跳ね橋

あべのハルカス美術館の「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち」へ。混雑を避けて平日に向うことにしました。

ミュシャ館、利晶の杜に続いて今日も天王寺、あべのハルカス16階、横に出っ張っているフロアの上です。手前に天王寺動物園の檻のように人が中にいるところは喫煙所です。先週見つけたばかりで、中でタバコを吸ってみたものの、落ち着きませんでした。今日はドトールで吸ってきたので入りません。

ハルカスのエレベーターホールからかなりの混雑、客層からみて美術館に向う人と分かり引けました。入館に20〜30人ほどの行列、係の人に尋ねてみたところ今日はそんなに混雑していません、との回答に疑心暗鬼も列の後ろに並び、上を見上げたところです。

展示室に入ると、壁に沿って9割方女性の行列が続いています。平日の午前中でこんなに混んでいるとは思ってもいませんでした。来る前にAIに訊いて、土日は避けた方がいい、ベストは平日の4時頃と教えてもらったのですが、それまで待ちきれずまだ10時半です。

とりあえず、藤田美術館の曜変天目茶碗よろしく、絶対見たい作品へ直行。まずはマネのアスパラガスの束、そしてファン・ゴッホの跳ね橋。最初の展示へ戻り壁際行列の右端最後尾に付きます。

印象派前

「第1章印象派前」は、歴史画より軽視されていた風景画がジャンルとして確立し、後の印象派へと受け継がれていく作品たち。

展示品番号1はウジェーヌ・イザベイ 漁からの帰り(1845年)、イザベイはイギリスのコンスタブルやターナーの影響を受け、理屈よりも感情や直感を重視するロマン主義の海景画家。クロード・モネの師匠の師匠らしい。

フェリックス・イポリート・ラヌー ヴェルサイユ近郊の工事風景、木の間隠れにヴェルサイユ宮殿らしきが小さく見えます。ヴェルサイユ宮殿のストリートビューでも特徴的な建物が確認できました。

ノルマンディーのトゥルーヴィルを描いたギュスターヴ・クールベ 海景(1865年)、本来写実主義のはずが、まるで印象派そのもの。同じくクールベのシヨン城(1873年)はパリ・コミューンで反乱に加担し、亡命先のスイスで描いた晩年の作品、レマン湖の東端に位置するシオン城と見比べるとこちらはまさに写実主義。

若きクロード・モネの才能を見出し、戸外制作の素晴らしさを教えたウジェーヌ・ブーダンの漁婦たち(1870年)はブルターニュのブレスト近郊を描いたもの。

立体感ある花の静物画を描き続けたアンリ・ファンタン=ラトゥール シャクナゲの花(1874年)。

エドゥアール・マネ アスパラガスの束(1880年)を改めてじっくりと。ヤマザキマザック美術館の赤の間と似た赤い壁とよく合ってます。但しヤマザキマザックと違って文様のある壁布ではなくベタ、布ではなく紙のようです。

ずっと昔の話ですが、我孫子市に住んでいた頃、隣家の老夫婦から送られてきたばかりの北海道のホワイドアスパラをお裾分けしていただいたことを思い出します。こんな感じの束で、生なのにとろけるように柔らかく、あんな美味しいアスパラは後にも先にもなく鮮明に記憶しています。

バルビゾン派

自然主義的風景画の「第2章バルビゾン派」コーナーの壁紙は明るいグレー。カミーユ・コロー ヴィル・ダヴレー(1860-70年頃)は、パリ東郊の画家が生涯描き続けた画家の父親の別荘の池。パリ南郊のバルビゾンとは離れているものの、ありのままの自然の美、光や大気の揺らぎをキャンバスに捉えるという表現はバルビゾン派です。

テオドール・ルソー 森の風景(制作年不明)、曇天の森で雲間から差してきた陽光を受けているのは馬車に乗った親子連れかな。

印象派

いよいよ「第3章印象派」、壁紙は濃紺。カミーユ・ピサロ バザンクールの農場(1884年)はピサロが点描画に没頭する前の作品も既に点描画っぽい。3月に大原美術館展で見たりんご採り(1886年)のように点描画に本格的に取り組むも、あまりにも手間がかかりすぎるので諦めているピサロです。

クロード・モネ アニエールのセーヌ河(1873年)、アニエール(アニエール・シュル・セーヌ)はラファエリのアニエールの街路でも描かれていたパリ北郊にあるルイ・ヴィトン創業の町。

クロード・モネ ヴェトゥイユ上流、春の効果(1880年)、モネは1878年にパリの北西60kmのセーヌ川沿いの小さな町ヴェトゥイユに転居、3年で引っ越してしまうものの今もモネが暮らした頃の風景は残されているらしい。

同じくモネのエトルタの浜辺の漁船(1883/84年)、ノルマンディーのエトルタは多くの画家に描かれていて、大原美術館展でもマティスのエトルタ-海の断崖がありました。クールベ、ブーダンらもアヴァルの門と呼ばれる奇岩のあるエトルタの浜辺を描いています。

クロード・モネ 霧の中の崖の家(1885年)は1883年にジヴェルニーに転居、その隣村ガニー(Sainte-Geneviève-lès-Gasny)を描いたもの。全体が霧に包まれているので、試しにPhotoshopでかすみの除去をしてみると、赤い煙突の建物がくっきり浮かび上がったのですが、モネの見たままを大切にしたいのでアップしないでおきます。霧が晴れるとどんな景色か想像してみるのも楽しいです。

上掲のヴェトゥイユ上流、春の効果エトルタの浜辺の漁船と大きさは変わらないのにずいぶん大きく見え存在感のある作品、何度もこの絵に戻って見直してきました。モネの傑作のひとつに数えて間違いないかと。

ベルト・モリゾ 立葵と子ども(1881年)、モリゾはエドゥアール・マネのモデルをつとめ、エドゥアール弟ウジェーヌ・マネの妻で、数少ない印象派女性画家、描かれた少女はモリゾのひとり娘ジュリー。エドゥアール・マネが描いたすみれの花束をつけたベルト・モリゾはオルセー美術館に。タチアオイはこちら

ピエール =オーギュスト・ルノワール 縫物をするジャン・ルノワール(1898年)、少女ではなくて、ルノワール次男のジャンです。幼い男の子にドレスを着せ、髪を長く伸ばしてリボンをつけるのが裕福な家庭の流行だったらしい。

ルノワールの横たわる裸婦(1890-95年頃)、見覚えあるモデルは妻アリーヌの従姉妹で子守兼家政婦、ふくよかで健康的な容姿がルノワールの理想に完璧に合致し、何百点ものルノワール作品に登場しているブリエル・ルナールらしい。見覚えがあるはずです。

印象派の技法「筆触分割」についての説明パネルが掲示されていました。パネルだけではよく分からなかったのでAIに訊いてみると、絵具をパレットで混ぜ合わせず、絵具の色のまま短い筆触でキャンパスに並べる絵画手法で、混ぜるほど色が濁り暗くなる弱点もつ絵具を、例えば青い線と黄色の線を細かく隣り合わせに並べることにより、少し離れた場所からみると、鑑賞者の目にはふたつの色が混ざり合い鮮やかな緑を表現でき、黒を使わず影も表現されるらしい。このルノワールの横たわる裸婦では6〜8色の厳選された基本色だけで描かれているようです。

ルノワール晩年のヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン(1901年)はリウマチの治療のため滞在していた南仏アヴィニョンのローヌ川対岸の村。

ポスト印象派

「第4章ポスト印象派」の壁紙は濃いグレー。ポール・セザンヌ 梨のある静物(1885年頃)は、従来の遠近法とは全く異なる、複数の視点を一つの画面に収める技法、つまり正面から、真上からなどさまざまな角度で見たところをひとつにする技法で、カメラのように一瞬で固定された1つの視点ではなく、人は静物を見るとき、首を動かしたり、視線をあちこちに移動させたりして、無意識に色々な角度から見た情報を脳内で一つに統合していると考え描かれた静物画。イマイチ理屈は頭に入ってこないもののずっと眺めていられる静物画です。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 漁船(1880年)は後のアール・ヌーボーのロートレックが想像できないまだ16歳頃の作品。

ポール・ゴーガン 秣(まぐさ)まき(1884年)はゴーガンがまだ株式仲買人として働きながら絵を描いていたアマチュア時代の作品。

同じくゴーガンのブルターニュの少年(1889年)はファン・ゴッホとのアルルの「黄色い家」での生活(1888年10〜12月)に終止符を打ってブルターニュ地方に戻った時に描かれた作品、明確な輪郭線と鮮やかな平面的色彩、野生味を感じさせる少年の目つきはタヒチでの作品を先取りしています。

あれだけ日本に憧れたファン・ゴッホにとって、日本の芸術家の目で南仏の自然を見、色彩を鮮やかに描くことこそが日本の心の習得だったので、言語としての日本語には感心が向かなかったようですが、ゴーガンは日本語に強い関心を示した形跡があり、手紙にはSAYONARAと記され、タヒチでは現地語を猛勉強していたらしい。

自然と一体化した日本人にならい、目の前の自然を描くべきと考えるファン・ゴッホに対し、浮世絵のフラットな色面や大胆な構図を現実の模写ではなく高度に抽象化された知的なデザインと捉えていたゴーガン。冬の訪れたアルルの狭い「黄色い家」でふたりは激しく衝突、ファン・ゴッホの耳切り事件に発展してしまいます。

しかしゴーガンのアドバイスを渋々聞き入れてゴッホが想像力だけで描いた非常に珍しいスタイルの作品が残されています。エッテンの庭の思い出 (アルルの女たち、1888年11月)で、描かれているのはアルルから遠く離れた故郷エッテンの牧師館の庭の母と妹、人物は輪郭線で区切られているものの服装は点描、ゴーガンを大切に思うものの自分を押さえきれないファン・ゴッホが見えてきます。

パネルにフィンセント・ファン・ゴッホから弟テオへの手紙の一節が4つ、左には1885年にオランダのニューネンからオランダ語で、右には1888年にアルルからフランス語で発信されています。アンシャープマスクをかけておいたので拡大すれば読み取れます。

ファン・ゴッホ ニューネンの農家(1885年)、1885年6月9日頃の手紙にある「ミソサザイの巣を強く思わせるあまりにも美しい小屋」です。10年以上バードウォッチングしているのにまだミソサザイに会ったことのない自分です。

パリの画廊に勤めていたテオはフランス語が堪能だったのは分かりますが、フィンセントも若くして、画廊・グーピル商会のロンドン支店やパリ支店に勤務しており、少年時代から猛烈な読書や翻訳の習慣でフランス語、英語、ドイツ語を身に着けており、ゾラやモーパッサン、ヴィクトルなどを原語で愛読、その自然主義や写実主義がフィンセントの画風にも強く影響し、牧師を目指していた頃には聖書の翻訳まで手掛けていたらしい。

さて、フィンセント・ファン・ゴッホ 跳ね橋(1888年)。「アルルの跳ね橋」でも「ラングロワ橋」でもなく単に「跳ね橋」と題されているのは、所蔵するヴァルラフ・リヒャルツ美術館の命名に沿っているものとのこと、本稿のタイトルも単に「跳ね橋」にしました。ファン・ゴッホの跳ね橋には油彩がが4点、水彩画が1点、デッサンが4点残されており、クレラー・ミュラー美術館(オランダ)所蔵のアルルの跳ね橋も来年2月に神戸市立博物館にやってくるらしい。美術の教科書に掲載されていたのは、この跳ね橋の対岸から橋を渡っている馬車が描かれたアルルの跳ね橋だったかと。

WikiPediaにアップされた跳ね橋と見較べると空が青くないです。左端の塗り重ねられた雲の筆使いは自分の写真の方がよりゴッホらしく見えます。それに本稿4枚目の写真の方がこの写真より空が青く見えます。iPhone17Proで撮った自分の2枚の写真でもホワイトバランスや露出が自動調整されるので違って見え、WikiPediaではずっと高画質のカメラで撮影したものが補正されているものと思われるのですが、試しにPhotoshopでこの写真の青味を強めてみたものの、WikiPeaidaのようにはなりませんでした。作品自体の絵具も経年でいくばくか変色しているはずで、ゴッホが実際に描いた空はどんな色だったかは自分で決める他なさそうです。

1981年にアルルを訪ね、ドーデーの風車小屋の写真が残っているものの跳ね橋の写真は残っていません。糸杉の写真があるので、ゴッホの面影を求めてアルルを訪ねたのは間違いないはずです。ゴッホが描いた橋は1930年代に解体され、元の場所から2kmほど上流に1960年頃に稼働しないものの復元されているのに、訪ねた記憶がありません。ローマ時代の闘技場はうっすらと思い出せます。ドーデーの風車小屋はアルル市内から5kmほど離れた丘の上、カーナビも無い時代にマルセイユで借りたレンタカーで周り、田園に囲まれたドミトリースタイルのユースホステルがあまり居心地よくなかった記憶は残っています。

点描派

「第5章点描派」で壁紙はベージュ。点描画といえばスーラですが、点描画として確立される前の作品1点だけだったので、スーラとともに点描画を確立したポール・シニャックの作品を2点。カポ・ディ・ノリ(1898年)は海と船が大好きだったシニャックがジェノバとモナコの中間にあるノリ岬を描いた初期の点描画。

コンカルノーの波止場(1933年)は点描画の点が大きく四角くモザイクタイルのように描かれた晩年の作品。シニャック自身ヨット乗りだったらしい。

アルフレッド・ウィリアム・フィンチ 北海沿岸近くの村(1889年頃)、フィンチが幼少期を過ごしたベルギーのオーステンデ周辺を描いたものらしい。それらしき広〜い場所が簡単にストリートビューで見つかりました。本作の最初の所有者は画家でコレクターでもあるアンナ・ポック、この人がフィンセント・ファン・ゴッホの生前に唯一売れたとされる赤い葡萄畑を400フランで購入しています。

レオ・ゴーソン ラニー=シュル=マルヌのエテューヴ通り(1889年頃)は、額縁の中に額縁があって内側の額縁も作品と同系色の点描で彩られています。キャンバスではなくポプラの板に描かれているらしい。ラニー=シュル=マルヌはゴーソンが生まれ育ったパリ中心部から25kmほどの町、狭く短いエテューヴ通りはストリートビューで120年ほど前とさして変わらない散歩が楽しめます。ゴーソンはゴッホの強烈な色彩表現の熱狂的な支持者で、テオとも親交がありゴッホの遺作と自分の作品を交換する提案までしていたそうな。

テオ・ファン・レイセルベルヘグリ=ネ岬、或いは夏の霧(1900年)、短い筆致の点で描かれたグリ=ネ岬、海はドーバー海峡。

アンリ・ル・シダネル ヴェルサイユの薔薇のある家(1918年)、大原美術館展でお気に入りになったシダネルの夕暮れの小卓、人が描かれていないのに人の気配を感じさせるのはシダネルの魅力。

ファン・ゴッホの略年表

「第6章20世紀の色彩画家」はマティス、ヴラマンク、ボナールなどが展示されているものの、残念ながらなぜかこのセクションのみ撮影NG。壁紙は白だったかと。

最後に展示されていたモーリス・ユトリロのサーカス、或いはヴォージラールの祭り(1927年)のユトリロとは思えないくらいカラフル、ドイツ語WikiPediaに画像がアップされていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ略年表、読み終えて間がない原田マハたゆたえども沈まずの余韻が戻ってきました。フィンセントとテオのファン・ゴッホ兄弟と日本人画商林忠正の物語、北斎や広重に憧れ日本へ行ってやり直したいと懇願するゴッホに対し、林忠正はファン・ゴッホにとっての日本(新しい創作のための地)としてアルル行を勧めるという場面は、フィクションであってもなるほどと唸らせるものがありました。

この地は空気の澄み具合と鮮やかな色彩効果において、日本と同じくらい美しいと感じています。水面が広がる風景は、日本の浮世絵で見るように、美しいエメラルドグリーンと濃い青色の斑模様を作り出しています。淡いオレンジ色の夕焼けが野原を青く見せ、輝く黄色の太陽が輝いています。

ファン・ゴッホと芸術感を共有していた若き画家のエミール・ベルナールへの手紙にあるこんな一文が「たゆたえでも沈まず」のプロットになっているようです。ファン・ゴッホはアルルで新しい創作のための画家たちのコミュニティづくりを目指したものの、ベルナールは経済的事情と徴兵のため参加できず、唯一参加してくれたゴーガンと一緒に生活と創作活動を行うも3ヶ月で破綻。耳を切り落とした(耳たぶだけだったらしい)ゴッホは精神病院へ、そしてパリ北郊のオーヴェル・シュル・オワーズで創作活動を続けるも、1890年37歳でピストル自殺。ゴーガンはファン・ゴッホの死の翌年タヒチへ。

ベルナール、ゴーガンの他、上述では印象派の長老だったピサロ、ファン・ゴッホに点描画を伝授したシニャック、ファン・ゴッホを侮辱した画家に決闘を申し入れたロートレックらとの交流、兄を追うようにフィンセントの死後1年で逝ってしまった弟テオ、フィンセントとテオ兄弟の死後、フィンセントを世界的名声へと導いた義妹のヨーとのエピソードについてもっと書きたいところですが、ファン・ゴッホの作品にまた触れた時に書き綴ってみたいと思います。多くの人達にかように深く愛されたフィンセント・ファン・ゴッホは決して孤独ではなかったかと。なぜ自ら命を絶ってしまったのか、今更ながら残念でなりません。70歳のファン・ゴッホはどんな絵を描いていたのか想像を膨らませてみました。おそらく日本にやってきて富士山を描いていたのではないかと。

今回の展覧会はドイツ・ケルンにあるヴァルラフ=リヒャルツ美術館から借りてきたもの。同館は拡張工事のため2028年末まで閉館中。閉館中も稼いでくれる作品たちはありがたい存在です。ここあべのハルカスでの展示会のことも同館ウェブページで紹介され上掲の作品たちがスライドショーになってました。

会場を出ると、ゴッホ、フェルメール、モネの缶バッジガチャ、跳ね橋真珠の耳飾りの少女が出てくるとは限らないので、ガマンしておきます。

入館時と一転、ガランとした美術館受付にビックリ。やはりAIが教えてくれたように夕方にすれば良かったようです。