河井寛次郎記念館
東洋陶磁美術館の松惠コレクションで見つけた河井寛次郎の花碗で存在を知った京都五条坂の河井寛次郎記念館へ。東山五条交差点の反対側には京焼の京都陶磁器会館、さらに魯山人作品が展示されている四条通りの何必館へと、東山区で焼物三昧町歩きと洒落込んでみることにしました。
田舎風京町家
五条通一本南の渋谷通を歩くと坂道の傾斜が突然急に、このまま先へ進むと平重盛が暮らしていた小松谷です。東大路通の手前を左の路地に入ると河井寛次郎記念館、格子戸に格子窓、二階には簾が下ろされていていかにも京町家風情。
作業場の額には「手考足思」、てこうそくしと読み、実際に手を動かして試行錯誤し、自分の足で現地へ赴いて直接見聞きして感じる、という寛次郎の行動哲学。
東京高等工業学校窯業科時代の勉強ノート、後の東京工大(現東京科学大学)在学中の英文でのノート、毛筆の書だけでなくペン字も美しい。河井寛次郎は安来市の大工の家の生まれ、安来駅から300mほどのところに生誕の地の碑が建てられています。安来にはコハクチョウに会いに2016年と2023年の2回訪ねていて、近くを通ってるはずですが、その当時は気づくまでもありませんでした。足立美術館も訪ね、北大路魯山人作品はたくさん見た記憶はあるものの、地元の河井寛次郎作品を見た記憶はないのですが、 少なからず所蔵展示されていたと分かりました。中学はかつてラフカディオ・ハーンが教鞭を取っていた松江中学の卒、汽車で1時間ほどかけて通学していたようです。
スリッパをサンダルに履き替えて登り窯を見学。一番手前の室を覗いてみました。寛次郎が使用していたのはこの隣の2番目の室だったそうです。
登り窯の上まで上ってみました。来る時の渋谷通で見た急な勾配を活かした作りと分かります。昭和41年寛次郎没後の昭和46年頃まで共同窯として使われていたものの、窯に火が入ると祇園の芸妓さんの着物が煙で汚れると苦情が出るほどだったそうな。ほどなく大気汚染防止法などの公害規制が厳しくなり、住宅街となった五条坂で薪を使った登り窯の操業ができなくなり火が落とされたらしい。既に五条坂周辺だけでなく京都市内に稼働中の登り窯はなく、現在五条坂の陶工たちは電気窯やガス窯で作陶を続けているそうです。
登り窯で焼成するメリットは、大量に一度に焼ける効率以上に、電気窯やガス窯では出せない、炎と灰が器に直接触れることで生まれる予測不可能な美しさが生み出されること。炎の走り方や温度の変化によって、器の色や模様が劇的に変わる自然の技と人間の技が融合する「窯変」です。
ネコの置物、その置物と「今日もほっこり暮らしてます」とキジネコ。動物写真家の岩合光昭氏の写真集ねこの京都の表紙です。
焼き上がり具合をチェックしている寛次郎の写真は、ハッセルブラッド賞受賞の報道写真家・濱谷浩の撮影。
その奥に机の置かれた書斎。掲げられた詩をChatGPTに全文を書き出してもらいました。
仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう
この詩の内容、まるでChatGPTさんそのものですね、とずいぶん会話が盛り上がりました。書斎には寛次郎さんの写真パネル、打ち合わせ用と思われる丸テーブルと並べられた、お尻の形に凹んだ何とも座り心地のいい椅子に腰を下ろし、寛次郎さんを交え、仕事って何、楽しいことって何、と話が盛り上がります。
人混みの四条通りに面した何必館京都現代美術館、Google Mapでは入館料1,000円とあったのに1,500円になってました。フランス人写真家のサラ・ムーン展開催中で地下1階に北大路魯山人作品室があります。
エレベーターホールの彫刻はジャコモ・マンズー「枢機卿」、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂「死の扉」を制作したイタリア人彫刻家の代表作。3階に上りサラ・ムーンの「赤い糸」という不気味な映像作品を他に誰もいない中で鑑賞して5階へ上がると「光庭」。地下へ下りると魯山人作品が10点ほど。写真NGなので、ポスターに掲載されていた魯山人の「つばき鉢」、ポスターでは伝わりませんが、直径約40cmの特大の鉢。
サラ・ムーン、ジャコモ・マンズー、光庭、魯山人、の関係性は全く理解できなかったまま、日差しの強い鴨川左岸を歩いて御池大橋まで。色んな美術館で見た魯山人作品で写真を撮らせてもらったのは東洋陶磁美術館の備前筒花入(写真39)1点だけ、どうも自分とは縁が薄そうです。
テレビで紹介されていたオイケブルーと呼ばれるアジサイ、富小路と柳馬場の間の御池通北側です。
いつも通り御幸町の高田酒店、喉カラカラでプファー。アテはカワハギのポン酢、でっかいキモがついてきました。先週のオークスを見てまた競馬始めようかと思ったとマスターに振ると、やはり好反応。4コーナー回って最後方、武豊やルメール騎乗の先行馬スルスルとすり抜け、ジュウリョクピエロとアナウンサーが名前を呼んだのはゴール板をハナで抜けた時1回だけ、ジョッキーカメラの今村聖奈騎手の手綱さばきに圧倒されました。
APPENDIX
河井寛次郎についてもう少し語りたい。まず、安来出身でよそものの寛次郎が何故排他的な清水に居を構え、窯を営むことができたのか、清水の人たちは寛次郎をどう受け入れたのか。
京都市立陶磁器試験場に勤務して釉薬の研究を行っていた寛次郎は、その高い専門知識を買われ、清水焼の名門・五代清水六兵衛の技術顧問となり、寛次郎が30歳の時に六兵衛との信頼関係から窯を譲り受け、実業家で日本画家の山岡仙太郎が保証人として、窯と住居を購入しています。ところが昭和9年の室戸台風で住居は損壊、安来から大工の実兄を棟梁として五条坂へ呼び寄せ、昭和12年に完成したのが京町家と安来の田舎家が融合した現在の建物。
清水五条坂の極めて保守的なコミュニティも、寛次郎の卓越した実力、人柄、京都の流儀へのリスペクトの故に快く温かく迎えられています。寛次郎が惜しみなく最先端の技術指導を行ったことから地元の職人たちから頼れる若き専門家として絶大な信頼を得ていたこと、京都の焼物界の重鎮である五代清水六兵衛が寛次郎を重用しその独立を全面的にバックアップしていたこと、さらに京都の宮大工の娘を嫁に迎え入れており、五条坂の地域社会に深く根を下ろすことになったらしい。
もうひとつは、民芸運動の仲間であり、東京工大窯業科の後輩で京都市陶磁器試験場の同僚でもあった濱田庄司が人間国宝や文化勲章を受けたのに、寛次郎はなぜ、人間国宝も文化勲章も辞退したのか。もうひとりの民芸作家・富本憲吉は国宝や文化勲章を受けつつも、民藝と袂を分かっています。
河井寛次郎記念館同様に、濱田庄司記念益子参考館が栃木県にあります。Google Mapで見ると、豪壮な茅葺きの古民家をメインに、いくつもの蔵が立ち並び、登り窯もひとつだけじゃなくかなり広大、作品展示も河井寛次郎記念館よりはるかに充実していると分かります、寛次郎そのひとの人生や考え方そのものに触れたような記念館に大いに惹かれたばかりの自分としては悔しいくらいです。千葉県に住んでいた時、真岡鉄道のSLに乗りに近くまで行っているにまったく存在も気づきませんでした。
富本憲吉記念館も奈良県安堵町にあったものの、10年ほど前にTomimotoの名前を残しながら自分などにはどう考えても縁のなさそうな超高級オーベルジュに変身していました。寛次郎、濱田、富本の三者三様の考え方や選択をひとことで決めつけることはできないものの、それぞれの記念館の今に表されているとは言えそうです。
高島屋との関係も興味深い。大正10年、高島屋宣伝部長だった川勝堅一(後に高島屋常務、戦後横浜高島屋専務)のプロデュースにより東京と大阪の高島屋で寛次郎初の個展が開催され出品作はほぼ完売、以降高島屋は民藝運動のパトロンとしての役割を果たすことになります。過日高島屋史料館を訪ねたところ、民藝の紹介がされていてそのことを知り、高島屋のウェブページでは現在も民藝担当バイヤーが少なくともふたりいて、民藝の常設売場が運営され、イベント開催されていることが紹介されています。寛次郎と川勝は生涯親交を結び、1937年のパリ万博に川勝は内緒で寛次郎作品を出展しグランプリ受賞、川勝の所蔵した寛次郎作品425点は現在京都国立近代美術館に収蔵されており、コレクション展で確実に出展されている機会を確認して訪ねることになりそうです。
最後に、まだ見ていませんが、男はつらいよ寅次郎あじさいの恋(1982年)は河井寛次郎記念館がロケ地になり、寛次郎がモデルの高名な陶芸家を片岡仁左衛門さんが演じています。