浮かべられていました。右手奥の方に水の枯れた小さな池があって青石らしき石橋も綺麗に苔むしてました。水は見えないものの水が感じられる、石じゃなくて苔をメインにした枯山水なのかも知れません。

蓮の池は巴じゃなくて十角形です。

その向こうに咲いているのはギボウシ、橋の欄干に立つ擬宝珠に似ていることに由来する初めて見る花ですが、これも水の流れを感じさせます。

ツマグロヒョウモン♀がずっと一緒に遊んでくれているところにオオシオカラトンボもやってきました。

隣接する鉄筋コンクリートの建物では高さが10mもある長谷川等伯の涅槃図が展示されているのですが、どう見ても実物じゃなく、複写と掲げられていました。複写とはいえ印刷らしく、残念ながらありがたさは感じられませんでした。帰ってから調べると毎年春には実物が公開されるそうです。

帰り際チケットブースの女性に本阿弥光悦さんってこの近所に住んでいたんですよね、と尋ねると、鷹峯に住んでいたそうですと返ってきました。元和元年に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、実相寺町から鷹峯に転居、さまざまな分野の文化人や職人を集め光悦村と呼ばれる芸術村を築いています。遠からず訪ねてみたいと思います。

船鉾と岩戸山

前祭曳き初めが3時からなので先を急ぎ堀川寺之内バス停へ。さて今歩いてきたエリアは何とまとめればいいか、紫野の一画とでも呼ぶのか、調べていると西陣織の西陣と分かりました。鞍馬口通、新町通、一条通、千本通に囲まれたエリアが西陣で山名宗全が西軍の陣を置いたことに由来するということで、西陣を歩いてきたとして間違いなさそうです。

宮本武蔵の風の巻「町人」の項で京の町人文化が発展した経緯が述べられています。室町幕府の家臣が商業関連の実務を役所としてやっていたのが、やがて幕府の手を離れ、幕府から禄をもらう必要もなくなり、個人経営に変化し、武士の特権よりも持てる技術力の向上や経営の才が重要になり、それが代々引き継がれ京都の大町人になったということのようです。光悦はここで刀を研ぎ、さまざまな芸術の花を咲かせたのですが、一方この地では5世紀頃から織物づくりが行われていて応仁の乱の後離散していた職人がこの地に戻ってきたのが西陣織の基盤となったそうです。

かつて学んだものの今や既にそんな制度は実際にはなかったとされる士農工商でいえば、為替や相場、金融、卸売がメインだった大坂の町人の「商」に対して京都の町人は「工」だったと言えそうです。今日はもう時間がないものの、大坂との違いが色々発見できそうで頻繁に通うことになりそうな西陣です。

市バス9系統の京都駅行がやって来たものの超満員で乗れず、諦めて地下鉄の丸太町へ向かって歩きかけるとすぐさま12系統の四条河原町行がやってきました。こちらもかなり混んでいたものの二条城で多くが下車。

堀川通を左折して四条通に入ると大渋滞でバスは動かなくなりました。山鉾で片側1車線になっているためです。

バスの車内から月鉾を見て、四条西洞院で下車、乗ってきた12系統のバスと月鉾です。

室町通には鶏(にわとり)鉾。綾小路には独特の棒振り囃子で知られる綾傘鉾。

新町通は既にかなりの人人人も、まだ曳き初めまで30分ほどあります。喫煙可のステッカーを貼った喫茶店を見つけちょっといっぷく。メニュー表は紙が貼られていてアイスコーヒーが600円、どうやらお祭りプライスのようです。たぶん100円アップと推測するのですが、せこい、と感じさせます。レギュラーメニューを値上げするのではなく、季節限定の山鉾パフェを1000円で提供するとか、京都商人ならではの工夫がほしいところです。

岩戸山と囃子方が乗り込むところの船鉾です。去年の前祭曳き初め一日目より混み合っていて居場所を見つけるのが大変でした。土曜日ということもあるものの、去年の四条通より新町通がずっと狭いためと思われます。

四条通を挟んで向こうには放下鉾。

始まりました、エンヤラヤー。

四条通すれすれくらいまで往復の船鉾と岩戸山です。船鉾は艫から戻ってきました。

鶏鉾

曳き初めを堪能した帰り道、昨日のうちに曳き初めを済ませている鶏鉾に上がってみることにしました。ちまきを売るテントで500円の拝観券を購入して鶏鉾ビルの鶏鉾保存会の階段を上がると、下駄箱とかはなくて上り框に脱いだ靴がいっぱい。自分はよく靴を脱いだあと、靴が見つからなくなってしまう夢をなぜかしょっちゅう見ます。何を意味するものかはさっぱり分からないのですが、そのことを今現実の中でふと思い出して靴をどこに置くか確実に探せそうな場所に置いて置きました。

保存会の2階から山鉾へ掛けられたボーディングブリッジを渡ります。

鶏鉾の上からの眺めです。提灯の間から四条通北側の菊水鉾が見えます。

パールトーンとは着物の撥水防汚加工をする企業で、鶏鉾のメインスポンサー(あるいはその一社)のようです。

山鉾の中は至って簡素ですが、囃子方が腰掛ける椅子もはめ込み式でやはり釘は一本も使われておらず、天井の梁は漆塗りのようです。

外へ出ようとすると一気にたくさんの人たちがボーディングブリッジを渡って来ようとしてきてビックリ。同時に外に出ようとしていた人にこっちが先に出ないとどうにもならないですよね、と向こうの人にも聞こえるように話していたら一応通じたようで漸く外に出ることができました。

鶏鉾見送(山鉾の後部に掛けられるタペストリー)「叙事詩イーリアスからトロイアの王子と妻子の別れ」、16世紀半ばにベルギーのフランドル地方で制作され、江戸時代初期に輸入された当時の京町衆の経済力の高さを象徴するもので、鮮やかな方は巡行に使用される復元新調されたもの、色褪せた方が国の重要文化財です。

脱いだ靴は無事発見、履くことができました。

さっきまで居たところを見上げたところと、鶏鉾を紹介する高札です。

函谷鉾と長刀鉾、こちらの曳き初め風景は去年の動画をどうぞ。

綾小路御幸町のロココさんでいっぷく。こちらはお祭りでも250円に変更はありませんが、宵々山や宵山では営業時間延長とのこと。

4時半を回ったので高田酒店へ移動、今日の冷酒はこの時期に最適な「坤滴」。長刀鉾がすぐそばでもテレビはグリーンチャンネル、明日の函館記念の予想が飛び交っていました。

四条大橋を渡るのは大変、かつ祇園四条からだとプレミアムカーじゃないとまず座れないので、阪急で帰ります。河原町のホームに下りると9300系の特急は発車したばかり、やってきた次の特急はハズレのロングシート7300系。仕方なく乗車したものの前に人が立つとやはり憂鬱。

梅田に到着、四条河原町周辺の人もすごいけど、阪急梅田3階改札口から阪急百貨店方面へ向かう人の流れと、JR大阪駅から茶屋町方面へ向かう人の流れが激しく交錯する様はとても四条河原町の比じゃないと改めて痛感、Privace運用開始で移動が快適になっても、阪急梅田の人の流れを整理しない限り画竜点睛を欠くことになりそうです。