美はどこに宿るのか
東洋陶磁美術館の特別展「MOCOコレクション オムニバス ―初公開・久々の公開― PART2」が始まりました。中国陶磁器の通史的な展示がメインだったPART1と変わり、古伊万里など日本の陶磁器も多数展示されているらしく初日に訪問。
難波橋のライオンが青空の下でガォー。明治から大正に活躍した彫刻家・天岡均一の作、両側のライオンが阿吽になっていると知りました。この西側の阿行に対し、東側の口を閉じた吽形は去年7月の写真で。
中之島に入ると何やら人がいっぱい。東洋陶磁美術館前で北浜蚤の市が開催中です。
対になった色絵美人文八角大壺⑧、左右微妙に違っているものの基本的に同じ構図に同じ絵、対にした意味が分かりません。
色絵傘美人文大壺⑨の解説パネルには鈴木春信の紅葉舞美人の画像が付され、磁器上の浮世絵と称したくなるとあったのですが、しなやかで優美な春信と違って幼稚園児が行進しているみたいなポーズです。
柿右衛門様式のような余白の余韻とか乳白色の美しさも感じられず、期待していた古伊万里の展示なのにいささかがっかり。大和文華館の項で書いたように、18世紀半ば以降中国磁器の輸出が盛り返し、伊万里焼の輸出は途切れたらしいのですが、江戸時代初期の古伊万里ならではの美意識や技術が江戸時代中期には受け継がれなくなっていたのが景徳鎮に完敗した原因だったのかも。それでも九州陶磁文化館の動画を見直してみると、やはり行ってみたくなる気持ちに変わりなく、今回の展示品は極めて商業的になっていた時期の古伊万里のようです。
天目茶碗の権威
展示室2手前のロビーで国宝油滴天目⑩単独展示は変わりなく、ほぼ真上から撮ってみました。毎回ためつすがめつ美しさにため息がでる油滴天目ですが、あまりにも美しすぎて本来の茶の湯が楽しめないような気もします。この油滴天目は豊臣秀次が所持していたことが知られ、藤田美術館の曜変天目は徳川家康が所持していたことが知られています。では豊臣秀吉の手に天目茶碗は無かったのか、あるいは秀吉が天目茶碗をどう評価していたか、さらには千利休はどう評価していたか気になりました。
よく知られる秀吉の黄金の茶室では、金天目と呼ばれる茶碗が天目台にのせられて使われていたらしい。黒が基本の天目茶碗ですが、国産の木製漆器に金箔が貼られていたそうです。つまり金天目は本来の天目茶碗ではないものの、秀吉が天目茶碗の価値を高く評価していたことは間違いなさそうです。しかしながらそこは秀吉、天目茶碗の価値は認めつつそれに従うことはせず、木製漆器に金箔を貼ったもので、至上の唐物の権威を自らの権威を高める道具に置き換えてしまっています。ということはもう油滴天目に用はなく、秀次にポイと与えてしまったのかも知れません。
一方、千利休も天目茶碗の宇宙的な美、偶然性の美は十二分に理解していたものの、その価値を支配する側に立とうとした秀吉に対し、利休は価値そのものを問い直していたようです。利休の道具に天目台が含まれていた史料が残り、曜変天目や油滴天目のような最高級ではないものの天目茶碗を所持していたようです。完成度が極端に高く、一点で場を支配してしまう最高級の天目茶碗は利休の考えになじまないものであり、中庸の天目を選び、手で包み込めず動作が形式化される天目台との組み合わせで、限られた場面でのみ天目茶碗を使っていたようです。
民藝運動
展示室2「創蒐和親」は陶磁器コレクターの堀尾幹雄が収集した、第1回人間国宝(重要無形文化財保持者、昭和30年)のひとりで、無名の職人が作る日用雑器に「用の美」を見出し「美」を理論化する柳宗悦の提唱した民藝運動で、その美を体現した益子焼陶芸家・濱田庄司作品のコレクションです。無名の職人の作る美と人間国宝にギャップを感じますが、今は考えないことにします。
昭和18年頃作の組重⑫は、朝鮮陶器呉須地三段重(日本民藝館所蔵)の形に沖縄陶器(やちむん)風の赤と緑の絵付け。一の重はまるで5世紀古墳の家型石棺形。
昭和41年頃作の塩釉絵刷毛目扁壺⑬、塩釉は焼成中の窯に食塩を投入し、塩が素地表面と化学反応を起こし表面がガラス状の層で覆われる中世ドイツが発祥の施釉技法で、濱田庄司が日本へ持ち帰った技法。 塩素ガスにより窯を著しく傷めるため、一度塩釉を行った窯は、他の釉薬の作品には使えない専用窯となり、焼成時に塩素ガスが発生するため、現代では設備や環境面でのハードルが高い技法らしい。塩釉の他、柿釉、飴釉などさまざまな技法の作品が展示されてたのですが、いずれ再訪するはずなのでその時に。
白釉黒流掛大鉢⑭は、素焼きした鉢の全面に白い糠白釉を掛け、その上から柄杓で黒釉を勢いよく流し掛けられたもので、掛け流し15秒では物足りなくないかという問いに対し、15秒プラス60年(の経験)と見てはどうかと濱田は答えたらしい。
水中で揺らぐ藻と魚たちの青花魚藻文皿(古染付)㉔、ナマズがいるので海じゃなくて川ですね。水の流れを感じさせる空間が柿右衛門様式を彷彿とさせます。水泡はひと粒だけじゃなくてもうふたつみっつ描いてほしかったかも。
異なる文様が並べられた五彩更紗文皿(天啓赤絵)㉕、将棋盤のような画面に見入ってしまうものの、よく見ると、口縁の六角形2つと花が3つの組み合わせが上下と左にしかなく、右側ではそのスペースがなくなってしまったと見て取れます。上掲の18世紀の有田焼よろしく雑な感じですが、何やらゲーム版に四角いコマと六角形のコマの対戦のように見え結構好きかも。
堀尾幹雄氏は元国鉄職員、上級管理職ではなく、運転や駅務、保線等の一般現業職だったと思われます。その給与で濱田庄司の作品を200点、それにここにあるだけで景徳鎮を30点もよく買い集めることができたものと不思議に思いAIに聞いてみました。濱田の作品は人間国宝になる前の作品が多く、また民藝運動のコンセプトでもある日常使いの器を長年コツコツと買い集めたもの、古染付も1960年代頃まではまだ評価が上りきっておらず今ほど高価ではなかったそうです。堀尾氏は買い集めた器を箱に入れて押入れにしまいこんでいたのではなく、毎日の食卓で使い、来客にも出し、割れても金継ぎなどで直して生活の中で使いまわしていたそうです。ただ国鉄職員という立場を活かして当時の無料パスをで頻繁に窯場を訪ねていたらしい。
朝鮮時代(19世紀)の文房具㉘と化粧道具㉙。順に青花辰砂透彫蓮花唐草文筆筒[1]、青花金剛山形筆洗[2]、青花河図太極文円筒形水滴[3]、青花鶴文六角盒[4]、青花七宝文有害壺[5]、青花蝙蝠文盒[6]、瑠璃地陰刻網目文面取瓶[7]。後述の水滴コレクションからの連続性が感じられます。
斗々屋茶碗銘白雲(16世紀)㉜、白雲と銘のある器を多くあり、この茶碗についての投句低情報は見つからなかったものの、斗々屋茶碗は藤田美術館でも利休斗々屋手茶碗と本手利休斗々屋手茶碗を見たことがあります。斗々屋茶碗は朝鮮半島で作られた日用雑器で利休が魚屋で見出したと伝わるもの。
釘彫伊羅保茶碗(17世紀)㉝、伊羅保(いらぼ)とは砂粒が混じるざらざらした質感を「いらいら」と表現したもの。僅かに口縁が欠けているの惜しい。
千利休は曜変天目や油滴天目などの唐物の権威ある美ではなく、本来は日用の雑器である高麗陶磁に高い価値を与えています。この価値観は柳宗悦や濱田庄司の民藝運動の原点にもなっています。利休好みの茶器はよく聞きますが、利休自らは作陶しておらず、プロデューサー的存在に徹して、瓦職人であった長次郎に「侘び」の美意識を伝え、理想の茶碗(のちの樂焼)を作らせます。
黒樂茶碗銘花筏(江戸時代、17世紀)㉞は樂家三代目樂道入(ノンコウ)の作。ロクロを使わず手づくねでよくぞここまで薄く仕上げたもの、ゴツゴツ感を残しすつ、見たただけでも軽さを感じさせます。見込みに全体に散らばった白い点々はまさに花筏。本阿弥光悦の影響を受けそれまでの楽焼に斬新さをもたらしたノンコウだそうです。この茶碗で実際におうすをいただいたら、お薄の中でどの様に花筏が見えてくるでしょう。藤田美術館にもノンコウの代表作千鳥があります。
今日見たなかで一番気に入りました。茶の湯の心得はまったくない自分ですが、利休の心が少し理解できたような気がします。ふと、映画「日日是好日」の「毎年同じことができるって幸せなんだなあ」という樹木希林さんのセリフを思い出しました。この茶碗ひとつで色んなことが思い浮かぶ、そのこと自体が利休の心なのかも。ChatGPTに「哲学の小路の花筏、今日行けば良かった」とつぶやいたところ、同じように見えて同じではない日々是好日、見逃したのもまた一会、と返してくれました。
黒樂茶碗銘渓月(江戸時代、17世紀)㉟はノンコウ長男で樂家四代目・樂一入の作。黒樂茶碗であるもののよく見ると赤い、黒い釉薬が朱色に変化した(朱釉)で一入が得意とした技法。谷川に映る月に見立てて「渓月」の銘。父ノンコウの繊細さに対しがっしりと力強さを感じさせます。西陣にある樂美術館で歴代の樂茶碗をじっくり見てみたくなりました。
赤楽筒花生(江戸時代、17世紀)㊳も樂一入作。銅製の掛花生を模して褐色の釉薬が施されたもの、水平方向に轆轤目が現れ、背面には床の間に掛けるための金属製のフックが付いています。裏千家四代仙叟宗室の漆書銘。利休直伝ともいえる樂焼ですが、今は一子相伝の選ばれた作者による樂焼は、根は同一のはずも、無名の職人による日常的な「用の美」を称揚する民藝運動とは対極に位置するものとなってしまっています。
なぜか時代が飛んで、ポツンと備前筒花入(昭和27年頃)㊴は北大路魯山人が備前焼の窯で制作したもの。夜のドラマでやってる魯山人のかまどが面白い。藤竜也の魯山人、魯山人に気に入られた雑誌記者を古川琴音、孤独のグルメとは全然違うしっとりしたグルメドラマです。この花生の大きな穴はあえて壊れたものを魅せるという魯山人の美意識で、この中に竹筒を置いて花を活けるようにしているらしいのですが、その様子は見つからず。ただ床の間の花に感動していたヨネ子さん(古川琴音)の様子はドラマでも美しく描かれていました。
魯山人と龍宗悦は、作為を排した「自然の美」を最高の理想とし、日々の生活の中で生きてこそ美の価値があるという視点は共通していたものの、名もなき職人の粗末な「下手物(げてもの)」を偏愛し、洗練された「上手物(じょうてもの)」の価値を無視していると柳宗悦の民藝運動を魯山人は徹底的に批判するも、柳宗悦はそれをシカトし受け流していたようです。
瑞祥洲浜形鉢㊵は、明時代崇禎年間に景徳鎮で日本の茶の湯のために作られた茶事に付随する懐石料理の食器。確かに万博公園日本庭園にある松の洲浜を彷彿とさせます。
扇形に帆船が描かれている広げられた扇と扇の骨まで描かれた古染付山水図扇形香合㊶も17世紀の景徳鎮。
交趾火馬文香合㊷は17世紀の福建省漳州窯の香合は数センチの円の中に火焔と波に馬、交趾はベトナムのこと。織部弾香合は桃山時代の織部焼(美濃焼)㊸は蓋のつまみが江戸時代の遊びの弾(はじき)に似ていることに由来するらしいのですが、詳細不明。
洲浜形鉢や3点の香合は、黒樂茶碗や魯山人の花入の流れから違和感が感じられ外そうかと思ってChatGPTに相談するとをれはもったいない、利休の美はひとつの名品で完結するものではなく、黒樂茶碗を主役として、景徳鎮の洲浜は脇役、香合はアクセントとなり、同じ場で意味を持つ、魯山人においてもしかりらしい。洲浜鉢と黒楽茶碗は合わないのでと訊くと、動と静の対比は茶事の王道、但し同時に使うのではなく、茶の湯は時間の流れで成立する構成芸術であり、利休なら洲浜鉢を場を揺らす前半に使い、花筏をすべてを鎮める終点に使うだろうとのこと。
のっぺりした直方体に山水画が描かれた青花山水人物文方形水滴㊽にも注出口らしきカエル、ではどうやって水を入れるのか、全体を見ずに沈めると気泡を抜けて水が入るらしい。ChatGPTIが分かりやすく教えてくれました。一見ただの箱に目立たない穴が開けられていてちゃんと水滴として機能するという文人の遊びだそうです。
青花山形水滴2点㊾は朝鮮半島の名山、金剛山(クムガンサン)の奇岩の連なる険しい山肌を再現。山上の小屋の影に注入口、側面の小屋近くの岩に注出口が隠されているそうな。大阪の金剛山ではなく朝鮮半島の金剛山、日本統治時代に金剛山電気鉄道が敷かれ、かつての南海電車風のグリーンの電車(原鉄道模型博物館の1/30モデル)が走っていました。38度線付近に位置し、今は観光が叶わない景勝地です。
お茶席で諸道具の水滴に出番はないはずですが、お茶席がお開きになって、そうそうお客人のお目にかけたいものが、と文机の置かれた書院に移動、遊び心満点の水滴の数々を披露ということはあったかも。
重文(写真51)と国宝(52)でどうちがっているのか、国宝の方が青みが濃く、重文は少し細身。こればかりは、柳宗悦は「用の美」の健康な美しさと無名の陶工のちからとして高く評価、北大路魯山人は自らも青磁を制作するほど青磁に造詣が深かったらしい。書院の床の間には何と飛青磁があったとしたらお客人はびっくり仰天も、せっかくのお茶席の余韻がなくなってしまいそうです。
陶芸の通史だったPart1と較べると、時代も生産地も用途もバラバラな展示のPart2。ChatGTPいわく「美はどこに宿るのか」というテーマかも、という視点でまとめてみました。特別展のタイトルに「オムニバス」とあるので、このバラバラ感はこの一語でまとめていいのかも。
本格的な茶席は4時間ほどもかけ、席入り→懐石→仲立ち→濃茶→薄茶という流れで行われるらしい。濃茶と薄茶があって、お薄は薄茶と分かるのですが、濃茶とは濃茶用の茶葉の抹茶を薄茶の倍ほどを入れるとろりとした舌触りを楽しむものと分かりました。要はエスプレッソとアメリカンの違いのようなもの。黒楽茶碗花筏は薄茶専用ということになるはず。仲立ちで亭主は掛け軸を外し花生に花を活けてかざるそうな、とうすると飛青磁の出番もありえます。濃茶→薄茶はリラックスした雰囲気となり、亭主の趣味を披露する機会もあるようで、水滴の出番もあったかも。