河井寛次郎記念館

東洋陶磁美術館の松惠コレクションで見つけた河井寛次郎の花碗で存在を知った京都五条坂の河井寛次郎記念館へ。東山五条交差点の反対側には京焼の京都陶磁器会館、さらに魯山人作品が展示されている四条通りの何必館へと、東山区で焼物三昧町歩きと洒落込んでみることにしました。

京阪特急8000系ダブルデッカー下の階で丹波橋、土日祝日2本しかない中之島発三条行普通というレアモノに乗り換え清水五条駅に到着。改札を出ると清水寺絵図、見た記憶がないので、当駅利用はたぶん初めて。

歩道の案内版に吉祥文らしき陶板、プレートの文字が掠れてしまってますが「染付の極 瑞祥、山本壹楽」とあります。清水焼壹楽窯・山本壹楽氏の作品で、清水五条陶板の散歩道として設置された12枚の陶板のひとつ。

田舎風京町家

五条通一本南の渋谷通を歩くと坂道の傾斜が突然急に、このまま先へ進むと平重盛が暮らしていた小松谷です。東大路通の手前を左の路地に入ると河井寛次郎記念館、格子戸に格子窓、二階には簾が下ろされていていかにも京町家風情。

玄関に入ると右手に4畳の小部屋、畳の真ん中に右手のモニュメントが置かれ、上り框にはなぜか米俵。福を呼び込み、訪れた人を豊かにもてなすという縁起物・魔除けの意味があり、実は収納箱にもなっているらしく、いきなり「用の美」です。

玄関を抜けると受付、靴を脱いでスリッパに履き替えます。写真OK、ブログアップもOKとのこと、但し帳面に住所氏名記入を求められました。

京町家としては異質な広がりがある空間、柱にかかった古時計が現時刻を指してます。引き出しがいっぱいある不思議な神棚に正月でもないのにしめ縄が飾られていて、その上は高い吹き抜け。板の間になっているものの、おそらくは元々は土間だったはず。自分の生家も茶の間の隣は板の間、その奥の台所も板の間だったのですが、自分が生まれる前は土間だったと聞いた記憶があります。

どこから見学すればいいかよくわからないまま、先へ進むとタイルを敷いた洗面台、開いたままの板戸と板塀に鏡。左手には中庭、向かいの建物二階には年配の外国人カップル、アニメや神社仏閣、日本食だけでなく、日本文化のかなり奥深いところまで観光客の興味が深まってきていることは喜ぶべきかと。

寛次郎さんの写真パネルとメガネや小銭入れなど愛用品の数々。寛次郎デザイン真鍮煙管が6本(昭和30年前後)、かなりの愛煙家だったらしい。

寛次郎小間絵(昭和十年代)はどうやら雑誌や新聞の挿絵らしい。その隣も小間絵かな、左端の壺の墨絵は、畳の上じゃなくて額に入れておきたい。

隣のケースは初期作品、大正9年頃〜大正時代末(本人30才〜35才頃)、民藝運動に参加する以前、東京高等工業学校や京都市陶磁器試験場で培った圧倒的な化学知識を駆使し、中国や朝鮮の古陶磁の複雑な釉薬の再現・研究に没頭していた頃の作品たちです。

展示作品個々に作品名や制作年代が添えられていないものの、歪んだ茶碗は鶉斑文盃と分かりました。ウズラの羽を描き出したもの。

大型の青い壺の青と紫のグラデーションは窯変釉によるもの、窯の温度変化や釉薬の重なりによって、1点ごとに異なる独特の模様が浮かび上がります。

ヴィンテージガラス器と見紛うほど鮮やかな発色で均整の取れた赤い壺。ハクション大魔王の壺を彷彿とさせるかたちです。

中期作品、昭和初め〜昭和20年頃(本人35才〜55才頃)のケースは、柳宗悦、富本憲吉、濱田庄司とともに民藝運動趣意書を発表し、民藝運動に深く関わっていた時期の作品たちです。

中央に木彫の少女、この時期では数少ない木彫作品、柳宗悦が見出した無名の僧・木食上人が彫った木喰仏の微笑みに宿る民衆的な美への共感が表されたものらしい。

寛次郎得意技法の筒描きによる茶碗、ケーキの絞り出し袋のようなもので泥絵具や釉薬を絞り出して描いたもの。

独特なかたちに蓋付きの器ふたつは、香合と薬壺かな。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになっています。

後期作品、戦後〜昭和41年(本人55才〜76才)のケース。世界の民芸芸術に関心を深め、木彫を本格化、陶器も奔放な造形に変化、材料の入手が困難になった戦時中には詩作も始めています。額には中期のケースの木彫の少女と同じモチーフの墨絵。

器を描いた陶板、左下に「寛」は読めますが、民藝の精神を端的に表す言葉として「器はそれを造る人の容、器はそれを使う人の容」と書かれているそうです。

三色打薬扁壺は、黒釉・赤釉・緑釉の3色の釉薬を、成形した器へ叩きつけるように掛ける戦後の河井寛次郎を代表する躍動感ある表現。

展示ケースの並んだ細長い土間を抜けると井戸、その奥には中庭に面した茶室くらいの広さの小間。

小間の小机に置かれた竹籠の生け花はトルコキキョウとカスミソウ。

小間を抜けると素焼窯、乾燥させた粘土の段階の作品がこの窯に入れられ、600〜700℃で8時間前後松割り木で焼かれ素焼の状態になります。

素焼窯の奥の土間に椅子や机が置かれていて片側は作品の展示、後ろの「心刀彫身」は、人は環境や他者によって作られるものではなく、自分自身の心の内なる力によって磨き上げられていくのだ、という寛次郎の人生哲学。

反対側は二間続きのガラス障子で囲まれた板の間、寛次郎のメインの作業場だったと思われます。

作業場の額には「手考足思」、てこうそくしと読み、実際に手を動かして試行錯誤し、自分の足で現地へ赴いて直接見聞きして感じる、という寛次郎の行動哲学。

東京高等工業学校窯業科時代の勉強ノート、後の東京工大(現東京科学大学)在学中の英文でのノート、毛筆の書だけでなくペン字も美しい。河井寛次郎は安来市の大工の家の生まれ、安来駅から300mほどのところに生誕の地の碑が建てられています。安来にはコハクチョウに会いに2016年2023年の2回訪ねていて、近くを通ってるはずですが、その当時は気づくまでもありませんでした。足立美術館も訪ね、北大路魯山人作品はたくさん見た記憶はあるものの、地元の河井寛次郎作品を見た記憶はないのですが、 少なからず所蔵展示されていたと分かりました。中学はかつてラフカディオ・ハーンが教鞭を取っていた松江中学の卒、汽車で1時間ほどかけて通学していたようです。

登り窯

一番奥にはなんとこんな町中に登り窯、清水寺境内の音羽の滝を源流とする清水音羽川にちなみ鐘溪窯と名付けられ、素焼きにされた作品は釉薬をかけた後この窯に入れられ1350℃程度で焼かれたそうです。

火は2昼夜にわたって燃やされ、2千束もの松の割り木を必要とし、登り窯の運用には薪代や修繕費のため莫大な費用が必要になるため、近所の20軒の陶工たちと窯株のような組合組織で共同運営されていたらしい。

スリッパをサンダルに履き替えて登り窯を見学。一番手前の室を覗いてみました。寛次郎が使用していたのはこの隣の2番目の室だったそうです。

登り窯の上まで上ってみました。来る時の渋谷通で見た急な勾配を活かした作りと分かります。昭和41年寛次郎没後の昭和46年頃まで共同窯として使われていたものの、窯に火が入ると祇園の芸妓さんの着物が煙で汚れると苦情が出るほどだったそうな。ほどなく大気汚染防止法などの公害規制が厳しくなり、住宅街となった五条坂で薪を使った登り窯の操業ができなくなり火が落とされたらしい。既に五条坂周辺だけでなく京都市内に稼働中の登り窯はなく、現在五条坂の陶工たちは電気窯やガス窯で作陶を続けているそうです。

登り窯で焼成するメリットは、大量に一度に焼ける効率以上に、電気窯やガス窯では出せない、炎と灰が器に直接触れることで生まれる予測不可能な美しさが生み出されること。炎の走り方や温度の変化によって、器の色や模様が劇的に変わる自然の技と人間の技が融合する「窯変」です。

ネコの置物、その置物と「今日もほっこり暮らしてます」とキジネコ。動物写真家の岩合光昭氏の写真集ねこの京都の表紙です。

焼き上がり具合をチェックしている寛次郎の写真は、ハッセルブラッド賞受賞の報道写真家・濱谷浩の撮影。

自警と仕事のうた

中庭の隅に並べられた壺はたぶん釉薬。

母屋に戻ると掲げられていた「自警」、〇〇セヨや、〇〇ネバナラヌ、じゃなくて◯◯マショウ、〇〇マショウ、と自分の経験から学んだことをひとに強要するのではなく、自分の経験から学んだことをオススメするというスタンスの文章です。最後の数行をChatGPTに手伝ってもらって読み取りました。

刻々新シイ自分ニ當面イタシマショウ
限りない世恩ニ答エマショウ
意識シテ自分ヲ見付ケマショウ
昭和四十年五月十七日 寛

受付のある板の間の奥に二間の座敷。吹き抜けからちょっとズレた位置に囲炉裏。京町家には見られない吹き抜けや囲炉裏は、寛次郎が大工さんの実兄を安来から呼び寄せ建てたため、安来の田舎家と京町家が見事に融合した作りです。

いかにも京町家な箱階段で二階へ上ります。箱階段は新築時に濱田庄司から贈られたものらしい。二階は階段を手すりで囲んだ板の間。

二階に二間続きの座敷、八畳の座敷の床の間には「樂在其中」、論語に由来し、物欲や環境に左右されず、自分の内面や学問、日々のささやかな生活の中に真の喜びを見出す姿勢を表す言葉だそうです。

床の間の上に置かれた木彫は竈の神様、ブロンズ彫刻は丸髷の女性らしい。

八畳間の畳に腰を下ろして3体の彫刻とにらめっこ、木彫の手、木彫の3人の横顔、ブロンズ彫刻のウサギのキス。陶芸だけじゃなく、彫刻、書、詩作と実に多彩で多才な寛次郎です。

右手に十畳の座敷。立方体の箱は船箪笥で、北前船で貴重品を保管していた持ち運び可能な金庫らしい。

座敷から吹き抜けの反対側に板の間、その板戸の押入れに挟まれたスペースに何とも清楚な生け花。花瓶は筒描きで描かれた秋草手と呼べそう。ガーベラとスターチスとカスミソウで合ってるかな。板戸や障子の造作も美しい。

その奥に机の置かれた書斎。掲げられた詩をChatGPTに全文を書き出してもらいました。

仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう

この詩の内容、まるでChatGPTさんそのものですね、とずいぶん会話が盛り上がりました。書斎には寛次郎さんの写真パネル、打ち合わせ用と思われる丸テーブルと並べられた、お尻の形に凹んだ何とも座り心地のいい椅子に腰を下ろし、寛次郎さんを交え、仕事って何、楽しいことって何、と話が盛り上がります。

書斎から吹き抜けを見下ろすことができます。さっきの十畳の座敷を違う方角から。

あっ、脇息の陰、座布団にどっかとニャンコ、声をかけても反応せず爆睡中、岩合さん写真集表紙になった子と同じ子のようですが、だとしたらかなりの年齢です。向こうの八畳間に背の高い外人のべっぴんさんがやってきました。ニャンコに気づいて欲しくて、八畳間へ戻り、Can you see the cat under the table?  OMG!でした。

2階にもうひとつある小さな座敷の床の間に「非草非人非木」、なぞかけです。クサニアラズ、ヒトニアラズ、キニアラズ、そのココロは「茶」。寛次郎さんに座布団10枚。

売店にあった色紙は薄墨で描かれた茶碗に「新しい自分が見たいのだー仕事する」の色紙、買ってくればよかった。自分のデスクの前に掲げておきたい。

じゃりン子チエかチコちゃんに叱られるを彷彿とさせる木彫の少女に見送られ、河井寛次郎記念館を後にしました。季節を変えて必ずまた来たい。

京都陶磁器会館

東山五条の交差点を渡るとすぐに京都陶磁器会館、京焼・清水焼の情報発信施設兼ショップ、入場は無料で、高額商品が陳列されたショーケース以外は撮影OKでした。

 

ロクロを回し実演中の陶工さんの手前に置かれた染付椿花入と均窯椿抹茶碗。いずれも森里龍生氏作、名前を検索してロクロを回しているご本人と分かりました。

山水画の大瓶、作者名作品名は読み取れず。祥瑞意本捻鉢は、清水焼の名窯・松谷窯の叶松谷作。

力餅食堂加藤商店でランチ。女将さんに断って力餅食堂本支店所在地の額を撮らせてもらいました。大阪市内でもしばしば見かける力餅食堂ですが、入ったのは初めて。大阪ではなく京都発祥で寺町六角通が本店、この清水店も昭和8年操業とのこと。

レジの後ろに年季の入った冷蔵庫、もう少しするとかき氷を始めるらしい。たっぷりの牛すじに九条ネギだけの牛すじうどん、ほんとに美味しかった。

ポスターの魯山人

東大路通を歩いていると3種類の自衛隊員募集ポスター。海自のは「もがみ型」多機能護衛艦、陸自のは既に退役し桂駐屯地で展示されている74式戦車。

八坂神社まで歩いてきました。ドピーカン、暑いです。

コロラド祇園でいっぷく、祇園のど真ん中なのに、外人さんはおらず、ヘアスタイルでそれとわかる置屋の女将さんとか地元のひとたちばかり、生け花が見事、エッジドサーモンというシャクヤクと教えてくれました。花瓶も素晴らしい。

人混みの四条通りに面した何必館京都現代美術館、Google Mapでは入館料1,000円とあったのに1,500円になってました。フランス人写真家のサラ・ムーン展開催中で地下1階に北大路魯山人作品室があります。

エレベーターホールの彫刻はジャコモ・マンズー「枢機卿」、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂「死の扉」を制作したイタリア人彫刻家の代表作。3階に上りサラ・ムーンの「赤い糸」という不気味な映像作品を他に誰もいない中で鑑賞して5階へ上がると「光庭」。地下へ下りると魯山人作品が10点ほど。写真NGなので、ポスターに掲載されていた魯山人の「つばき鉢」、ポスターでは伝わりませんが、直径約40cmの特大の鉢。

サラ・ムーン、ジャコモ・マンズー、光庭、魯山人、の関係性は全く理解できなかったまま、日差しの強い鴨川左岸を歩いて御池大橋まで。色んな美術館で見た魯山人作品で写真を撮らせてもらったのは東洋陶磁美術館の備前筒花入(写真39)1点だけ、どうも自分とは縁が薄そうです。

テレビで紹介されていたオイケブルーと呼ばれるアジサイ、富小路と柳馬場の間の御池通北側です。

いつも通り御幸町の高田酒店、喉カラカラでプファー。アテはカワハギのポン酢、でっかいキモがついてきました。先週のオークスを見てまた競馬始めようかと思ったとマスターに振ると、やはり好反応。4コーナー回って最後方、武豊やルメール騎乗の先行馬スルスルとすり抜け、ジュウリョクピエロとアナウンサーが名前を呼んだのはゴール板をハナで抜けた時1回だけ、ジョッキーカメラの今村聖奈騎手の手綱さばきに圧倒されました。

APPENDIX

河井寛次郎についてもう少し語りたい。まず、安来出身でよそものの寛次郎が何故排他的な清水に居を構え、窯を営むことができたのか、清水の人たちは寛次郎をどう受け入れたのか。

京都市立陶磁器試験場に勤務して釉薬の研究を行っていた寛次郎は、その高い専門知識を買われ、清水焼の名門・五代清水六兵衛の技術顧問となり、寛次郎が30歳の時に六兵衛との信頼関係から窯を譲り受け、実業家で日本画家の山岡仙太郎が保証人として、窯と住居を購入しています。ところが昭和9年の室戸台風で住居は損壊、安来から大工の実兄を棟梁として五条坂へ呼び寄せ、昭和12年に完成したのが京町家と安来の田舎家が融合した現在の建物。

清水五条坂の極めて保守的なコミュニティも、寛次郎の卓越した実力、人柄、京都の流儀へのリスペクトの故に快く温かく迎えられています。寛次郎が惜しみなく最先端の技術指導を行ったことから地元の職人たちから頼れる若き専門家として絶大な信頼を得ていたこと、京都の焼物界の重鎮である五代清水六兵衛が寛次郎を重用しその独立を全面的にバックアップしていたこと、さらに京都の宮大工の娘を嫁に迎え入れており、五条坂の地域社会に深く根を下ろすことになったらしい。

もうひとつは、民芸運動の仲間であり、東京工大窯業科の後輩で京都市陶磁器試験場の同僚でもあった濱田庄司が人間国宝や文化勲章を受けたのに、寛次郎はなぜ、人間国宝も文化勲章も辞退したのか。もうひとりの民芸作家・富本憲吉は国宝や文化勲章を受けつつも、民藝と袂を分かっています。

河井寛次郎記念館同様に、濱田庄司記念益子参考館が栃木県にあります。Google Mapで見ると、豪壮な茅葺きの古民家をメインに、いくつもの蔵が立ち並び、登り窯もひとつだけじゃなくかなり広大、作品展示も河井寛次郎記念館よりはるかに充実していると分かります、寛次郎そのひとの人生や考え方そのものに触れたような記念館に大いに惹かれたばかりの自分としては悔しいくらいです。千葉県に住んでいた時、真岡鉄道のSLに乗りに近くまで行っているにまったく存在も気づきませんでした。

富本憲吉記念館も奈良県安堵町にあったものの、10年ほど前にTomimotoの名前を残しながら自分などにはどう考えても縁のなさそうな超高級オーベルジュに変身していました。寛次郎、濱田、富本の三者三様の考え方や選択をひとことで決めつけることはできないものの、それぞれの記念館の今に表されているとは言えそうです。

高島屋との関係も興味深い。大正10年、高島屋宣伝部長だった川勝堅一(後に高島屋常務、戦後横浜高島屋専務)のプロデュースにより東京と大阪の高島屋で寛次郎初の個展が開催され出品作はほぼ完売、以降高島屋は民藝運動のパトロンとしての役割を果たすことになります。過日高島屋史料館を訪ねたところ、民藝の紹介がされていてそのことを知り、高島屋のウェブページでは現在も民藝担当バイヤーが少なくともふたりいて、民藝の常設売場が運営され、イベント開催されていることが紹介されています。寛次郎と川勝は生涯親交を結び、1937年のパリ万博に川勝は内緒で寛次郎作品を出展しグランプリ受賞、川勝の所蔵した寛次郎作品425点は現在京都国立近代美術館に収蔵されており、コレクション展で確実に出展されている機会を確認して訪ねることになりそうです。

最後に、まだ見ていませんが、男はつらいよ寅次郎あじさいの恋(1982年)は河井寛次郎記念館がロケ地になり、寛次郎がモデルの高名な陶芸家を片岡仁左衛門さんが演じています。