児島虎次郎と松方幸次郎

中之島香雪美術館大原美術館所蔵名画への旅 - 虎次郎の夢は明日が最終日、エル・グレコのマリアさまが倉敷へ帰ってしまう前にもう一度どうしても会いたくなりました。

62系統のバスを渡辺橋で降りると真ん前がフェスティバルタワー、4階の美術館に上る前に、B1に下りてキッチンジロー。スタミナ焼きとか、ホタテコロッケ、海老フライも美味しいと分かっているものの、やはり今日もメンカレ(メンチカツ+カレー)にしました。

昭和から平成に変わる頃の5年ほど、九段下に勤務していて、天ぷらいもやとか、スヰート包子とか、その頃の神保町ランチの記憶が今もいっぱい残っています(その頃の神保町の味まとめ)、その記憶に残る味のひとつを大阪中之島で味わえるのは奇跡的。

4階へ上り、中之島香雪美術館。前回より混んではいたものの、じっくり鑑賞できる範囲です。

大原美術館のコレクションの礎を築いた児島虎次郎「岡山孤児院」は渡欧前1907年頃の作品。虎次郎は1回目の渡欧から帰国後、岡山孤児院創設者で児童福祉の父と呼ばれる石井十次の長女・友子と結婚しています。

クラレや中国電力の礎を築いた大原孫三郎の支援で1908年にフランスへ留学も到着早々に病に倒れ入院、回復後療養のために滞在したグレ=シュル=ロワンを描いた「グレ村の風景」では虎次郎の筆使いや色使いが一変しています。短期のはずが気に入って一年も滞在していたグレはパリから南へ60kmほどの小さな村、芸術家村として知られ、先立つ1890年頃には黒田清輝も滞在、グレーの原(WikiPedia)を描いています。

ベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業した虎次郎は1912年に帰国、倉敷市酒津にアトリエを構えた頃の「春の光」(1916年)。敬愛していたミレーの描く羊に影響されて描いたと思われる山羊。大原孫三郎別邸だったそのアトリエは無為村荘と呼ばれ現存しています。

虎次郎が自作への批評や、絵画収集のサポートを受けていたアマン・ジャンの「髪」(1912年頃)は、1回目の滞在中に購入した大原美術館の原点となる作品。長い亜麻色の髪の女性はどこかで見た気がしてならないのですが、誰か思い出せません。

アマン・ジャンのWikiPediaに黒木婦人という和装の女性を描いた作品を見つけビックリ。風神雷神に続いて原田マハ美しき愚かものたちのタブローを読了したばかり。国立西洋美術館の礎となる松方コレクションの松方幸次郎の物語で、黒木婦人のモデル・黒木竹子は松方の姪、黒木為楨陸軍大将長男でパリ留学中の黒木三次と結婚、パリの社交界で知られた存在で芸術家たちとも交流が深く、黒木夫妻の紹介で松方はジヴェルニーのモネを訪ね、モネと意気投合しています。

虎次郎は1919年5月に2回目の渡欧、1920年8月大原孫三郎から美術品購入を許す電報を受け取り、自らの画業の傍ら収集に奔走しています。

写実主義や印象派に対し内面の世界や観念を象徴的なイメージで表現しようとした象徴主義のレオン・フレデリック「花」、そして印象派の光の描写を受け継ぎつつも主観や感情を重視したポスト印象派のアンリ・オットマン「脱衣の少女」。

聖書やギリシャ神話を題材にした象徴主義のギュスターヴ・モロー「雅歌」、描かれているのは旧約聖書雅歌第5章に登場するシュラムの乙女。

点描画はアンリ・ル・シダネル「夕暮れの小卓」、パリから南へ70kmほどのヌムールの町の運河を描いたもの。テーブルにはデミタスカップが2つ、ブランデーらしきボトル、ワインらしきボトル、水のピッチャーとティーポット、ショットグラスがひとつだけ、それに食べかけのケーキ、不思議な組み合わせですが、午後3時頃から夕方7時頃までカフェでさんざん長っ尻していたカップルが、ようやく腰を上げて帰ったばかりの様子、と想像してみました。

さてエル・グレコ「受胎告知」(1599〜1603年頃)、このマリアさまのこの目が見たくての再訪です。天使ガブリエルの前に描かれた鳩は聖霊、流れるような光は神の力を、百合の花は聖母マリアの純血を象徴しているそうです。

よく見ると画面右下に花瓶の花が描かれているのですが、他の部分と較べて描画のタッチが異なるように見えます。後世に描き足された可能性があるかも知れません。国内にエル・グレコの作品は国立西洋美術館の十字架のキリストとこの「受胎告知」の2点のみ。パリのベルネーム=ジューヌ画廊(1863年創業も2018年に閉廊)で15万フランで購入したらしい。現在の価値で2億5千万円くらいのようです。

ちなみにモネやゴッホで10万フランくらいだったそうで、エル・グレコの15万フランは安いとすら感じられますが、生前のエル・グレコは評価されていたものの、古典主義の時代には長く忘れられ、歪んだ体や強烈な色彩は異端扱いされていたそうです。19世紀末になってロマン主義や象徴主義が台頭し再評価され始めたものの、まだ評価は確立されておらず、虎次郎が購入できたのは市場に出てくる余地があった最後のタイミングだったようです。日本人で最もヨーロッパ美術市場に近い位置にいた画家である虎次郎が、「世界がまだ完全に気づいていない価値を掴んだ」というのがChatGPTの見解です。

解説パネルをPhotoshopで削除してみた紫の壁に額縁の「受胎告知」、109.1×80.2cmですが、もっと大きく感じさせます。

国内にある中世西洋絵画自体希少です。ちょうど京セラ美術館で⻄洋絵画400年の旅―珠⽟の東京富⼠美術館コレクションを開催中で、中之島香雪とどちらにするか迷ったのですが、京セラの目玉となる「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」はダヴィッド本人ではなく工房作と明記されていたこともあり、中之島香雪に決めたのですが、もう一度会えて良かったです。

写実主義の画家とされるラファエリの「アニエールの街路」、アニエール(アニエール・シュル・セーヌ)はパリの北、屈曲するセーヌ川の対岸でサンラザール駅から3つ目の駅で、ルイ・ヴィトン創業の地。モノグラム柄は1896年発表なので、この絵が描かれた頃には既にモノグラムのトランクがアニエールの工房で製造されていたはずです。創業者の邸宅がAteliers Louis Vuittonとして残されています。

印象派・シスレーの「マルリーの通り」、マルリー(マルリ・ル・ロワ)はパリの西郊、ルイ14世の宮殿があった町。サンラザール駅から35分ほど。本作は虎次郎よりずっと後、1956年の大原美術館収蔵です。

そしてモネの睡蓮、同じ場所で同じ作品を見ているのに前回とずいぶん色味が違っています。前回の方がずっと青み(赤かも)が濃いです。1月撮影時の写真をチェックしたもののトリミングだけで色味はいじっていないようです。照明が前回より微妙に強くなっているような気がします。「美しき愚かものたちのタブロー」に続いてジヴェルニーの食卓という短編を読みました。そこにモネの作品を見る心得のような一節が。

イーゼルを立てる場所をほんの数メートルずらしただけでも、新しい景色が見えてくる。朝、昼、夕刻、光の角度でも、それはまったく違うものに見えた。-(中略)- 時間によって風景は変わるんだ。いま見ているこの景色だけがすべてじゃないんだ。ああ、なんでそんな単純なことに気づかなかったんだろう。なんでそんな当たり前のことが……こんなに、こんなにうれしいんだろう。

イーゼルを立てる位置だけでなく、見る側の立つ位置の微妙な違いでも新しい景色が見えてくるようです。学生時代の旅でオランジュリー美術館で特大睡蓮を鑑賞したことを思い出しました。チュイルリー公園でオランジュリー美術館と並ぶジュ・ド・ポームがまだ印象派美術館だった頃(その後オルセー美術館に移管)の記憶です。元首相のクレマンソーに促され、この特大睡蓮を描くモネの様子がこの短編小説で描かれています。

パトロンの破産で「鶏がらと野菜くずでスープを作り、パンを家族の人数分に小さく切り分けていた」モネの食卓が描かれる一方、元首相を招いてのモネの食卓では、アペリティフはポモード・ノルマンディー、アントレはトリュフ・ア・ラ・セルビエットと鴨のパテ、主菜はオマール海老のローストアメリケーヌ風ボルドー風きのこのソテー添え、デザートはガトー・ショコラ、どんな料理だったか調べながら読むととても楽しい一編です。

Claude Monetのサインと1920年10月児島虎次郎撮影による睡蓮の池の畔に立つモネの写真。一方松方幸次郎も1921年と1922年の二度ジヴェルニーを訪ねて国立西洋美術館に睡蓮が収蔵されています。

当然児島虎次郎と松方幸次郎には接点があったはずと思われます。松方が巨額の資金で名品を買い漁っている様子が虎次郎から大原孫三郎へ手紙で報告されているものの、面会したという記録はないようです。大富豪の松方としがない一画家の虎次郎の「身分」の違いで交流は難しかったにせよ、ほぼ同じ時期に同じ場所で、画家や画廊と交流していたことから双方が意識していたのは間違いなさそうです。

虎次郎と松方で「近代美術を日本に紹介する」という目的は共通していたものの、慎重に個々の作品の意味や価値を吟味し大原孫三郎の許可を得ながら購入する「質」の虎次郎に対し、巨額の資金で印象派を中心に大画商から大量購入する「量」の松方、という違い故に結果的に競合せず、補完関係になったようです。それが個人の理想と審美眼を継承する大原美術館と、西洋美術を体系的に紹介する国立西洋美術館に受け継がれ、日本人は国立西洋美術館から美術史を理解する力と、大原美術館から作品そのものを感じる力の両方を手に入れていることができたとChatGPT。

家庭画報のウェブページに「ジヴェルニーの食卓」で描写されていた壁一面の浮世絵の額、さらにモネを囲んで黒木竹子とクレマンソー、そして「ジヴェルニーの食卓」の主人公、破産してトンズラしたパトロンの娘でモネ長男の嫁、モネ秘書役のブランシュの写真。小説の繊細なイメージとちょっと異なる肝っ玉母さん風のブランシュさんです。

フォービズムのヴラマンクの「静物」、1924年渡仏した佐伯祐三はヴラマンクを訪ね「このアカデミックめ!」と一蹴され、その後佐伯の画風は大きく変化しています。佐伯が描いたパリの原点がヴラマンクのようです。

ピサロの点描画「りんご採り」、印象派の重鎮であったものの、スーラの点描画に刺激を受け、50代なかばで点描に挑戦するものの、色が混ざり合わないよう隣り合う点を打つ前に絵具を乾かす必要があり、作業が細切れになり、気の遠くなるような時間がかかるため点描画は諦めたらしい。本作はその実験期の5年をかけた貴重な作品。点描といえばスーラのグランド・ジャット島の日曜日の午後ですが、これも2年かかっているらしい。

前回完全に見逃してしまったジャコメッティ「ヴェニスの女I」は会場出口近くの茶室の畳に置かれていました。照明が刻々と変わる演出で、近づいたり離れたりして撮ってみると孤独のグルメ風になりました。

お気に入りの作品はどれ?というパネル。「受胎告知」にシールが少なすぎると思ったら、表にもう一枚のパネルが。総合すると、エル・グレコ、モネと並んで虎次郎自身の作品の人気も高い。自分も初めて知ったシダネルも大人気、夕暮れの小卓はその作風に強く感銘を受けた虎次郎が直接シダネル本人から購入したもので、松方コレクションでは真似のできなかった虎次郎の審美眼が現代人にも評価され、虎次郎も面目躍如かと。

上述の文章から、自分は松方より虎次郎贔屓と捉えられそうですが、「美しき愚かものたちのタブロー」を読んだばかりでもあり両方贔屓です。「美しき愚かものたちのタブロー」は松方幸次郎の物語も、主人公は松方の美術品収集アドバイザーとなる田代雄一という人物で美術史家の矢代幸雄がモデル。他の登場人物はすべて実名で、上述の黒木竹子の他、最初に松方コレクションの日本への返還を画策した時の首相吉田茂、全てを失いボロボロになっても松方コレクションを守り抜いた日置釭三郎らが登場。まるで司馬遼太郎歴史小説の美術版といえそうなリアリティを感じさせます。

「美しき愚かものたちのタブロー」の表紙となっているのはゴッホのアルルの寝室、3版ある内、松方コレクションだったのは現在オルセーの所蔵、日置釭三郎が最も大切に守りきった作品で、戦後の交渉により大半の松方コレクションが返還されるも返還されなかったひとつ。オルセーということは自分もジュードポームで見ていたのかも。

松方はロンドンで山中商会支店長の岡田友次と出会い、欧米人と互角に勝負するための方法として美術コレクターになることを進言されています。大阪市立美術館の天龍山石窟から盗掘された石仏の回収に奔走したあの山中商会です。社長の山中定次郎の片腕としてロンドンでは王室御用達指定を受け、現在のクリスティーズやサザビーに匹敵する国際的ネットワーク持ち、日本と西洋の文化の橋渡し役となっていた山中商会です。

ちょっと恥ずかしい記憶ですが、かつて上野の夜の街でブイブイ言わせていた自分、夜の上野だけでなく、上野公園も散々歩き回っていました。冒頭の神保町の味のまとめでも上野動物園のハシビロコウに会いに行っています。国立西洋美術館や東京国立博物館には入館した記憶がうっすらあるくらいですが、動物園正門前の売店で売られていたVin chaud(シナモンの効いたホットワイン)でパリ気分を楽しんだ記憶は鮮明です。不忍池や谷根千散歩も心地よく、神保町もいいけど上野もいいです。俄然上野を訪ねたくなってきました。

中之島公会堂の小さな展示室に入ってみたものの、名作をいっぱい鑑賞してきたばかりのためか全く惹かれず。

東洋陶磁美術館は休館中。「MOCOコレクション オムニバス―初公開・久々の公開― PART2」が4月11日から、古伊万里の展示があるらしく超楽しみです。