千利休と与謝野晶子

先週に続いて堺へ。目的地が宿院なので、阪堺電車で。

岡崎屋質店ラッピングのモ606で出発、住吉鳥居前で金太郎塗りになったモ503と行き違い、天王寺駅前から35分で宿院に到着、距離にして9.1km、表定速度は15.6km/h、自転車よりちょっと速い。

宿院交差点西側にさかい利晶の杜、2015年3月開館の文化観光施設で英語名はSakai Plaza Rikyu and AkikoとMuseumではありません。さんざん阪堺電車モ161形撮り鉄していたので存在はよく知っていたものの中に入るのは初めて。

千利休茶の湯館

1階は「千利休茶の湯館」、湯と館が並ぶとパッと見スーパー銭湯です。中に入るとリーフデ号の特大帆船模型、リーフデ号は関ヶ原の戦いの年に豊後国臼杵に漂着したオランダ船、出港時の110人のうち生存者は14人で、その中にウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(八重洲の地名になった人)が含まれています。ただ千利休とは一切関わりがないはずで展示に違和感を覚えるのですが、堺の南蛮貿易による繁栄を伝えるためのようです。リーフデ号漂着の報せを受けた家康は豊後国から堺へ回航を命じ、積載されていた大砲が関ヶ原で東軍の戦力として使われています。

「貿易商人と茶人のまち、天下人のまち」のパネルには、フランシスコ・ザビエル、武野紹鴎、今井宗久、千利休、三好長慶、信長、秀吉、家康の肖像が並び、タッチパネルではそれぞれの音声解説、利休の声は堺出身の片岡愛之助さん。愛之助さんは二代目片岡秀太郎の養子で、実家は堺駅近くの船のスクリュープロペラ製造工場らしい。

「SKTの茶碗」、AKBとかNMBとかのノリの展示かと思いきや、堺環濠都市遺跡でSKTとわかりました。歴史好きのはずの自分がその存在を想像すらしなかったことが不思議ですが、室町時代後半から江戸時代初期にかけての都市遺跡で、大坂夏の陣で豊臣方により焼き尽くされる以前の自治都市だった堺の遺構と、江戸幕府が盛り土し元和の町割りとなった環濠都市遺跡が上下に重なっているらしい。

発掘調査は昭和50年に始まり現在も継続されており、堺旧市街地エリア内でビルの建設や道路工事などが行われる度に必ず発掘調査が行われ、調査地点にSKTナンバーが振られて一元管理されているそうです。掲げられた地図の[11]が宿院交差点付近です。

「SKTの茶碗」の中国製青磁碗(SKT263地点出土)、外側に蓮弁文が釉薬で精緻に描かれた砧手の青磁、つまり龍泉窯で焼かれたもので間違いなさそうです。唐津天目茶碗(SKT9地点出土)は口縁部がすぼまっているものの、形が歪んでいて、釉薬の塗りもかなり雑、ちょっと天目と呼ぶには憚られる気がします。

黒織部茶碗(SKT771出土)、韓国製茶碗(SKT871出土)、軟質施釉陶器茶碗(説明をよく読み取れない)。中央の韓国製茶碗は藤田美術館でみた本手斗々屋茶碗、あるいは(本手ではない)斗々屋茶碗と形は全く同じで、艶が薄く沈んだ色味でよりプリミティブな良さ感じさせます。

有名茶人の箱書きがある箱に大切に保管され有名寺社や大名家に代々伝わってきた名器ではなく、500年近く土の中に埋まっていて最近の発掘調査で堺市内から出土した茶碗たち、歴史小説や大河ドラマでみる自治都市堺の繁栄ぶりが生で感じられます。SKT番号もバラバラで一部の権力者だけが茶の湯を独占していたのではない自治都市堺の民主主義も伝わってきます。時々展示替えされているらしいSKTの茶碗、もっとたくさん見たい。

「水をめぐる道具たち」の展示、利休家系図と茶の湯関係図はしっかり頭に入れておきたい。

伊賀水差(蓋付き、SKT346出土)と備前水指(SKT313出土)、備前建水(SKT655出土)、建水は茶碗を清めたり温めたりした際に使用した湯や水を捨てるための容器。

14世紀後半の井戸の跡から出土の青磁花入(SKT112出土)は南宋〜明代の唐物。

利休作の竹花入を写したと伝わる備前掛花入(SKT874出土)独特の歪みは織部焼の影響、利休に代わり古田織部が茶の湯の指導者となり、備前焼に新しい様々な新しい試みが取り入れられたらしい。

開口神社隣接地の蔵跡から出土の備前木瓜形鉢(SKT263出土)は、奈良火鉢を写した形。

茶室起こし絵図「待庵」(複製)を組み立てたところを展示、待庵は利休作で大山崎町の妙喜庵に現存する二畳の国宝茶室。茶室起こし絵図は江戸時代の大工棟梁が作成した展開図。

ふたつの利休の茶室再現。堺今市屋敷四畳半(床部分)は現在地からすぐ近くにあった利休屋敷(後述)に建てられた四畳半茶室の床部分。右手は聚楽第周辺に構えられていた京聚楽屋敷四畳半茶室の床部分、床の間がかなり狭くなっていてぐっと落ち着きを感じさせます。

同じ展示室に利休の茶懐石が蝋細工で再現されていたので、茶懐石はどんな様子だったか調べているとはじめての茶懐石 茶懐石のいただき方動画を見つけました。どうにも作法が面倒すぎますが、長時間の正座で足をむずむずさせている子どもたちが可愛く、陶磁器の展示でよく登場する向付や八寸などの役割もよく分かりました。

喜多川武清千利休像(複製、嘉永3年)、賛は大徳寺の僧・大網宗彦。並んで利休の肖像としてよく知られる伝長谷川等伯千利休像(複製、文禄4年)。

千利休茶の湯館を出て奥の方へ進んで外へ出る通路を抜けると、待庵を実物大に復元したさかい待庵の外観見学ができるようになっていて、にじり口が確認できました。内部見学は立礼席での呈茶がセットになった別途チケットが必要なので機会を改めます。

もとに戻ると「土塔」と「堺の誇り行基」の案内、堺のピラミッドこと行基建立の土塔は特別公開の日にてっぺんまで上りました。

与謝野晶子記念館

2階に与謝野晶子記念館。右扇に鉄幹の歌29首、左扇に晶子の歌33首が書かれた夫婦合作の晶子・寛自筆歌小屏風。写り込みが激しいですが、明治の人の字なのでだいたい読み取れます。右扇鉄幹の一番大きな字は、

不思議より不思議にあそぶ路尽きず、夢と恋とのなかにうたへば - 鴉と雨

晶子への愛があるからこそ自分の歌の道は枯れることがない、という意味。28歳でバツ2の鉄幹が23歳の晶子と結婚し生涯連れ添ったわけで、人生を運任せではなく自分で切り開くタイプの人だったようです。

左扇左上の晶子の歌は、

夏の花皆水晶にあらむとす、かはたれ時の夕立の中 - 春泥集

かはたれ時とは彼は誰時、黄昏時のこと。晶子の歌には心情を詠んだものばかりではなく風景を愛でた歌も少なくないようです。

屏風に映り込んでいたのは与謝野晶子著作本装幀の展示。みだれ髪(複製、明治34年)装幀は洋画家の藤島武二。

荷葉なかば誰にゆるすの上の御句ぞ御袖片取るわかき師の君

住吉大社の蓮池で、「明星」の若き天才歌人で晶子にとって親友でもあった山川登美子と鉄幹との三角関係を歌ったもの、俵万智さんの現代語訳だとこうなります。

師の君が葉の裏に書く上の句よ 続きを書くのは我か彼女か

新訳源氏物語、上巻、中巻、下巻の一、下巻の二(複製)、装幀は中澤弘光。与謝野晶子は3回も源氏物語を現代語訳しており、これは明治45年〜大正2年に金尾文淵堂から出版された1回目の現代語訳のもの。

寛と共著紀行文集巴里より(大正3年、装幀: 徳永柳洲)と歌集火の鳥(大正8年、装幀: 中澤弘光)。

歌集毒草特製版(複製、明治37年寛と共著、装幀: 藤島武二)と春泥集(複製、明治44年、装幀: 藤島武二)。晶子著作装幀の多くを手掛けた藤島武二は黒田清輝と並ぶ洋画の大家ですが、フランス・イタリアへの留学経験も長く、アール・ヌーボー調の装幀はずいぶんおしゃれ。

鉄幹と晶子には何と子供が12人。四男はロダンにちなんでアウギュスト、五女はパリ滞在時に親しくなった女性にちなんでエレンヌ、いずれも日本の生活では不便だったようで、昱(いく)、幸子に改名しています。キラキラネームは森鴎外譲りかと。

赤ちゃんだった祖母が与謝野晶子に抱かれているこんな古い写真を見せてもらったことを思い出しました。実家と晶子にどんな関わりがあったのかは不明です。展示ケースには与謝野鉄幹が主菜した文学美術雑誌明星(第二次創刊号復刻版、大正10年)とその後継誌冬柏(とうはく、昭和9年)。

明星第6号(明治33年9月、復刻版)にはアルフォンス・ミュシャの挿絵、ミュシャ1896年のサラ・ベルナールです。これで利晶の杜とアルフォンス・ミュシャ館がつながりました。開かれたページには与謝野晶子じゃなくて旧姓で鳳晶子(「おおとり」ではなく「ほう」と読むらしい)の歌がずらり、隣のページには晶子の恋のライバル・山川登美子の歌がずらり。

晶子の短冊、与謝野寛初版、晶子・寛共著毒草初版、晶子の短冊を母が大切にしていたことを思い出しました。でも、その短冊の入手経路は不明、祖母と母で与謝野晶子について語り合っていたという記憶があるような無いような。

展示ケースの引き出しを開けるとみだれ髪かるた(複製)、かるたとして販売されていたのではなく、杉浦非水と中澤弘光のよるイラストが「明星」の口絵として掲載されていたものらしい。右上は

ゆあみする泉の底の小百合花二十の夏をうつくしと見ぬ

裸の自分を美しいと歌うナルシストなはたちの晶子。別の引き出しには与謝野寛自筆略年譜(複製)、原稿用紙に森鴎外の名前が見えます。夫妻との親交深く、双子の長女八峰(やつお)と次女七瀬(ななせ)は鴎外が名付け親。

晶子がパリ滞在中に描いた油絵リュクサンブール公演(複製、1912年)、洋画家で小説家の有島生馬に師事し絵を学んでいたらしい。

「晶子が生まれた堺」のパネルには見覚えのあるイラストがたくさん、竹久夢二です。自伝私の生ひ立ち(191大正4年刊行)の挿絵だそうです。和泉の山の茸狩りの思い出として

松茸は取っても取ってもあるのですもの

岸和田あたりの山でもいくらでも松茸が採れたようで、ビックリ。物干し台で月見の絵には

籌さん、あのお星さまは、お月さまに近いのね。

籌さんとは弟の鳳籌三郎(ちゅうさぶろう)、「君死にたまふことなかれ」の君は日露戦争に召集されたこの弟のこと。晶子の祈りは通じ、無事帰還しています。右端は女学校の頃の晶子、美人とはちょっと言い難い。

晶子の生家駿河屋の原寸大ジオラマ。西洋好みの父が建てた2階は洋風の建物、ステンドグラスなども嵌めれられていたらしい。晶子の祖父鳳惣七が大阪本家駿河屋の暖簾分けで創業した堺駿河屋、ルーツは和歌山の総本家駿河屋(鶴屋)で堺駿河屋や空襲で全焼も昭和54年まで営業していたらしい。

駿河屋跡はモ166がまだ元気だった時に前を通っています。宿院の交差点のひとつ北側の交差点角で、大道筋に歌碑があります。まだ3年前ですが、モ166、モ162、モ161のツリカケ音がたっぷり楽しめました。

企画展示室ではさかい利晶の杜×文豪とアルケミスト企画展明キ星ヲ繋グ、育成シミュレーションゲーム/テレビアニメ文豪アルケミストとのコラボ企画だそうで、文豪キャラクターのカットアウトが並ぶ展示室に関連作品の展示。北原白秋、吉井勇、与謝野鉄幹、石川啄木、高村光太郎が二次元キャラクターになってました。

藤島武二装幀挿絵、中澤弘光挿絵、高村光太郎挿絵の晶子短歌全集(大正8-9年)。悲しき玩具他石川啄木歌集。

奥から、与謝野鉄幹、吉井勇、高村光太郎、北原白秋、石川啄木の詩歌を凝ったフォント遣いでパネルに。

特大タペストリーに晶子が生まれた堺のパネルにあった竹久夢二の祭提灯の挿絵。

1階に設置された宿院付近の巨大ジオラマ、宿院で阪堺電車の大浜支線が分岐していた頃の再現です。ダブルルーフの電車は1924年(大正13年)梅鉢鉄工所製のモ101形。

museumではないさかい利晶の杜ですが、運営や企画は堺市博物館の学芸員さんたち。単なる文化観光施設ではなく実質的に博物館です。

千利休屋敷址

利晶の杜を出ると少し振出していたものの、すぐ北側に千利休屋敷址を見つけました。利晶の杜と千利休屋敷址の間の道路は中浜筋、魚卸問屋の魚屋(ととや)だった利休屋敷はメインストリートの大道筋ではなく海に近い中浜筋に面していたようです。当時の海岸線は堺駅より東側の住吉橋辺りだったようです。

門をくぐると5坪ほどの空間、東屋のようなところに座っていたボランティアガイドの女性と目が合って、ご案内いただくことに。残されている屋敷跡は当時のごく一部と思われ、町割りの記録からすると125坪説が有力とされるものの、ボランティアガイドさんいわく千坪を超える広大な屋敷だったとする説もあるようです。

敷地の奥の井戸は椿の井戸、利休が椿の炭を底に沈め茶の湯に使った井戸と伝わります。つまり炭の浄水効果を知っていた利休、さすがです。屋形は京都大徳寺の山門金毛閣の古材が用いられているらしい。

利休の生涯を簡単にまとめた石碑、利休の本名は田中与四郎、たなかよしおさんと聞こえ、イメージと違いすぎてちょっと吹き出してしまいました。

雨が強くなってきて、遠慮していたボランティアガイドさんの相合傘に入れてもらって自分の折りたたみを取り出します。

お礼を言って利晶の杜へ戻るとキキョウ、雨粒がのってまさに春泥集の「夏の花皆水晶にあらむとす」そのもの。

モ701形のカブリツキ席で帰ります。運転台は珍しい1軸2ハンドルマスコン。

我孫子道車庫の奥、車両を平行移動させるトラバーサの向こうに2両の事業用車両が見えます。丸い屋根がTR-1、四角い方はTR-2、車籍の無い構内牽引用の「機械」です。

車庫上屋の隅っこに水色雲塗装になったモ162がチラリ。激しくなってきた雨、やってきたのはモ161かと思いきやモ502。

赤垣屋でプファー、パリッパリの肉みそピーマンが実に美味い。発車寸前の上本町行シャトルバスに乗りこむと土砂降り。

与謝野晶子・私の生ひ立ち

短歌には全く素養がない自分ですが、与謝野晶子には随筆も多数、青空文庫になっていて、早速Kindleで私の生ひ立ちをダウンロードしてみました。冒頭からいじめっ子の話で、晶子30代後半の著作なのに、小学低学年の頃にいじめられた男の子の名前や服装まで克明に描かれていたり、かなりねちっこい性格の人のようです。このねちっこさが恋や愛や嫉妬を語るには不可欠なのかも知れません。

同級生や近所の子、親戚の子どもたちや大人たち、おおぜいの奉公人たちが実名(たぶん)で登場、それぞれの登場人物の容貌やエピソードが昨日のことのように書かれていて記憶力の良さがハンパない。特に自分や周りの人達の着物の種類や素材、髪型についての記述が克明、相当ファッションにもかなりこだわりのある人だったと分かります。

「狸の安兵衛」の項では、出入りの車夫の失敗話にからめて、がた馬車(辻馬車のことか)をチャーターして大阪へ出かけた時には必ず寄ったという吉助園という植木屋、上本町の博物場、中之島公園、難波橋の川魚料理の網彦へ行った、という思い出話。上本町の博物場とは内本町の博物場の間違いで、美術館、植物園、図書館、能舞台、産業見本市、公園を融合させた複合施設があったらしい。難波橋の網彦は、寛永年間の創業で元禄年間に北浜の屋形船のうなぎ屋となり今も盛業中の阿み彦、吉助園は元禄時代創業の牡丹栽培で名を馳せた植木屋さんで明治末頃まであったと分かりました。

紙の本であれば竹久夢二の挿絵(右上のタペストリーの絵)が組み込まれていたはずの「夏祭」は7月31日の大鳥神社の神輿渡御と8月1日の住吉大社の神輿渡御のことと分かりました。いずれも現在地から近い宿院頓宮が目的地、住吉大社の神輿渡御は11年も前に見に行ったことがあるのですが、大和川を渡ったあと、どんな様子なのかは知らないままです。家中総出でごちそうを準備し、親戚たちがたくさん集まる、晶子にとってお正月より強く記憶に残るイベントだったようです。楽しい祭が終盤を迎えるに連れ明日の寂しい日の影が目に見え刻々不安が募る晶子さん、その気持よくわかります。

学校の遊び時間の「嘘」は強烈。級友らの話す継子話に対し晶子の話す継子話しは100%嘘、実は私の家は京都の三条松原通(三条も松原も東西の通りなのでありえない)の友禅屋で、友禅染を鴨川で洗濯していると染物が流されてしまい、賀茂川の岸を一晩走って追いかけ、伏見までたどり着き、伏見の親切なおばあさんの家の子になって…、とどんどん嘘が飛躍していくものの、可哀想な方、継子なんてちっとも知れまへんだした、気の毒だすなあ、と級友たちを泣かせることに成功しています。

大店の裕福な商家にも関わらず、父親が西洋好で大の迷信嫌いだったらしく、この時代には数少ない進歩的な家庭で育ったとも分かり、晶子のその後に影響を与えていただろうとも見えてきます。

気丈夫なところ以外、考え方やセンスが自分の母と重なるように見える与謝野晶子、山の辺短歌会というサークルに参加し歌詠みだった母と晶子について語り合いたかったとしみじみ。