トビハゼと下村観山
紙の和歌山観光きっぷが廃止されていて、和歌山観光デジタルきっぷだけになっていました。minapitaという南海グループのウェブサイトにユーザー登録しなければならず、PCで登録してしまい、スマホでログインしようとしたらログインできず、パスワード再発行のメールも届かず、PCで一旦払い戻し、和歌山行くのを諦めかけたものの、諦めきれずにスマホで再登録してやっと購入。
難波駅で入場しようとしたら、QRコードが表示されず、駅員さんに教えてもらうと、往復座席指定兼付だと往路だけじゃなく復路の座席指定していないからと分かり、後で予約変更もできるとのことで仮予約してやっと入場できました。スマホの画面は往復乗車券、往路特急券、復路特急券、バス乗車券、グルメクーポン、特典クーポンとタブを切り替えて使うようになっていて、慣れたら何ということはないものの、慣れるほど使う機会もないきっぷでもあります。2,600円だった紙のきっぷに対し2,630円、ところがキーノ和歌山のクーポンは500円じゃなくて300円になってました。
海南駅前行バスで和歌浦バス停下車、水路のチヌが出迎えてくれました。食料と水を補給するつもりだったバス停前のセブンは跡形もなく更地になっていてビックリ。去年8月のストリートビューではまだありました。
ハクセンシオマネキの片手ウェービングとコメツキガニのバンザイウェービングです。
3匹目と4匹目。有明海と違ってここのトビハゼはいつも単独行動。
5年前にアップしている水路堤防の「芦辺鳴鶴」歌額を再掲。山部赤人の歌に添えられた水墨画は明治の三筆のひとりとされる書家、日下部鳴鶴のもの。江戸時代までタンチョウは北海道だけでなく、本州全域に広く分布していたらしい。5年前には古代であってもこの地にタンチョウはありえないはずと書いていましたが訂正。歌川広重の六十余州名所図会紀伊和哥之浦にも妹背山上空を飛ぶタンチョウが描かれています。
万葉の時代、片男波の砂州内側のこの干潟は今よりもずっと広大で、葦原も広がっていたらしい。現在の和歌浦干潟には葦原はなく、このためシギチなどの野鳥は少ない干潟です。
昭和なデザインのバス停、5分ほどで次のバスがやってくるのですが、今更ながらカメラの露出をぐっと下げたまま撮っていたことに気づきました。
今日のトビハゼ動画です。1:21くらいから水路からポコポコと湧水。冬の湖北のコハクチョウと並び夏の和歌浦のトビハゼは自分には欠かせない年中行事です。
下村観山展
Eテレ日曜美術館で紹介していた和歌山県立近代美術館の「下村観山展」へ。Google Mapで近代美術館を目的地にしてルート検索すると不老橋バス停よりも和歌浦バス停の方がすぐにバスの便があると分かり移動、遠くにバスが見えたので走ったら汗びっしょり。気温はさほどでもないものの湿度がかなり高い。
県庁前バス停で下車、すぐ近くに見つけたなんとも昭和な食堂でランチ。もう1時半で広い店内に自分ひとり。お店の人がこれもよく出ます、と教えてくれたミックスグリルにしました。牛、豚、鶏肉がキャベツの上にたっぷりのってボリューム満点、ちょっと変わった味付けのコーンスープが付いてきました。そこにこの店とはいかにもミスマッチなハデハデで金髪にタトゥのお嬢さんがひとりで入ってきてビックリ、ふたり並んでテレビ見ながらお食事。
満腹して交差点を渡ると近代美術館前に徳川吉宗公之像、マツケンとは顔つきが違っているものの、構図はあのオープニングシーンに由来しているようです。
和歌山県立近代美術館、去年6月以来です。前回がどうだったか覚えていないのですが、何と65歳以上無料、今日だけではなく普段から特別展、常設展両方が対象、それも和歌山県民限定でもなく太っ腹です。
下村観山は紀州藩能楽師の家の生まれ、県庁前バス停から和歌浦へ向かってふたつ目のバス停辺りに生家があり8歳まで暮らしていたらしい。その生誕の地、和歌山で45年ぶりの回顧展です。
特大パネルの写真は、左から岸田春草、下村寒山、横山大観で、明治36年1月に東京谷中の菱田春草宅で撮影されたもの。美術界の権力闘争に破れた岡倉天心に付き従って、この写真にはいない木村武山を加えた4人はそれぞれの家族ともども茨城県五浦岬へ移住、明治39年から約2年間、日本美術院五浦研究所で4人が並んで天心の指導を受け、その周辺にそれぞれが家を構え助け合う生活していました。
島崎藤村の詩集「夏くさ」の挿絵高潮(明治31年)。少年読本シリーズの饗庭篁村「曲亭馬琴」と田山花袋「池大雅」の下村観山による挿絵(明治32年)、少年読本シリーズには菱田春草や横山大観も挿絵を提供しているらしい。与謝野晶子記念館でも著名画家による歌集や雑誌の装幀や挿絵をたくさん見たばかり、明治時代から装幀や挿絵がビジネスとして確立されていたことが分かります。
自費でアメリカとヨーロッパへ向かった横山大観と菱田春草に対し、下村観山は明治36年から38年にかけ西洋の絵画技術習得のためイギリスへ官費留学、倫敦之夜景(明治37年)はモネが連作で描いたウォータールー橋かな。
ラファエロ まひわの聖母の模写(明治38年)、マヒワはレモン色の美しい鳥ですが、どこに?よく見ると左側の幼児(洗礼者ヨハネ)の手の中に茶色い鳥が。原題Madonna del cardellinoのcardellinoはゴシキヒワのことで、日本には分布していないのでマヒワあるいはヒワと訳されているようです。ラファエロの原作を見ると顔の一部が赤いカラフルなゴシキヒワが描かれていて、ゴシキヒワの顔の赤はキリストの受難の血を暗示しているものらしい。観山はイギリスから帰国前、半年ほどイタリアに滞在しウフィツィ美術館でヒワの聖母をキャンバス(帆布)に油彩ではなく、絹本に日本画絵具で描いています。
草花図(明治36–38年)はイギリス滞在中に描かれた日本の草花、画面中央にバッタ、ピンクの大輪は葉っぱの形からフヨウ、画面左上にイギリスでは自生していないオミナエシ。大英博物館には観山作品が8点所蔵されていてこれもそのひとつ。
ロンドンで一人暮らし、慣れない針仕事をしている観山自身のスケッチが添えられた書簡 母寿々宛(明治37年9月18日)、画面左上に冬物の着物が掛けられていて「毎日見るたびにたたまねばならぬと思い思い、また冬がきそうで、独身ものの喜楽と自分ながらあきれた月見つき」とあります。明治37年は日露戦争勃発の年で12月に日本軍が旅順の203高地を占領しています。観山は従軍しなかったものの、盟友の木村武山が陸軍歩兵中尉として従軍しており、どんな思いでイギリスに滞在していたのでしょう。
老松(大正5年頃)、狩野永徳の松鷹図屏風などと異なり雲形にまとめられた松ではなく、一本一本丁寧に描かれた松葉、幹や小枝までウメノキゴケが緻密に描かれています。
草廬三顧(大正4年)は三国志の一場面。外套を着た3人は関羽と張飛を伴った劉備、諸葛亮を軍師に迎えるべくその庵を訪ねてきたところ。竹の子(昭和5年)は観山の絶筆、体調不良が続く中でもよくこれだけの集中力が残されていたものとビックリ。
期待をはるかに超えて見応えのある展覧会、残念ながら重要文化財の弱法師は前期だけの展示だったのですが、東京藝術大学、東京国立博物館、さらに大英博物館等々の所蔵作品で前後期含め141作品。東京国立近代美術館と当館だけの巡回で、観山出身地としての和歌山県立近代美術館の気合がひしひしと。山田五郎さんの下村観山展解説動画でたっぷり復習できました。
岸田劉生 黒き帽子の自画像(大正3年)は去年当館を訪ねた時に見ています。並んで森村泰昌 唄うひまわり(平成10年)、キャラのたつふたりのアーティスト自画像なので、意外としっくり。
ここから作品名や作者名の紹介はなくなり、まずは作品を鑑賞してから、壁際に置かれていたA3の紙の二つ折りを参照するという展示。
ヘタウマも楽しいイラストがずらりと並んだ安田辰雄 絵日記365日(平成21年)、ちょっと蛭子能収作品を彷彿とさせます。
フランク・ステラ Raqqa III(1968年)、何を表現したものか調べてみると、特定の具体的な対象(人物、風景、物語など)を表現・模倣しないことを追求した「プロトラクター・シリーズ」で分度器(プロトラクター)を使って描かれた円弧や直線そのものの美しさを表現、What you see is what you see、だそうです。Raqqaはシリアの古代都市でイスラム美術の幾何学的なモザイク、アーチ建築に強いインスピレーションを受けたものらしい。
ビッグネームと検索しても情報が見つからないアーティストの作品が同列に展示されたコンセプチュアルな展覧会、十分理解できたとはとても言えないものの、自分のように全く絵心がなくても美にクリエイティブに参加できるのかも、と感じさせられました。「超絶筆技」の下村観山と「もしも美術がなかったら」の両極端な展示会の併設、和歌山県立近代美術館の意図がうっすら見えたような気もします。万葉集で歌われた名勝だった泥干潟のトビハゼたちも、ひょっとしたら自分なりの美の表現なのかも。
APPENDIX
Amazon Prime VIdeoで天心という2013年の映画を見つけレンタルしてみました。五浦での生活以外物語が断片的で、竹中直人演じるキャラが立ちすぎた岡倉天心の観念的なセリフが頭に入ってこず、2時間の映画にフェノロサから始めて、岡倉天心と横山大観ら4人の弟子たちの人生を詰め込み、日本画壇そのものまで語ろうとしたのは無理があります。
改めて岡倉天心、横山大観、菱田春草、木村武山の作品をネットで探し、下村観山の作品と見比べてみようとしたところ、岡倉天心の作品は殆ど見つからず、岡倉天心は画家ではなく、思想家だったとやっと分かりました。絵を教えてくれるのでもない思想家に観山らがなぜかくも惹かれ師事していたのかが一番知りたいポイントですが、この映画ではその辺が伝わってきませんでした。
観山が描いた琵琶を持つ弁財天の絵から琵琶の音が聞こえてこないと天心から指摘される場面、寒山がどのように琵琶の音を響かせるのか期待したものの、悩みに悩んで空間に数輪の草花が追加されただけ、これでなぜ天心が満足したのか、琵琶の音が聞こえてきたのか全く理解できませんでした。
映画の内容ではありませんが、岡倉天心の日本美術院五浦研究所にはフランスのバルビゾン派を画家のコミュニティの理想としてそれを日本でも作るという発想があったようです。ファン・ゴッホのアルルの「黄色い家」も画家のコミュニティの理想でした。死装束のような白い作務衣を着て正座した4人が並んで絵を描く姿はちょっと気色悪いのですが、コンセプト自体は「黄色い家」と共通しているかも知れません。
調べていて気になったのは菱田春草、天心や大観よりずっとイケメンで36歳で早逝、自分の大好きなイタチやジョウビタキの絵も。自分よりずっとイケメンでずっと偏差値も高く、36歳で早逝した自分の父とカブリます。映画の冒頭に登場していたフェノロサや狩野芳崖も気になります。こんな芋づるが楽しい自分の美術鑑賞です。