新・平家物語を歩く 白河帖

其壱の奥嵯峨とは京都の反対側、岡崎周辺へ。「其弐」では色っぽくないので白河帖としてみます。鴨川支流の白川の流域が白河、そのウチ白川下流域が岡崎、と定義できそうです。

其壱の阪急に対して京阪プレミアムカーで。密になる心配はなく快適、アテンダントさんの笑顔も素敵です。

法勝寺跡

最初の目的地は岡崎動物園。ゾウやゴリラに会いに来たのではなく、法勝寺の跡を確認すべくやってきました。

法勝寺(ほっしょうじ)は白河天皇が建立した巨刹、岡崎動物園はその南半分に当たります。

動物園中央にあるレトロな遊園地の観覧車の位置に八角九重塔があったことが分かっています。

観覧車はせいぜい15mくらいでしょうか。去年平安京創成館で撮った法勝寺のジオラマの写真と並べてみます。八角九重塔(一番下の屋根は裳階と呼ばれ数えない)は高さ80mくらい(たぶん相輪部分も含む)で、東寺の五重塔よりずっと高いです。奈良東大寺にあった東西の七重塔はさらに高かったようですが、11世紀では世界有数の高層建築がここに屹立していました。

ジオラマ右側からのカットが都に立つ法勝寺のイメージを実感させてくれます。度重なる火災や地震で何度も壊滅的被害を受け何度も再建されたものの応仁の乱以降衰微、戦国時代には廃寺されてしまったのですが、平安京の人々にはあべのハルカスのように見えたのでは、と想像を膨らませます。

新・平家物語にも度々登場し、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者として鬼界ケ島に流された俊寛僧都が執行を務めていたのも法勝寺です。宗教施設としてだけでなく、庶民の行楽地になっていたようです。

法勝寺ノ池ノ蓮、一茎ニ二華ヲ開キ、洛中洛外ノ見物者、群ヲナス。

という南北朝時代の史書「帝王編年記」の記述を話の発端にして、新・平家物語では話が大きく展開しています。平安時代の庶民の代表のようにして物語の要所要所に登場する創作上の人物の阿部麻鳥・蓬夫婦も子どもたちを連れて法勝寺の蓮見物、その一茎二花の蓮は捏造と麻鳥は見抜いています。一方密かに新宮から伊勢を経由して都に戻っていた義経も一茎二花の蓮を捏造と睨み、待ち構えて下手人を捕まえてみたところ、平家の世を混乱させようと図ったものと判明します。ところがその下手人はかつて共に関東を旅した源有綱とわかり、義経は有綱や源氏の残党の拠点、近江堅田へと転進、平家討伐の志を同じくする同士たちを糾合していくことになります。

一茎二花の蓮は双胴蓮と呼ばれ実在し、一般に凶兆ではなく吉祥、瑞兆と捉えられていたらしく、世間を揺るがすほどのインパクトがあるとも思われず、話の展開にちょっと無理があるように感じられるのですが、落語のような展開が楽しく、ワクワクしながら読み進める一段です。

天王寺動物園の1/3くらいの岡崎動物園ですが、動物の種類は多く、アジアゾウがなんと5頭もいました。鼻をこすりつけあって仲よさげな2頭です。ちなみに天王寺動物園では長らくゾウは不在です。

ショウジョウトンボがいました。自由に飛び回っている生き物を見るほうが好きで、ゾウやゴリラはともかく、狭いオリの中のホンドキツネやホンドタヌキ、キジやハヤブサを見るのはやはりやるせない思いが拭えませんでした。動物園の南側には琵琶湖疏水。

動物園の東側を白川が流れ疎水に合流しています。このところの長雨で濁流です。

動物園の北側は法勝寺跡の北半分だった白河院、現在は私立学校教職員共済組合の運営する旅館になってます。

京都市指定名勝 白河院庭園、旅館のフロントにお断りして見学させていただきました。近代日本庭園の先駆者とされる七代目小川治兵衛による作庭、池の水は疎水から引かれています。ハンゲショウがまだ見頃。

メタリックグリーンのハグロトンボ♂が翅をパタパタ。

コケの上の赤いキノコはベニタケの一種かと。ハグロトンボ♀もいました。

安祥寺山辺りを望む二条通、右手は動物園ゾウ舎の裏側です。

二条通に面して潜水艇のような何か。中に水が入っているので潜水艇じゃないです。Tanking Machine -Rebirth-という現代アート作品と分かりました。

平安神宮神苑

第2目的地は平安神宮。明治28年の内国産業博覧会で平安時代の大内裏を5/8サイズで復元したもので、当初は大内裏があった千本丸太町に計画されていたものの土地収用ができず、ここ岡崎に変更されたそうです。

広さにビックリする境内正面の外拝殿は大極殿を模していて、平安時代後期、ちょうど平家が隆盛を極めた頃の姿だそうです。瓦は緑色、左右に建つ二重五塔の白虎楼、蒼龍楼の姿も相まって浦島太郎の竜宮城を彷彿とさせます。

白虎楼脇の入口から神苑に入ります。花菖蒲や藤の季節を過ぎたせいか人っ子一人おらず、美しい庭園は貸し切り状態。

南神苑の奥に日本最古の電車、明治28年運行開始の京都電気鉄道(京都市交通局)狭軌1形2号が展示されていました。梅小路公園で動態保存されている27号と同型です。

池の上を舞うチョウトンボがくっきり撮れてました。草木の名前が源氏物語や枕草子の一節と併せて丁寧に紹介されていています。

ここでも水辺にハンゲショウ。透明な流れに泳いでいるのはカワムツのようです。

おおっ、ハンミョウが登場。近づきすぎて飛んで行ってしまったと思ったら、すぐ近くに下りてこちらを向いて待っていてくれました。「ミチシルベ」と別名をもつハンミョウならではの行動パターンです。

西神苑に移動、ハスじゃなくてピンクのスイレン、池に反射する姿はハスには真似できないかと。水面に載った白いスイレンは王冠のよう。

スイレンの葉にクロイトトンボ。スイレンの蕾の中にはおしべがびっしり。

松の木がこんなに美しいとは初めて気づいた気がします。

バタバタっとエナガ軍団がやってきました。今日のエナガ軍団は梢の高いところばかり、それもあっち向いてばかりで撮影は大苦戦。

エナガ軍団の大半は幼鳥のようです。トントントン、コゲラを細い木をつついていました。

漸くじっとしているエナガを捉えました。もっと顔が黒かった気がするけど黄色いアイリングとつぶらな瞳、エナガの幼鳥で間違いないです。

見たことのない水草が黄色い花を咲かせています。コウホネというスイレン科の花と分かりました。

僅かにハナショウブが残っています。丸いものはハナショウブの実です。

キノコが並ぶ本殿裏のせせらぎの道を抜けると中神苑の池、水面に反射したスイレンが僅かに揺れています。ここでもクロイトトンボ。

スイレンの花とクロイトトンボ。

東神苑には大きな池、泰平閣という橋殿が架けられています。京都御所から移築されたものだそうです。楼上には鳳凰ひのとり。

この神苑も白河院庭園同様に七代目小川治兵衛による作庭、天王寺公園の慶沢園も治兵衛さんの作と分かりました。作庭もスゴイですが、この広大な庭園をメンテナンスしている人たちもスゴイです。

白虎楼とは反対側、蒼龍楼の脇が出口で、基本的に一方通行になっていることだけが気に入らないものの、自分の日本庭園フェチ度がぐんとディープになってしまったようです。

白川

琵琶湖疏水は岡崎公園を囲みながらクランクして鴨川に流れ込んでいます。法勝寺を建立した白河法皇の御所、白河院南殿はクランクした先辺りにあったようです。さらに白河院北殿という御所もあって、我が心にそわぬものは3つしかないと豪語するほどの権力を誇示していました。

新・平家物語では自分の父親が白河法皇ではないかという疑問に悩む清盛は克明に描かれているものの、白河法皇は登場していません。NHK大河ドラマの平清盛の記憶はあまりないものの、伊東四朗さん演じる白河法皇のおどろおどろしい演技だけは強烈に記憶に残っています。岡崎を歩きつつ背中から、あんたがたタフマン♪と聞こえてくるような気がします。

疎水に沿った仁王門通をくぐって白川は疎水から分流しています。動物園東側の濁流の白川とは全く様子の異なる清流です。疎水の色とも異なっていて白川の分岐点に浄化フィルタが設置されているようです。

マガモがこちらに向かって飛んできました。♀も追いかけます。

欄干も何もない橋が架かっています。水が溢れると両岸の住宅も浸かってしまうし、疎水で水量を調整できるはずで、沈下橋ということではなさそうです。

さらに2箇所欄干の無い石橋、3つ目の橋は行者橋という名前が付いてます。渡ってみると石がグラグラしてなかなかのスリル。

柳の並木と清流で風情があるものの、同じ白川沿いの哲学の小道のような賑わいはなく、自分的には好ましいです。

片側に道がなくても架かっている橋も少なくありません。私道になっている橋のようです。この辺りの航空写真を見ると川の反対側は道路に面していない住宅も多く、橋が玄関になっているようです。道路に面しておらず橋にもつながっていない住宅もあり、多分狭い路地だけで出入りするものと思われます。

両側に道がなく住宅に挟まれた場所もあります。人工的な流れなのに人工的な嫌らしさを感じさせません。

祇園に出てきました。白川は60°向きを変え鴨川につながっています。

APPENDIX

朝から何も食べていません。見つけた祇園のお寿司屋さんに飛び込んでしまいました。汗びっしょりの自分を見て出してくれた冷たいおしぼりがとても気持ちよかった。いささか予算オーバーですが、マグロと穴子が絶品でした。

鴨川の河原には見事に等間隔で人が並んでます。コロナのずっと前からのソーシャルディスタンスの鴨川べりです。

祇園四条からの帰りは初乗りの3000系プレミアムカーで天満橋に帰着。

きょうの京阪ええかんじ、という以上に、きょうの京都ええかんじ、でした。いつものようにミックスジュースで仕上げます。

もういちど平安京創成館のジオラマをチェックしてみましょう。朱雀大路を中心に見た平安京の全体像では都の発展は左京(画面右手)に偏在していて、右京の内裏周辺以外は田園が広がっています。平安時代初期には右京も開発されたものの、桂川の湿地帯が原因で発展することなく放棄されてしまい、広大な条里制の平安京がその歴史において建物で埋め尽くされることはなかったようです。

左京北部には貴族の邸宅や官庁が建ち並び、火災で消失した大内裏に代わり、藤原氏の邸宅等を臨時の内裏とした里内裏がしばしば皇居となり、都の市街地は左京北部からさらに鴨川を越えて白河の地へと広がって行ったようです。本来の平安京大内裏は何度も再建されるものの次第に里内裏が皇居ということが常態化、堀河天皇の里内裏は堀川通二条下ルの旧京都国際ホテル付近、鳥羽、鳥羽、崇徳、3代の里内裏は京都御所西側の土御門内裏となっていたものの、里内裏の一覧を見ると一代の天皇においても何度も里内裏を移転、あるいは複数の里内裏が同時に利用されていたようです。

平安京創成館のジオラマの東山の全体像では、鴨川の東側、白河エリアに法勝寺の八角九重塔や六勝寺が立ち並び、このジオラマは400年続いた平安時代でも白河法皇の院政から平家最盛期の末期を再現しているものと分かります。院政期を中世の始まりとするのが一般的な時代区分とされているようです。もう平安神宮が模したような、朝堂院や大極殿、朱雀門が建ち並ぶ巨大な宮殿ではなく、使い勝手が良く快適な寝殿造の邸宅が皇居となり、飛鳥時代以来の律令制の時代が完全に終焉、武家の時代へと社会のしくみが大きく変化する古代から中世への時代の節目に触れた思いのする白河の町歩きとなりました。