元和2年頃の京
近場で美術鑑賞、大阪市立美術館へ。それでもアベチカの出口から美術館までの500m歩くのも耐え難い暑さです。
豊臣秀長とその時代
今年の大河ドラマは秀吉や秀長が名古屋弁じゃないので見ていないのですが、「豊臣秀長とその時代」では発見がいっぱい。
秀吉、秀長、小早川秀秋らの肖像画が並ぶ中、唯一撮影OKの肖像画が重要文化財 石田正継像(文禄3年-1594年)は石田三成の父。クラウドファンディングにより2年をかけ昨年7月に修復完了したばかりの肖像画です。作者不詳も賛は臨済宗の高僧で三成と親交があった伯蒲慧稜、文頭に「才兼文武心養聖賢」とあり、三成の教養や才覚は父親譲りだったと分かります。あっという間にクラファンは目標達成だったそうで、三成人気も根強い。透け通った羽織の表現など最高峰の技術を持った土佐派に三成が依頼して描かせたものらしい。
七宝十字架の上には聖杯と麦と葡萄、左には金槌とやっとこ、下には荊の冠と3本の釘、右に鞭と梯子が描かれています。桃山時代18世紀としか案内されていないものの、2021年の同館コレクション展では清時代16世紀と紹介されており、国内で作られたものではなく中国から輸入されてきたものと分かります。
銅鍍金IHS紋香合(桃山時代、16世紀)は、元々イエズス会士の持ち物。蓋に古代ギリシャ語でΙΗΣΟΥΣ(イエス)の頭3文字IHSの文字と楔十字と3本の釘のイエズス会の紋章が刻まれています。国内の優れた職人がパードレのために作った聖体拝領のパンを保管するための聖体容器が、禁教の嵐が吹く中でキリシタン大名らの茶の湯の香合に転用されたものらしい。
桃山時代、16世紀とあるものの、セミナリオが開設されイエズス会が国内で本格的に聖具や宗教画の製作を始めた天正8年(1580年)以降と特定できます。高山右近、織田有楽斎、蒲生氏郷らキリシタン大名は厳しい禁教の足音が迫る中、茶の湯の回しのみ作法をミサの聖体拝領に見立て、茶室のにじり口に神の前では全ての人間が罪人であり平等であるという精神を、ほの暗い茶室の空間に静謐な祈りの空間を体感、茶席が同志の絆を確認しあう場となっていたそうです。この小さな美しい香合が語るものは多い。
南蛮人騎馬文鐔(桃山時代、16~17世紀)には剣や銃で対決する騎士が4組、対決シーンの間にはローマの真実の口のような顔が刻まれています。
黒唐津双耳水指(桃山時代、17世紀)、は慶長7年の織部茶会記に記録された「唐津焼すじ水指」とはこの水指らしい。無骨で歪んだ器に、作為的な筋で生じたアンバランスな景色が織部好みの「へうげもの」の美意識。織部好みの歪んだ美濃焼茶碗はなんどか見てきたのですが、この水指で利休好みとは異なる織部好みがやっと腑に落ちた気がします。侘び寂びプラスワンの遊び心、といった感じでしょうか。
黄白釉蓮弁文水指には「李朝時代(ベトナム)11~12世紀」と分からりにくい解説カード、美術館の登録としては朝鮮(李朝時代)であるものの、近年の学術的検証により、実質的に安南(ベトナム)で焼かれたものと判明。どうやら本来の用途は骨壺でそれが茶の湯の水指に転用されたものらしい。
織部はじき香合(桃山時代、17世紀)も美濃焼の織部好み「へうげもの」、歪んだ形に幾何学文様のハジキと呼ばれる香合。ハジキとは香合の蓋につまみある姿が玩具のハジキに似ていることに由来するとのことなのですが、ハジキとは小さなガラスの円盤をぶつけてあそぶおはじきとは全く別物とは分かったものの、その実態は突っ込んで調べてみても不明でした。
絵唐津木賊文茶碗(桃山時代、17世紀)、木賊(とくさ)はツクシを細長くしたような、植栽や盆栽、生け花の花材もよく用いられれる常緑草本。何気なく並べられていた焼物6点で、ひとつずつ見ていくとかなりの名物ぞろいと気づいたのは正直なところブログを書きながら。なかでも芦屋釜は重文指定されてもおかしくないと思われます。
洛中洛外図田万本
洛中洛外図、江戸時代17世紀、田万コレクション、とだけで作者名はありません。洛中洛外図は狩野永徳筆上杉本と岩佐又兵衛筆舟木本の国宝2点を始め、重要文化財が5点、Wikipediaでは168点もの洛中洛外図がリストアップされていて、本作も#019田万家本としてリストに含まれていました。
田万(たまん)コレクションは戦前〜戦後の衆議院議員・田万清臣夫妻から寄贈された615点もの東洋美術、中国石造彫刻の山口コレクションや根付のカザールコレクションと並び大阪市立美術館所蔵品を中核を成しています。
左隻の画面下をまっすぐ流れる川は、右隻からの続きで太秦付近で東西に流れる天神川かと思いこんでしまったのですが、画面右上に金閣、中央に二条城、左上に淀とあり、どう考えても辻褄が合わず、適当に名所を並べただけでかもと思いきや、この川が堀川としたら全て辻褄が合うことに気づきました。つまり上が西です。右隻左隻を横に並べ一方向ではなく、四条烏丸でドローンを上空に飛ばし、回転させた図とすればしっくり腑に落ちます。織田信長の注文で狩野永徳が描き上杉謙信に贈られた洛中洛外図上杉版(平安京創生館の複製陶板画)を見直してみると左隻は金閣から嵐山、この田万本と基本的に同じ構図と分かりました。
写真を撮っていたら外国人旅行者の女性からこれは何か、どうやって見るのか尋ねられ、This is a kind of map of Kyoto in the 17th century、と答えてナットクしてくれたようですが、京都の地図という説明ではあまりにも不正確で、四条烏丸上空からぐるりとパノラマ写真のように、右隻は南から北、左隻は北から南と説明すべきでした。
右隻から部分部分をクローズアップしてみます。右隻第二曲の方広寺大仏殿が目を引きます。秀吉が建立した方広寺大仏殿は慶長伏見大地震で損壊し解体されているので、慶長17年(1612年)に秀頼により再建された2代目大仏殿です。
大仏殿の隣に鐘楼、「国家安康、君臣豊楽」の銘文に家康がいちゃもんをつけ大坂の陣開戦の口実となった鐘楼です。去年10月に鐘楼を訪ね、大仏殿跡を歩いています。右手にはかなり短めの三十三間堂、通し矢の弓を弾く侍も見えます。目を転じると画面左上隅に清水の舞台の脚組、その右手には音羽の滝で滝行のふたり。
鴨川に架かる橋は四条大橋。橋の手前に祇園祭の山鉾。その手前の山鉾は鉾頭からたぶん長刀鉾、画面左下隅にももう1基。四条大橋から左へ河原町通を上るとカマキリがのった蟷螂山(拡大部分)。
鴨川では友禅流し、その上流にはクランクした細い橋、橋の名前は読み取れませんが、今も四条大橋と三条大橋の間に橋はなく、公儀よるものではない仮の橋らしい。もう少し川上に現存する夷川や荒神の飛び石のようなものと思われます。
鴨川の河原や中洲では何やら興行が3箇所も見えます。中洲の小屋で刀を肩に扇を手にした赤い着物のひとは、男装の傾奇者を演じ人々を熱狂させ、現代の歌舞伎の始祖となった出雲阿国ではないかと(拡大部分)。今もまだ出雲阿国像が四条川端に建っています。
左隻第五第六曲の下半分です。一番下の川は堀川で間違いなさそうです。画面右下では闘鶏の真っ最中、鶏のデッサンが見事でやはりこの絵の絵師の技量はハンパないと分かります。橋を渡るのは、女の子が落ちないように気をつけているタライを頭に乗せたお母さん、その少し右では川に向かってしーこいこい。
画面中程の「◯粂りんせき」と読める建物、大きな巾着のようなものが置かれ、衣紋掛けのようなものを台に載せふたりで担いでいます、建物正面の門では杖をついた老婆と少年、その左には柵の中に人、鐘楼も見えるものの寺社ではなさそう。位置的に西本願寺ですが、さんざん調べてみたものの全く正体不明です。
「◯粂りんせき」右上のお寺は「ほんこくじ」、現在は山科にあるものの昭和44年まで本圀寺は六条堀川にあったとわりました。西陣の本法寺ではないか、境内にいるのは本阿弥光悦と長谷川等伯ではないか、と思ったのですが違ってました。
左隻第六曲上部です。五重塔は東寺、もっと東寄りかと思いきや、現在地も堀川通の西側です。画面右上に「よと」、淀です。つまりこの大きな池は巨椋池。屋形のある舟は三十石舟としては小さいものの大坂へ下る乗合船のようです。どこかの養殖池で見たことのあるような水車のようなものが描かれています。巨椋池のランドマークになっていたと思われる何か、です。
いつまでも眺めていたい洛中洛外図、まだ見落としている、あるいは気づかないでいる大切なシーンがいっぱいありそうです。出雲阿国が見つかり、本阿弥光悦は違っていたのですが、同時代の京都には俵屋宗達、宮本武蔵、沢庵宗彭、ノンコウ(樂道入)、さらにはねねさんもまだ存命でした。この洛中洛外図のどこかにまだ隠れているかも知れません。
ようやく長い戦乱の世に終止符が打たれ、町のひとびとの表情も明るい元和2年頃の京です。