高野線撮り鉄と7000系と昔話
俯瞰写真を撮りたくて高野線の高野下へやってきました。
駅から10分ほど坂道を上った高台から橋本行2300系。
2000系極楽橋行
橋本行2000系、50‰の勾配ですが、写真に三角形を描いてみると6.8°≒tan0.12=120‰位あるように見えます。
極楽橋行天空
スジグロシロチョウ
極楽橋行30000形赤こうや、ここでの俯瞰写真、いずれも露出オーバー、記憶を元にレタッチしています。俯瞰写真、そう簡単じゃないことだけは分かりました。
高野下駅、大正14年開業当時のままのはずです。俯瞰写真の短い直線部分にある踏切。
なんば行黒こうやがゆっくりと通過、トンネルの向こうは丹生川橋梁です。
高野下駅についてはこれまでに3回もブログに書いています(1回目、2回目、3回目)。余程気に入ってしまったみたいです。
1898年カーネギー製のレールの柱に止まっていたカマキリ、写真を取っていたら、滑って落っこちたのには笑いました。
極楽橋行紫こうやが運転停車、いつまで経っても発車しません。
自分の乗る橋本行2300形、何と時刻通りで各停が特急を7分も待たせていました。次の下古沢には交換設備は無いし、高野山に行く人はそんなに先を急ぐわけじゃないので、問題ないです。
九度山駅は真田幸村キャンペーンでとても綺麗に。紀伊清水でだんじり!
もうひとつの今日の目的は緑の7000系、千代田車庫の南海電車まつりです。
サザンで運用時には見ることのできなかった7038の顔、パンタと幌の無い昔ながらの7000系っぽい表情です。
下から見上げる7037の顔。6月からのさよなら運転でこの車両の人気には南海自身が驚いているはず。鉄ちゃんではない人も皆スマホでパチリやっていました。せめて先頭車2両だけでも動態保存してもらいたいと切に思います。文化や歴史としてだけでなく、十分採算の取れるビジネスにもなるはずです。
貫通幌と連結器
4連のジャンパ栓と行先表示幕、いわゆる白線急行多奈川行になっていますが、多奈川行急行が運転されていた当時は英語表記がなくて「-急行- 淡路号 多奈川」でした。
ちなみに白線急行とは春木に停車するかしないかの違いで、和歌山港行、和歌山市行は「急行」、春木に停車する多奈川行、泉佐野行、羽倉崎行急行は「 -急行-」でした。
パネル展示されていた懐かし写真から2枚、岸ノ里駅の西連絡線と岸和田駅です。
西連絡線は本線と高野線汐見橋方面とを繋ぐ線路で、写真では2001形が写っていますが、自分の記憶では貨物列車しか走っていませんでした。
三角形に挟まれた岸ノ里駅、岸里玉出になったとき「ノ」の字も廃止されたんですね。玉出駅もよく似た三角屋根の駅舎でした。浜寺公園駅が東京駅を設計した辰野金吾による設計とはよく知られていますが、岸ノ里も玉出も、それに高野下駅も、いずれも瀟洒な木造洋風建築です。大正時代の南海に洋風建築を熟知した社員がいたのは間違いないかと思います。
西連絡線の対角線の位置に東連絡線があります。これはなんばと極楽橋を結ぶ線路で今や高野線そのものになっています。逆に本来の高野線である、写真のガーター橋の汐見橋への線路は南海本線の高架時に分断されてしまいました。
南海本線の天下茶屋-住吉公園(現住吉大社)は昭和初期から複々線になっていて、昭和13年になんばまで複々線完成後、西線が急行線、東線が緩行線となり、東連絡線から合流した高野線が乗り入れました。
南海には普通と各停があって、今宮戎と萩之茶屋に停まる高野線は各停、駅が無くて停まれない本線は普通と思われていますが、かつて本線にも各停がありました。本線の普通は西線(急行線)を走り、粉浜、玉出、岸ノ里は通過、各停は東線(緩行線)を走り、なんば-住吉公園間をピストン運転していました。
岸和田駅の写真は平成元年頃の旧駅舎最後の頃です。自分はこのすぐ裏側で育ちました。2階の自分の部屋から飽きもせず、矯めつ眇めつ南海電車を眺めていました。「普通車なんば行です、住吉公園までの各駅と天下茶屋、新今宮に停車します」というアナウンスが今も耳に残っています。