新・平家物語を歩く 洛中帖

奥嵯峨白河に続いて京都の真ん中を歩きます。タイトルは洛中帖。

樟葉付近で雨が降り出しビックリしたけど、京都市内はまずまずのお天気。東海道の西の起点、三条大橋は室町時代以降の架橋なので新・平家物語とは関係ありません。

高瀬川に架かる小さな橋に龍馬通とありました。画面右端の建物が酢屋という創業300年の材木商で、龍馬がここに匿われ海援隊屯所が置かれていたことに因み、2012年に無名の通りにこの名が付けられたそうです。

高瀬川の水辺には「五之舟入址」という石碑も。高瀬川は江戸時代初期に角倉了以が開削した運河で、その5番目の舟入があった場所です。おそらく酢屋の材木の荷降ろしに使われていたものと思われます。ちなみに一之舟入は河原町押小路に現存しています。京都で通りの名前や石碑に都度こだわっていたらきりが無いので先へ進みます。

姉三六角

河原町を渡り三条名店街のアーケードを抜け、寺町を少し上リ、姉小路を西へ。いかにも上品な京町家が並んでます。うなぎの寝床と言われる京町家ですが、東西方向の通りでは間口が広いと気付きました。

本家河道屋蕎麦ほうるとある中二階の商家、子供の頃大好きだったそばぼうろの本家で、「ほ」と書いて「ぼ」と読ませ、「る」に見えるけど「ろ」かと思いきや、ホームページの商品を見ると、包装紙が記憶と微妙に異なっています。さらにググると自分の記憶に残るそばぼうろは本家河道屋ではなく丸太町かわみちやのそばぼうろと分かりました。本家河道屋は亨保の頃の創業で、丸太町かわみちやは暖簾分けで昭和23年の創業だそうです。八ツ橋のように長年揉めているのか、本家と暖簾分け先で仲良くされているのかは不明ですが、本家が本家と名乗り続けているあたり、しこりが無きにしもあらずと感じられます。両方を食べ比べ分かりやすく紹介してくれているブログによると、それぞれに良さがあるとの由。

本家河道屋の右隣は彩雲堂、明治初期創業の日本画画材屋さんです。なんとデビッド・ボウイがこのお店を訪ねていました。木の看板は富岡鉄斎の揮毫だそうです。自分の高祖父(ひいひいおじいさん)が鉄斎さんと交流があったと祖母から聞いた記憶があります。蕎麦アレルギーだった祖母はそばぼうろを食べられなかったことを思い出しました。

現在地は姉小路麩屋町、麩屋町姉小路と読んでもでも構わないようです。京都の住所を東西から読むか南北から読むかの決まりはなさそうですが、東西→南北順の四条河原町を河原町四条とは言わず、南北→東西順の千本丸太町を丸太町千本とも言いません。メジャーな住所は語感で順番が決まっているようです。

姉小路をさらに西へ、京都文化博物館です。開催中の「花ひらく町衆文化」という特別展に惹かれ、よく見ると総合展、特別展の他、今日だけでも落語会、バレエとクラシック、等々すごく多彩なプログラム、ちょっとパリのポンピドー・センターを彷彿とさせます。先に目的地を廻ってから時間があれば戻って来たいと思います。

高倉通を下ルと三条通の角に立つ赤レンガの建物は元日銀京都支店の京都文化博物館別館、何やら見覚えがあると思ったら辰野金吾設計で中之島公会堂そっくりです。この辺りの三条通は鴨川より東の東海道になっている三条通や、嵐電の併用軌道が通る島津製作所辺りの三条通りとは全然趣が異なり、姉小路と変わらない京町家が並ぶ狭い通りです。

千切屋(ちきりや)、亨保十年創業の呉服屋さんです。ググってみると中世から続く商家としては京都最古の家系とされる千切屋が出てくるのですが、同名の別企業との由。本家河道屋と丸太町かわみちやみたいな話が京都中にありそうです。千切屋さんのような風情のある建物は大阪市内だと北浜のコニシ本社くらいしか思い出せませんが、ここでは珍しくもないです。

六角通を西へ入リます。

まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき

よくできた数え歌でこれを覚えていれば南北の移動で道を迷うことはありません。あと、

てらごこふやとみやなぎさかい、たかあいひがしくるまやちょう

を覚えるとGPSが要らなくなります。

今日最初の目的地、六角通の頂法寺六角堂です。新・平家物語に名前が出てきて調べてみたら華道発祥の地と分かり行ってみたくなった次第。

六角堂の奥の池、というかプールになぜかコブハクチョウが5羽。このプールの真ん中に聖徳太子が沐浴したと伝えられる古跡があり、その池のほとりにあった僧坊が池坊と呼ばれ、代々六角堂の執行(住職)を務める池坊が仏前に供える花で工夫を凝らしたことが華道の発祥だそうです。当時の僧坊池坊はコブハクチョウたちの前に立つ11階建ビルの池坊会館になっています。

六角堂を上から一望できるという案内があったので、隣のビルのエレベーターに乗ってみたら、エレベーターは2基あって、ガラス張りじゃない方しか動いていませんでした。

ビルに囲まれた六角堂、聖徳太子による四天王寺より前の創建と伝えられ、親鸞も参籠していた古刹ですが、観光客じゃない地元の人らしき参拝者が多く、東山辺りの巨刹大寺や、嵯峨野辺りの小寺とは異なる今も町衆の生活に密着したお寺と感じられます。檀家さんが法事を頼んだら池坊家元がやってきた、なんてことがあるのかも知れません。その場合、お布施にいくら包むかはかなり気を使う必要がありそうです。

柳の水

六角通をそのまま西へ、烏丸通を渡った先、西洞院の柳の水が第2の目的地です。

何度もスマホで現在地をチェックしつつ歩いていたのに見逃して通り過ぎていました。染物屋さんのビルの角に立て札があってその下の竹筒から石臼へポトポト水が滴り落ちていました。

新・平家物語で、崇徳上皇が住まう三条西洞院の御所で、物語に何度も登場する水守小屋の舎人、阿部麻鳥が守っていたのが柳の水です。井戸もあるはずですが、見当たりません。どうやら染物屋さんの奥の方にありそうなのですが入っていいのかよく分かりません。後で調べたところ、やはり奥へ通じる路地に隠れるように井戸がありました

柳の水の御所は保元の乱で焼けてしまったものの、後年、柳の水は利休も愛した名水と伝わり、麻鳥が命をかけて水を守り続けた甲斐があったようです。常盤御前の住まいもこの辺りにあり、麻鳥が常磐御前の女童だった蓬さんと奇しき縁を結び、貧民の友の医者兼水守としてこの地に暮らし続け、創作上の人物でありながらも、義経や金売吉次、文覚上人ら歴史上の人物と交流しています。

堀川通を渡ると三条通は再びアーケード、千本通までずっと続いています。シャッター下りている率は見た限りほぼゼロ!鰻屋さんは店頭で煙を出して焼きながらではなく木枠のガラスケースで蒲焼きを販売、上品です。それに木の看板の「うなぎ」の書体がなんとも素敵。店内で食べられるようであれば間違いなく入っているはずですがお持ち帰り専門のようです。

タバコが吸える喫茶店を見つけランチ、祇園祭の山鉾巡行は今年も中止も、展示されているとの話を聞いていたのでお店のママさんに訊ねてみたところ、今日は既に解体されてしまっているとのことでした。後祭でもう一度鉾建てされるはず等かなり詳しく教えてくれました。かなり話し好きのママさんで、黙々と料理を作っているマスターといいコンビです。

このお店もおばんざいが木枠のガラスケースに。ググってみると何と文久3年創業の仕出し屋さんです。京都の商店街めちゃ元気でビックリ、同じ元気な商店街でも千林駒川湊川とはずいぶん違ってます。まずもって上品なのですが、時代の変化に動じない代々引き継がれてきた自信が根幹にあるように感じられます。

もっと商店街の先も歩いてみたいものの、大宮通を上リます。平安京の大宮大路ですが対面通行でギリギリくらいの狭い道路です。「帆」と描かれた美しい暖簾がかかったお店はゲストハウスです。元はタバコ屋さんだったのでしょうか、緑のタイルが美しい。間口が広いのでタバコは副業だったと思われます。2階の簾も素敵、インバウンドさんたちが京都に惹かれるのも分かる気がします。

神泉苑

3つ目の目的地は御池通の神泉苑、桓武天皇により大内裏の南東に隣接する場所に造営された禁苑(皇居の庭)で、花見や詩宴、節句の祝や相撲、鷹狩など様々な宮中行事が盛んに開かれていたようです。北半分は二条城に吸収されてしまいましたが、ほぼ南半分が現存しています。

新・平家物語では、この神泉苑が何度も登場します。平家に取り入って大儲けをしている朱鼻の判卜というやり手の商人が、神泉苑の森のはずれの住居を買い取り、源義朝を亡くした常磐御前を住まわせ、平清盛の妾として提供しています。平清盛は、源義朝や頼朝、義経のようなイケメンでは全くなかったようですが、祇王といい、常盤御前といい、完全に拒絶している様子ではなく、優しさと包容力があって女性にもてたという側面もあったようです。

東寺の僧だった空海が雨乞いの修法を行ったことを始まりに度々神泉苑では雨乞いが行われていて、新・平家物語では、白拍子だった静御前もここで雨乞いの踊りを舞っています。

中央にある大池は法成就池。醍醐天皇が神泉苑で羽を休めていた鷺を見て、捕まえてくるように命じたところ、飛び立とうとした鷺はひれ伏したことから鷺に正五位の位が与えられ、以降五位鷺と呼ばれるようになったそうです。ゴイサギの由来は聞いていたものの、まさかここだったとは。残念ながらこの時の池にゴイサギは見当たらずアオサギだけでした。

境内の奥にあるもうひとつ小さな池は心鏡の池、池面に自分の顔を映すと心の奥の喜怒哀楽が映し出されるそうですが、池面は水草が張って顔は映せそうにはありません。コシアキトンボくらいしか見つからなかったものの、色々棲んでいそうな池です。

新・平家物語とは関係ないですが、せっかくなので二条城に寄ってみることにします。神泉苑のすぐ北側ですが、二条城の入口は西側にしかなく、お堀沿いの退屈な道をかなり歩きました。国宝の二の丸御殿では大政奉還が行われた黒書院もじっくり見学できるものの、内部は撮影禁止。狩野派による虎や鷹、雁、鷺などの部屋ごとに描き分けられた襖絵は見事という他ないのですが、二の丸御殿が広すぎて、靴を脱いでスリッパもなしで薄いカーペットの板敷きは歩きにくく疲れました。

二の丸、本丸、清流圓の庭園は広いだけでなく、殆どが芝生に松ばかり、それに立入禁止エリアが多すぎて、池にかかる石の橋を渡ったり、水辺に近寄ることもできず、庭園歩きの楽しさが全然味わえませんでした。おそらく平安時代の神泉苑で非公開の宮中行事でもない限りこんな規制はなかったんじゃないかと思います。

白壁と砂利道が延々と続く、ただただ楽しくない道、さらに疲れました。地下鉄東西線二条城前駅に神泉苑の出土物が展示されていました。よくぞここに地下鉄を通したものと改めて(あまり良い意味ではなく)驚かされます。罪滅ぼしなのかも、とも思える展示です。

五条大橋

烏丸御池駅で左側に人が並ぶエスカレーターに強い違和感を覚えつつ地下鉄を乗り換え、五条駅で下車、最後にもう一箇所、五条大橋へ向かいます。

五条大橋と河原町五条交差点の中間、五条通上下車線間の緑地帯に建てられている牛若丸弁慶像と、牛若丸と弁慶が決闘した五条大橋です。

京の五条の橋の上 大の男の弁景は 長い薙刀振り上げて 牛若めがけて切りかかる♪

この歌のイメージと較べても五条通の像はあまりに幼すぎますが、牛若丸と弁慶と五条大橋での決闘は少年牛若丸が鞍馬から出てきた頃かと思いこんでいました。ところが新・平家物語を読み進むも弁慶はいっこうに登場せず、ようやく五条の橋の決闘があったばかりです。牛若丸は既に二十歳過ぎていて九郎義経、弁慶も三十を過ぎてます。決闘に敗れた弁慶が義経に臣従することになるものの、義経の強さや身上、人となりに惹かれた以上に、義経が熊野新宮から連れてきた老婆、弁慶の母親と引き合わせた故と描かれています。この弁慶の母親のさめさんが北林谷栄さんを彷彿とさせ映画を見ているような心地で読ませてくれます。

鴨川の河原に下りてみると、右岸の河原の道は五条大橋から七条大橋まで途切れていると分かりました。河原には涼しい風が吹き、料理旅館の川床が張り出しています。

川床の下の流れのアメンボを撮ってみたら、2組のカップルがそれぞれ交尾していました。川の上空を舞っていたトビが下り立ったのはなんと住宅のベランダ。

五条大橋のひとつ川上に架かる松原橋、平安時代の五条通は今の松原通で、実はこれが本当の五条の橋です。ところが橋へ上がろうにも河原から道がつながっていません。

川床の下にカルガモファミリー、雛たちはもうカステラじゃなくなってます。対岸にはセグロセキレイ。

河原から仏光寺通がつながっていて木屋町を廻って漸く松原橋の上に出ることができました。高札に「元来、この地に架かっていた橋であり、牛若丸と弁慶の決闘『京の五条の橋の上』は当地のことを指す」と明記されています。

松原橋を渡り川端通りを越えると、もうひとつ欄干が架かっていて「疎水」と刻まれています。琵琶湖疏水は岡崎から冷泉通に沿って鴨川に直角に合流しているだけでなく、鴨川左岸に沿った運河も琵琶湖疏水であると初めて知りました。Google Mapを航空写真ではなく通常のマップにすると水色の流れを辿ることができます。三条付近で暗渠になって白川をくぐり、京阪三条駅を過ぎると再び川面を現し松原通、また暗渠が続いて次に川面を見えるのは塩小路、JRの北側です。東福寺付近で鴨川と離れ、伏見稲荷、深草、藤森、墨染へと京阪線沿いに流れ、その先にはなんと蹴上と同様にインクラインがあったと分かりました。インクラインの先は濠川と名を変えてクランクを繰り返し伏見の町を流れ宇治川に注ぎ込んでいます。

ショックです。全然知りませんでした。今日は小さな仲間たちにあまり会えず、二条城は大いに期待はずれだったものの、そばぼうろといい、文化博物館といい、三条通の商店街といい、ゴイサギといい、鴨川運河といい、知っているようで知らなかった京都が無限にあり、その奥深さ、底力を思い知らされました。

鴨川運河を越えた先を上ルと宮川町の色っぽい通りです。少し前までインバウンドさんたちでごったがえしていたはずの通りも、今はいかにも京都ぽい雅でかつ清楚な佇まい、大阪では見ることのできない景色です。

時間が残っていれば京都文化博物館へ戻ってみたかったのですが、体力でアウトです。それに1、2時間で京都文化博物館が堪能できるとも思えません。いささか物足りなさを残しつつプレミアムカーで天満橋に戻ると、何やら小学生の頃、隣の学区で遊んだあと自分の学区に戻って来たようなホッとする思いがしました。

京都市中京区には二条城と鴨川が、自分の住む大阪市中央区に大阪城と大川があり、町の規模もほぼ同等です。南北に流れる鴨川に対して、大川は東西に流れ、少なくとも川の流れの先に沈む夕日だけは勝ってるな、と思いました。