浅葱斑求めて京都彷徨

久々に京都へ。毎月通っていたのに、ゴールデンウィーク以来ほぼ半年ぶり。今年は祇園祭もパスしてしまいました。理由はもちろんこの夏の暑さ。

目的はアサギマダラ、コハクチョウとならんで毎年欠かさず会いに出かけていたはずが、去年はチャンスを逃してしまいました。半年くらい滞在するコハクチョウと違って、アサギマダラに会えるのは概ね9月末から10月前半だけ。経験上、会える可能性の高いのが京都です。この時期、洛中洛外各所でアサギマダラが大好物のフジバカマが薄紫の花を咲かせているはず。西山の大原野神社辺りがより可能性が高いのものの、曇り空でレンタサイクルはそそらないのでダメ元で洛中と周辺にしました。

アサギマダラの前に訪ねてみたい場所があって京阪七条で下車。鴨川の河原の草むらに大勢の人々、清掃活動のようです。

七条通を東へ。突き当りは智積院、向こうの山は阿弥陀ヶ峰、山頂に豊臣秀吉の廟所、豊国廟があります。2台の赤いバスは京都駅や四条河原町と京都女子大を高頻度で結んでいるプリンセスラインという路線バス。

方広寺

三十三間堂です。2月に訪ねたのですが、三十三間堂の前に訪ねた某博物館でとても不愉快なことがあったことと、三十三間堂は堂内撮影禁止だったのでブログにアップしていません。

先日ブラタモリで超拡大版として三十三間堂が紹介されていました。テレビ局がOKでなぜ一般がNGなのか釈然としませんが、一般に写真撮影を認めてしまうと映え写真を撮るために千手観音立像と並んでイェーイとかする輩がでてくるのは想像に難くなく、厳かな空間を守るための止むを得ない措置でしょうね。

三十三間堂のすぐ北側に京都国立博物館、奈良国立博物館は何度も訪ねているのに、まだ一度も入ったことがありません。膨大なコレクションがあるはずなのに特別展ばかり開催されていて平常展に戻るのを待っている次第。

京博屋外展示の考える人。ロダンの考える人は世界中に約28体、サイズの異なるものを含めると40体あるそうな。ロダン美術館認定鋳造は日本に4体、国立西洋美術館のはロダン美術館から寄贈された「オリジナル」と呼ばれるロダン生前の鋳造、京都国立博物館とMOA美術館、北海道近代美術博物館のはロダン死後の鋳造もロダン美術館公認とのこと(ChatGPT談)。

大和大路通に沿ってブラタモリ三十三間堂超拡大版で紹介されていた方広寺の石垣です。

石垣の北側に豊国神社。つまり豊国神社は方広寺の跡地に立てられていると分かります。「とよくにじんじゃ」が正しい読みらしいものの、「ほうこくさん」とも呼ばれているらしい。

豊臣秀吉像は太平洋戦争中に作られた陶製、阪神淡路大震災で大きく破損したのが修復され令和元年からこの場所で公開されているとのこと。陣羽織を着た武将姿の大阪城豊国(ほうこく)神社の秀吉像と異なり、こちらは関白・太閤の束帯姿。被っている帽子は唐冠と呼ばれる関白・大閤としての正式礼装、左右に張り出した部分は「纓(えい)」と呼ばれる冠の装飾具。

国宝 豊国神社唐門です。慶長期に伏見城から方広寺に移築され、豊国神社唐門として残されているらしい。豊臣家滅亡後、豊国神社は廃絶、北政所の懇願で社殿は残されたものの、幕末まで修理は許されず、明治天皇の勅命により再興されたのは明治13年。

唐門から覗くと正面に拝殿、その奥に本殿、ここからは見えないものの右手に北政所を祀る貞照神社があります。ねねさんに豊臣吉子という名前もあるとは知りませんでした。

唐門の鶴の彫刻、左甚五郎の作と伝わります。そういえば知恩院の忘れ傘は左甚五郎のものらしい。

回廊手前の喫煙所でいっぷくしていたら、巫女さんがふたり出てきて、誰かをお出迎えの様子。タクシーが乗り付けられ、出てきたのは新郎新婦。タクシーの賃走・空車・迎車のLED表示(スーパーサインと呼ぶらしい)には「寿」。まことにおめでとうございます。

豊国神社北側に方広寺鐘楼。

家康がいちゃもんをつけて大坂の陣開戦の口実となった方広寺梵鐘の銘文、「国家安康、君臣豊楽」の問題箇所は白く塗られていて簡単に見つかりました。この銘文が無かったとしても結局何らかの形で大坂の陣は起こらざるを得なかったはずですが、歴史の大きな一場面ではあります。

天女が舞う鐘楼の天井画、鐘楼が再建された明治時代のものです。

鐘楼の北側に現在の方広寺本堂、往時の大仏の1/10に縮小された盧遮那仏が安置されているとのこと。

手水舎の向こうにタモリさんも歩いてた細い路地を抜けると方広寺大仏殿跡の説明板。

豊国神社の真裏に大仏殿緑地。フヨウにチャバネセセリ。

緑地の真ん中の盛り上がったところの手前にも説明板。描かれた図面から、豊国神社が創建されるまでの方広寺は京博平成知新館を含む広大な境内だったと分かります。

盛り上がったところは何かの遺構かと思いきや、ケヤキの根株を養生しています、との説明。しかしこのケヤキの根株が大仏の座所を示すもののようです。

キバナタマスダレが一輪だけ。南西側からのこんもりした部分、大仏は西を向いていたので、大仏を右下から見上げたところをイメージして撮ってみました。天正14年(1586年)松永久秀の焼き討ちで焼失した東大寺大仏に代わる大仏として秀吉が発願、文禄4年(1595年)開眼の木造漆箔で高さ約19mは東大寺大仏(約15m)より大きかったらしい。秀吉は諸大名に大仏殿造立のための木材提供を諸大名に命じ、島津義弘は屋久杉を伐採して提供、屋久島に残されるウィルソン株はその切り株らしい。

木造の初代大仏は慶長伏見大地震で損壊、「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」と秀吉の命で解体。2代目大仏は秀頼により銅製で慶長17年(1612年)に再建、梵鐘が完成したのは慶長19年、梵鐘の問題箇所をすりつぶせば良いとの家康の内意があったらしいものの、今も残されています。方広寺梵鐘事件は大阪攻めのための単なるいいがかりであったことの証左となるようです。この2代目は寛文2年(1662年)若狭近江地震で損壊し取り壊されます。

3代目大仏は木造で寛文7年(1667年)、寛政10年(1798年)に落雷で2代目大仏殿もろとも灰燼に帰すまで130年も存在、弥次さん喜多さんも訪ねる京の名所に。円山応挙の五条橋大仏殿眺望図にその当時の威容を見ることができます。描かれている大仏殿からまっすぐ鴨川に出た河原が元和5年(1619年)52人のキリシタンが火あぶりで処刑された場所で、「元和キリシタン殉教の地」碑が建っていると分かりました。三条河原ではなく、この場所で処刑されたのは、せめてもの情けだったのではないかという説があるようです。

4代目大仏は天保14年(1843年)に上半身だけの仮大仏として尾張商人らが寄進、仮大仏殿はさっき通った細い路地左手の駐車場になっている場所に造立されたらしい。お世辞にも容姿端麗な美仏とは言い難い容姿だったらしい4代目大仏と大仏殿は昭和48年の火災で焼失。その様子は京都市消防局のサイトで見ることができます。(参考: Wikipedia方広寺Wikipedia京の大仏

緑地の南端からの眺めです。いくつもの大仏殿礎石跡が残されています。

左手に豊国神社本殿、大仏殿と唐門(方広寺南門)との直線上にあると分かります。さらに左手には唐門からは見えなかった貞照神社。

藤袴祭

大仏跡緑地から東大路へ出て馬道バス停に出るとちょうど乗りたかった202系統のバス。20分ほどで河原町丸太町、お店を探す時間がもったいなくてびっくりドンキーでランチ。

びっくりドンキー前のランタナにホシホウジャク、さらにオオスカシバ。両方いっぺんはめずらしい。

藤袴祭開催中の寺町通、下御霊神社では例年通りフジバカマの鉢が並べられているものの、なんとなく花が寂しい。

お隣の革堂行願寺では例年通りバザーを開催中。

フジバカマは下御霊神社より賑やか。ツマグロヒョウモン♀とナミアゲハ。

ツマグロヒョウモン♂とアカタテハ。アサギマダラは現れず。

御苑

御苑に入り烏丸通方面へ、御苑南西隅の閑院宮邸跡です。このお庭にもフジバカマがあります。一昨年訪ねた時はハズレでしたが再チャレンジ。

フジバカマは寺町通よりきれい、ツマグロヒョウモンがたくさん舞ってました。

ミドリヒョウモンです。リスアカネも登場、アサギマダラはやはりハズレ。

一昨年は閑院宮邸跡がハズレも、宗像神社でアサギマダラに会えてすっかりテンションが上がったことを思い出し、宗像神社へ。この木だったと思うのですが、アサギマダラじゃなくてシジュウカラ。

宗像神社西側の鳥居の下にイセハナビは一昨年と同じ。

烏丸通に出ると向かい側に瀟洒な洋風建築。道路を渡ってみると「大丸ヴィラ」との説明板が取り付けられていて、何とヴォリーズ建築事務所設計で昭和7年築の大丸社長宅と分かりました。ほぼ純粋なチューダー様式(16世紀頃の英国建築様式)でまとめられた昭和初期を代表する建築物として京都市登録有形文化財。

植物園

寺町通も御苑もハズレ、残すは京都府立植物園です。地下鉄で丸太町から北山へ。これでハズレるとあとは黒谷の金戒光明寺の蓮池が思い浮かびます。

フジバカマ情報のあった四季 彩りの丘へ。鮮やかな赤紫はハマナス。

フジバカマがいっぱい咲いてました。全体を撮りそびれたのですがその一部です。

いました!

やっと会えました、嬉しい。後翅のに黒い班があるので男の子です。

アサギマダラは1頭だけも、ツマグロヒョウモンはいっぱい。

満面のフジバカマにツマグロヒョウモン、ツマグロヒョウモンペア。

黒谷へ向かう必要が無くなったので温室へ。ジャングル室のニンファエアというスイレン、その池に東南アジアに生息する淡水魚のブルーグラミー。

フウリンブッソウゲ、Japanese Lanternという英名のタンザニア・ザンジバル島原産のハイビスカスの一種で、自生地では既に絶滅しているらしい。

カカオの花、つまりチョコレートの花です。

高山植物室です。ウスユキソウ属の一種とのみ紹介されていて、同定できていないようです。

とてもチャーミングな水色と黄色はワスレナグサ。

温室の外へ出ると晴れ間が広がっていてビックリ。

森のカフェ裏手のフジバカマにヤマトシジミ。このカフェ、この手の場所のお店としてはかなりリーズナブル、自販機で水を買っただけだったのですが、こんどは試してみないと。

植物生態園を歩くとところどころにフジバカマも倒れていたりして見た目はイマイチ。フシグロセンノウは六甲山高山植物園で見たことがあります。

何やら赤裸になっている木はバクチノキ、樹皮が絶えずうろこ状に剥がれ落ちて赤い幹肌を出すらしい。博打に負けて身ぐるみ剥がされる様子に似ていることからこの名があるらしい。服を着させてやりたくなる木です。

紫の花はノダケ、漢字で野竹ですが、セリ科の草本です。池畔で紅葉が始まっていました。

池畔のフジバカマにアサギマダラ!

近くにいたおっちゃんがフジバカマの脇のロープに体を引っ掛けてアサギマダラを驚かせて飛んでいってしまったのですが、周囲をぐるりと飛んで戻ってきてくれました。

四季 彩りの丘に戻ってきました。フジバカマは今がピークと分かります。

アサギマダラはフジバカマの陰にいました。1時間前に見たコと同じかと思いきや、よぉく見ると翅の模様が微妙に違っていて別のコです。左後翅外側の比較、左が1時間前のコ、右が上のコです。意外と個体差が大きくてビックリです。

南の国へ気をつけて!同じこのコにまた会えるかどうか、ChatGPTに訊いてみたところごく僅かながらあるようです。この時期の京都で見られる秋に羽化した個体は長命型の世代で、南へ移動し休眠、翌春に再び活動し北上、産卵して命を閉じるらしい。このため春に北上するアサギマダラには前年秋に見たアサギマダラと同一個体である可能性があるものの、春に見られることはごくごく稀な記録レベル。自分も春のアサギマダラは見たことがありません。やはり一期一会と考えるしかなさそうです。

アサギマダラ動画もいっぱい撮ったのですが、VLOGにまとめて後日公開予定です。

四季 彩りの丘からすぐ近くに賀茂川門があるのに、賀茂川門は閉鎖されていると思い込んでしまい、北山門まで周り1kmも遠回りして賀茂川に出てきました。午後は小雨の予報のハズレっぷりがすごい。日差しが強いので北山大橋を渡って賀茂川右岸を歩きます。

北山大橋から北大路橋をくぐって出雲路橋まで歩いてきました。ドピーカンの空のもと比叡山がくっきりも、その向こうに灰色の低い雲がたなびいているのがちょっと異様です。

37系統のバスに乗って四条河原町へ。一つ手前の河原町三条で下車、三条通を西へ、御幸町通を下り、いつもの高田酒店に到着。

チビチビやりながら1時間ほど先のPRiVACEをスマホで予約、この阪急の予約システムはユーザー登録する必要もなく、PayPayで簡単決済のスグレモノです。

阪神スナックパークでラーメン食べて帰るつもりだったけど、梅田に着いたらカレーが食べたくなって阪神バル横丁のインディアンカレー。

食後に阪神改札前の元祖ミックスジュースで口に残るインディアンカレーの痺れを鎮めます。この組み合わせの妙は自分的に大発見。26,000歩、14.7km、アサギマダラ求めてよく歩きました。