太秦の古墳

このところ古墳や遺跡めぐりで奈良県ばかり、いささか足が遠ざかっていた京都へ。平安京ができる前の古墳を訪ねます。

京都線特急と宝塚線急行が1秒違わず同時発車。

桂から天皇の杜古墳を訪ねようか迷ったのですが、これから訪ねる太秦の古墳とは時代が異なり、片道30分近く歩くことになると分かり、別の機会として準急に乗り換え。運転席越しに乗ってきた9300系と嵐山線の6300系が並んだところです。

西院車庫を囲む線路のカーブはまるで鉄道模型の世界。車庫にはモボ105。

電鐘式踏切がカンカン鳴りだし、やってきたのは唯一オリジナル色で残るモボ301。

すれ違ったのは2月28日に登場したばかりのKYOTRAMモボ1。モボ301のツリカケ音を聞きながら蚕ノ社に到着、ここで下車して最初の目的地へ向かうつもりだったのですが、KYOTRAMを撮り鉄したくなったので予定を変更。

太秦広隆寺で下車してモボ301を見送ります。

太秦

重要文化財広隆寺講堂とソメイヨシノ。広隆寺楼門です。

渡来人系氏族・秦氏の氏寺、聖徳太子の依頼で建立とも聖徳太子供養のために建立とも伝わる京都最古のお寺が広隆寺。太秦の地名は、機織りの技術者集団であった秦氏が絹布を「うず高く」積んで朝廷に献上、兎豆満佐(うずまさ)姓を与えられ、太秦の字をあてたのが由来だそうです。

KYOTRAMがやってきました。最近の鉄道車両では頭抜けてカッコいい。白い屋根に見たことのない形状のスカートもオシャレ。後ろはモボ2000、ということはKYOTRAMはツリカケ駆動のモボ301とも連結できるはずです。

大映通り商店街のキネマ・キッチンでランチ、3年ぶりです。

一気に気温が下がり花冷えの今日、温かいストーブが嬉しい。隣に大魔神。

日替わりランチは豚バラ肉と大根のたいたん、おばんざいが3品がついてきます。どれもいかにも京風うす味。

カウンターには大魔神フィギュア。埴輪と土偶も。

棚に並べられた撮影機材コレクションは数が増えているようです。

さていよいよ、古墳めぐりに出発。太秦中学の前に大映京都撮影所の門標。

20分ほど歩いて天塚(あまづか)古墳、予定変更せずに蚕ノ社からだと10分です。6世紀前半築造で秦氏一族の墓と推定される前方後円墳。後円部らしき鳥居をくぐって石段を上ると伯清稲荷大神という神社の社務所らしきがあり、墳丘への道が続いています。

墳丘上には鳥居や祠、石碑がいっぱいが並んでいて、いささか不気味な古墳。墳丘をぐるっと一周回れるように道が続いていて、前方部南側は太秦の南端となる三菱自動車京都工場。横穴式石室が2基あるそうで、ぐるっと周ると社務所らしきに隣接して石室のひとつが少し覗いてみえたものの、もうひとつの石室は見つけられず。

歩いてきた道を戻ると菜の花畑、じゃなくて菜の花の根本になっているのはカブです。紫の花はムスカリ。

地域ネコ2匹。

ずっと直線の水路沿いに歩いて来て、水路沿いの道が途切れた所で水路は西高瀬川と分かりました。調べてみると渡月橋の東側から取水する運河で、文久3年に千本三条まで開通、そこから南へ向きを変え、明治3年に桂川と鴨川の合流地点付近の鴨川まで開通、丹波地方の木材を運ぶためのものだったそうです。水路沿いの道が途切れた先は川が急なスロープになっていました。

少し迂回して川辺に戻るとスロープの先でマガモたちがのんびり泳いでいました。

蛇塚古墳

右京区太秦面影町の住宅街の真ん中に現れた巨石の石積、蛇塚古墳です。古墳時代後期末6世紀末〜7世紀初頭築造の秦氏の首長墓と推定される前方後円墳、墳丘はほぼ全て消失し、巨石で囲まれた後円部石室のみが遺されています。帷子ノ辻駅から10分もかからないところです。

柵の中の説明板の航空写真に前方後円墳が書き込まれています。現在地は前方後円墳東側くびれ部の内側です。

南側に石室への入口があるものの鍵がかかっていて、羨道の天井石は鉄骨で補強されています。

西側からの石積の眺めです。石舞台古墳を彷彿とさせますが、石舞台とほぼ同時期で、玄室の幅は石舞台より大きく、床面積では石舞台に次ぐ全国4位の規模だそうです。

北側と東側です。石舞台のような整備された公園じゃなくて狭い住宅地にどーんと存在する違和感の迫力がハンパないです。

近所の住民の方から中を見学しますか、と声をかけられました。管理を委託されれいる方に運良く見つけてもらったようです。ぜひ!

鍵を開けていただいて柵の中へ。頭をぶつけないように腰をかがめて羨道をくぐると玄室。蛇塚という名前は、石室内に蛇が棲息していたということに由来するそうですが、蛇はいませんでした。

石舞台と違って切り揃えられていないだけにより圧倒的迫力があります。玄室から上空を見上げたところです。

上に生えている樹木は巨石の隙間に根を伸ばして立っていると分かります。目の当たりにした迫力が写真では十分に伝わりそうもないのが歯がゆい。

よくぞ1400年も落ちたり割れたりせずにのっかっている巨石です。

石舞台と較べて洗練されていないものの、秦氏の強大なパワーを感じさせます。その字の如く秦の始皇帝の末裔とも言われ、3世紀末に葛城襲津彦の支援で百済から渡来、当初葛城に住んでいたものの太秦に本拠を構え桂川中流域、鴨川下流域を支配下に、土木、養蚕、機織りなどに技術を発揮、長岡京や平安京造営にも深く関わっていたと伝わります。

帷子ノ辻

大映通り商店街に戻ってきました。スーパーフレスコにっさん太秦店前に立つ大魔神像、映画の町・太秦のシンボルです。モデルは国宝の埴輪挂甲の武人

帷子ノ辻駅の地下入口、映画嵐電でも登場したカランカランと音が鳴る回転ドアです。今もアマゾンプライム会員特典で見ることができるようです。

モボ301がやってきました。ということは次はKYOTRAMのはず、線路脇でカラオケ喫茶から漏れてくる演歌の歌声を聞きながら10分スタンバイ。

後ろ姿もカッコいい。ヘッドライトがそのままテールライトになるのはえちぜん鉄道のキーボと同じ、カッコ良さとオシャレさ、可愛さが同居しています。今日は乗れなかったけど、7両も導入予定なので今後飽きるほど乗車することになるはずです。

帷子ノ辻駅のすぐ北側に垂箕山(たるみやま)古墳、残念ながら近づけず、宮内庁の高札の向こうに森が見えるだけ。桓武天皇皇子の仲野親王陵墓に治定されているものの、6世紀初頭または中頃の築造でやはり秦氏一族の墓と推測され、300年以上ずれたまま治定を変更せず立入禁止にする理由はないかと。

古墳に近づけないか歩いてみたものの、山陰線太秦駅をまたぐ陸橋に上っても周濠跡も見えず、近所の畑にいっぱい咲いていたホトケノザを撮っただけ。

回転ドアを回して北野線ホームへ。

今日の北野線は2連、昭和の路線バスみたいな顔をしたモボ501に乗り込みます。鳴滝-宇多野間の桜のトンネルはまだ心持ちピンクになっているだけでした。

等持院から京都市考古資料館

もう一箇所、京都市考古資料館へ向います。北野白梅町からバスか歩きか迷っていたら、タバコが吸える喫茶店でマーカーを付けておいたお店が気になり等持院•立命館大学衣笠キャンパス前で下車。去年の残暑厳しい日に訪ねた等持院です。

目的の「喫茶店のひとみ」、右隣の塀は等持院東庭、その先は立命館衣笠キャンパス、右端の白い塀は立命館以学館。立命館は存心館、清心館…、と校舎毎に凝った名前が付けられているんですね。

お昼をしっかり食べたのですが、オムライスベビーを頼むと、十分に大きい。ベビー、レディース、レギュラー、セミ、ジャンボとあってジャンボは4合だそうな。

おしゃべりなママさんとの会話が楽しい。店内は観光客か立命館の留学生なのか外国人ばかり、しっかり英語で対応していたママさんです。

京都市考古資料館まで歩くことにしました。西大路通を渡ったところに平野神社。確か桜で有名だったはずと入ってみます。参拝者の長い行列が写らないように本殿の屋根だけ撮ってみました。平安遷都の頃の創建なので北野天満宮より150年くらい古いです。

ソメイヨシノはまだ一部咲にもなっていないくらいも、60種類もの桜があるらしく、早咲きの桜は満開です。

本殿前の右近の橘。シダレザクラと濃いピンクの桜。

平野神社を抜けると北野天満宮。こちらは天神さんなので桜じゃなくて遅咲きの梅。

上七軒歌舞練場では北野おどりを開催中。米朝一門三枚看板勢揃いのポスター、米團治さんはだいぶ痩せたように、吉弥さんはだいぶ太ったように見えます。

今出川通を東へ15分ほど歩いて京都市考古資料館にたどり着きました。

1階「特別展示の考古学からわかる食文化」の写真撮影は展示品はOKもパネルはNGとのこと、長岡京から出土したカニとアワビ、時代が飛んで伏見城城下町のおにぎりとトウモロコシ。

2階の常設展へ、こちらはパネルも写真OK。地下鉄烏丸線の発掘調査でみつかった仏像。

ずらっと陶器の展示、須恵器より土師器の方が長く作られていたと分かりビックリ。

弥生時代の遺跡と出土品、左端の写真パネルは烏丸綾小路遺跡、川に土器がゴロゴロ、近くには大集落、との説明。

山城の豪族たちの遺跡と出土品、賀茂氏が支配していた鴨川と高野川に挟まれたエリア、秦氏が支配していた桂川と鴨川に挟まれたエリア、その下流には巨椋池が広がっています。その右は今日行きそびれた天皇の杜古墳。手前の円筒埴輪は黄金塚2号墳(伏見区)出土の盾形埴輪、人物埴輪は鳥羽遺跡からの出土品。右下は須恵器の装飾付器台。

重要文化財の緑釉鴟尾(鳳凰頭部)平安京豊楽殿跡出土品です。

平安京図で豊楽殿は朝堂院に隣接していたと分かります。元日節会,新嘗祭・大嘗祭の節会,外国使節入朝時等の国家的饗宴が行われた建物で、康平6年(1063年)消失とのこと。

平安時代の遺跡と出土品、パネルの遺跡写真はどれも町中ばかりなのが奈良と違ってます。

法勝寺八角九重塔CGと、新・平家物語を読んでいた時に訪ねた岡崎動物園観覧車のところにあった八角九重塔発掘現場のパネル。

京都市考古資料館真ん前に今出川大宮バス停があるのですが、やってきた四条河原町行は超満員で乗れず、次のバスに何とか乗り込んだものの息苦しいくらいの大混雑。京都市役所前で下車、麩屋町通を姉三六角蛸錦と数えながら下り、御幸町の高田酒店、今日の冷酒は吉乃川・自社栽培米五百万石無濾過原酒、越後長岡のお酒です。

スマホで40分ほど先のPRiVACEを予約、電車の時間に急かされてしまいゆっくり飲めませんでした。今日は25,500歩、16.4km。