用の美
先週のブログで触れた民藝運動についてもう少し深堀りしたくて万博公園内の大阪民芸館へ。
ところどころの壁に掲げられているのはグレゴリオ聖歌楽譜(イタリア)、14世紀の楽譜(写真14)と16世紀の楽譜(写真15)。五線譜ならぬ四線譜に四角い音符が並んだネウマ譜、歌詞はラテン語。14世紀の方は詩篇(たぶん)で、16世紀の方はルカによる福音書の種まきのたとえの部分らしい。
グーテンベルク活版印刷の発明は15世紀半ばなので、14世紀の楽譜は手書き写本、16世紀の楽譜は印刷と言いたいところですが、譜面の印刷はまだ難しくこちらも手書き写本、文字の形が写植のように一致しておらず、イニシャル文字は手彩色です。
14世紀イタリアはルネッサンス初期、絵画ではジョットらのフレスコ画の時代、16世紀イタリアはダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロのルネッサンス最盛期から、ブロンズィーノ、エル・グレコ、アルチンボルドらのマニエリスムに移る時代。
井戸の絵かと思った土造りの図(39)。濱田庄司がバーナード・リーチの仕事場兼宿泊場所として、近隣の農家から移築した長屋門の図(40)、益子町に現存しています。
李朝秋草文瓶図(41)は高麗白磁を描いた墨絵、今日の展示で一番気に入りました。
山本教行作・地釉茶碗(42)、塩釉打刷毛茶碗(43)、赤絵茶碗(44)。赤絵茶碗は濱田庄司の組重⑫と同じ色使いです。
家図盒子と濱田庄司の組重⑫と同じ形刷毛目陶重筥(48)、灰釉象嵌扁壺と灰釉象嵌重筥(49)。
民藝とは何か
大阪民芸館を訪ねる一方、民藝運動創始者・柳宗悦の民芸とは何かを読了、最初の方は内容が具体的で面白く読み進みました。本来は「下手(げて)」の美のはずの茶室も様変わり、現今の京都鷹ヶ峰には新立ちの茶室ばかりが並び地下の本阿弥光悦は嘆息しているだろうとか、土地の香りや自然の健康な味わいが本筋のはずの茶懐石では、南禅寺瓢亭など料理に正格はなく、富者の客を待つばかり…、といった具体的事象に対する批判はとても興味深いです。瓢亭のウェブサイトを見るとランチの懐石で3万円以上、漆塗りに金箔の御膳にのっているのは半分に切ったままのゆで卵、名物らしいのですが、なんぼ何でももう少し工夫があるやろと思った次第。無鄰菴の隣で繁盛されているところを通りかかったことを思い出しました。
ところが読み進むにつれ、用の美、無名の美について、視点を少し変えて同じ内容の繰り返されるばかりでちょっと辟易、Kindleのマーカーも殆ど付けられていません。
飾り気がなく廉価な用の美を称えつつ、大量生産の工業製品を粗悪濫造品と決めつけています。工業化合理化により低価格が実現するはずなのに、手作りの器でないと美しくないということのようです。機械化は用のためではなく利のためとか、商業主義の元に正しい民芸品はあり得ないとか、全般的に工業化や資本主義、競争原理に否定的です。最後はギルドなどの協団の重要性を訴え、いささか共産主義礼賛の趣で締めくくられており、ちょっと引いてしまいました。
ただ自分も全て否定的に捉えているものではなく、「用のために作らずは美しくはならない」とはつまり機能美であり、これについては自分も全面的に賛成です。例えばJR九州などで多数採用されている、経年劣化しやすい木質インテリアとか、九州を走っているのに「KYUSHU」と大書されていたり、車両番号をわざわざ一文字ずつ囲って判読しにくくなっていたり、飾りだけのフロントグリルが取り付けられていたりの水戸岡デザインの車両は自分には醜悪にしかみえません。その逆を行くのが今も残され子どもたちにも大人気の蒸気機関車です。
8年も経ってしまったC56によるSLびわこ号ラストランの日のC56の機能美の美しさとこどもたちのありがとうの声は忘れられません。C56を可愛く見せるスラントした炭水車も、見た目のためでなく、ターンテーブルのない路線でバック運転する時に視界を確保するための機能美ですが、こどもたちのありがとうで「用の美」に転じていると感じます。この動画のC56のナンダサカコンナサカ音や柿の実とのコントラストも「用の美」かも。珍しく三脚を立ててカメラを動かさず撮ったのが正解でした。
民芸館は大原孫三郎の支援も大きかったらしく、大原美術館にも工芸館として民藝作品が多数展示されているそうです。印象派などはまず名前が前にでてきて無名の美とは全く逆ですが、大原美術館の民藝に対するスタンスもよくわかりません。上掲のように棟方志功の壁画が1970年万博のまま掲げられており、棟方志功も民藝作家のひとりと捉えられているようですが、あまりにもビッグネームです。
今日の展示でも西洋工芸ではひとりとして作者の名前は出てこないものの、手の技の展示はバーナード・リーチと山本教行の名前が前面に出され、ショップでは山本氏の作品だけでなく、作者毎にコーナー分けされていてとても「無名の美」ではなく、それに決して廉価ではありません。ChatGPTにも訊いてみたのですが、民藝運動は理念としては反市場、実践としては市場依存、大原美術館も無名の民藝、個人主義の西洋美術の両方が必要というシンプルな立場にいるだけ、理念としての民藝には今も強く共感され大切にされるべきものであるものの、現実の民藝は、自ら否定的な市場経済の中に取り込まれてしまっている、ということのようです。それを指弾して無名性や廉価にこだわると民藝の理念が立ち行かなくなりそうで、矛盾を全て解決する必要はないのかも知れません。
自分が好きな言葉にクラフトマンシップがあります。東大阪の町工場の技術力とか下町ロケットのことで、そこには名を売るという発想はあまりなく、良いもの、役に立つもの、美しいものを世に送り出そうという意思の下、自ら研鑽し工夫が重ねられています。民藝とはクラフトマンシップのことではないか、美は狙って生まれるのではなく、「用」に従って生み出される、と整理すると民藝運動は正しいと感じられます。名前や価格はそれを人々が受容し評価したからで、それをあえて否定することは無い、と理解しておきます。
日本庭園前にやってきたミャクミャクは大人気で人だかり。太陽の塔とミャクミャクが並び、間にイサム・ノグチ「月の世界」と営業休止中のオオサカホイール。久しぶりにこの歌を聞きたくなりました。
日本庭園東端の出口は回転ドアから変哲のないドアに変えられてしまっていました。
帰り道のJR茨木駅でごぼう天そば。練り物のごぼ天じゃなくシャキシャキのごぼう天が3本。名店でも何でもなく、JR西日本グループの「麺家」チェーンです。自分は南禅寺の茶懐石よりこれがいい。「用の美」です。
梅田でたまに立ち寄るビアパブに入りました。お気に入りのヒューガルデンとパイピザを頼んだのですが、なぜかごぼう天そばの方がずっと満足度が高く感じられました。