河内源氏と壺井八幡宮展
特別企画展「河内源氏と壺井八幡宮」開催中の大阪歴史博物館へ。
大阪歴史博物館
昨日までと同じ服装で出かけてしまったら暑い。入館の前にセーターを脱いでバッグに突っ込み大阪歴史博物館10階へ、難波宮実物大ジオラマ展示室の窓の外は難波宮跡の眺め。何度も見学している10階古代をざっと回って、9階中世・近世と8階発掘はスルーして7階近代・現代へ。
後期難波宮の次は石山本願寺の展示で、平安時代と鎌倉時代がすっぽり抜け落ちているのは何故か、ずっと気になっていたことをChatGPTに尋ねてみたところ、大阪都市史の博物館なので、京都や鎌倉が主役の時代には深入りしないという方針のためという回答。
平安・鎌倉の大阪が寂れていた訳ではなく、遣唐使の発着地点だった難波津は物流拠点として機能しつづけており、渡辺津は西国街道、熊野街道、大和への道が交わる中世の交通拠点、最古の官寺で貴族や僧侶、庶民が集まる四天王寺と、海上守護神で海への玄関口である住吉大社を抱える宗教都市であり、市が立ち、倉庫が並び、職人が住み都市としての機能が保持されていたものの、歴史の主役ではなく展示映えしないためスキップされているという見解。後期難波宮以来700年ぶりに歴史の主役に躍り出てきたのが石山本願寺となるようです。
石山本願寺がなぜここに建てられどんな規模だったのか、なぜ信長が潰そうとしたのか、豊臣時代、江戸時代の大坂、さらには近世の大大阪への発展のくだりのChatGPTの説明もとても興味深いのですが、機会を改めます。ちなみに大坂が大阪と改めれれたのは幕末から明治5年、大坂の地名は石山本願寺の蓮如上人が石山を大坂と記したのが始まりで、それ以前はなにわ(難波あるいは浪速、浪花)。
明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会見物案内図、会場は現在の天王寺公園、新世界です(分場として堺大浜に水族館)。画面左上に茶臼山と飛艇戯(ひていぎ)と呼ばれたウォーターシュートがあった河底池、隣接する洋館は市立美術館になる前の住友家別邸のようです。その右手に四天王寺の先代の五重塔。
右端の鉄道は現大和路線の関西鉄道、博覧会に合わせて天王寺駅-博覧会駅が開業しています。昭和45年の万国博中央口駅や去年の夢洲駅同様の来場者アクセスが、鉄道が普及して間もない明治36年に実現していたことに驚かされます。
現在のJR天王寺駅付近に、昭和45年のエキスポランドみたいな、それでいて去年は何もなかった何やらアミューズメント施設、初代通天閣を含むルナパークは画面手前に明治45年開業のはずなので別の施設です。中央の広大な現動物園エリアにはパビリオンがびっしり、海外からも14カ国18地域が参加、内国勧業博覧会ではあるものの実質的には万国博だったようです。入場者数530万人は第四回京都岡崎公園の5倍、大阪人の万博好きは昭和じゃなくて明治以来と分かります。
第五回内国勧業博覧会見物案内図大阪名所双六も面白い。文字が読み取れる限りで、梅田停車場を振出しに、新地、太融寺、泉布観、中之島公園、堂島、野田の藤、川口、新町、難波神社、南御堂、北御堂、真田山、高津宮跡(現高津高校)、梅屋敷(上六付近、Yufuraの梅で復活)、桃山、高津神社、道頓堀、南地、心斎橋、四ツ橋、阿弥陀池、四天王寺、一心寺、住吉大社、天下茶屋、とぐるぐる大阪市内を巡り、内国勧業博覧会で上り。双六なのに、花街など大人の遊び場を巡ってます。双六が子どもの遊びとして普及したのは大正時代から昭和初期にかけて雑誌の付録になって以降らしい。
河内源氏
6階に下りると特別企画展「河内源氏と壺井八幡宮」。まずは後三年合戦絵詞(複製)。前九年合戦で安倍氏を討伐し名声を上げた源義家が、奥州の有力者・清原氏の内紛に介入した後三年の役を描いた絵巻、右手の騎馬武者が源義家。こんな風に編隊を組んで飛ぶはずの雁がバラバラで飛んでいるのを見て、清原軍が隠れていることを察知して撃退した場面。
続いて八幡太郎凱旋図(明治〜大正時代)と八幡太郎軍用図(安政2年)の掛け軸2本。八幡太郎源義家といえば東国武士というイメージが強いですが、生まれも墓所も河内源氏の本拠地である河内国古市郡壺井(現羽曳野市)、八幡太郎と呼ばれるのは石清水八幡宮で元服したことに因むらしい。義家の祖父・源頼信がこの地に本拠地を構えたことから河内源氏と呼ばれ、義家の玄孫が頼朝、義経、木曽義仲。義家三男・源義国の子孫が足利氏や新田氏と、武家の棟梁の多くが河内源氏。さらに徳川家康も河内源氏と称しています。
河内源氏以外にも源氏二十一流の流派があり、河内源氏は第56代清和天皇の子孫が臣籍降下した清和源氏の一派で、平氏政権下で源氏の長老として活躍した源頼政は摂津源氏。清和源氏以外にも第52代嵯峨天皇を祖とし源氏の本流とされる嵯峨源氏(渡辺綱ら)、第59代宇多天皇を祖とす宇多源氏(近江の佐々木氏ら)、多くの公家につながる第62代村上天皇を祖とする村上源氏(土御門家、北畠家、岩倉家、赤松家ら)などがあります。かなりややこしいですが、しっかり理解すると歴史を読む時に役立ちそうです。
源氏物語図屏風(江戸時代)、武士の棟梁となる以前の貴族としての源氏を紹介するための展示と思われますが、河内源氏を紹介する流れとしてはちょっと不自然な気もします。
画面を雲で隠し区切る手法は狩野永徳洛中洛外図屏風の真似ですが、洛中洛外図屏風のように空から俯瞰したものではないので、雲で区切る必然性は感じられません。
屋島の戦いで扇の的を狙う那須与一、そして壇ノ浦で安徳天皇を抱いた二位の尼が入水する場面です。
小さくても丁寧に描かれたたくさんの人物描写、躍動的な馬のデッサン力も高く、荒れた海の様子などもしっかり描かれていて、作者は不明らしいものの、源平合戦図より高い技量をもった絵師の作と思われます。
ちなみに自分はアニメ平家物語の影響もあって、源氏よりも心優しい人が多いと思われる平家贔屓です。
江戸時代の五月人形の神功皇后人形と武内宿禰人形(いずれも大阪歴史博物館蔵)。河内源氏の氏神八幡神(応神天皇)の母である神功皇后は戦勝祈願の鮎釣りの姿。五月飾りの武者人形に女性が登場するのはかなり異例のはず。思いつくところでは巴御前とかが登場しそうですが、ChatGPTによると女性の五月人形は神功皇后が唯一の例外らしい。右手に控える従者は説明がないものの若かりし頃の武内宿禰かも知れません。
もう一体の五月人形は景行・成務・仲哀・応神・仁徳各天皇に仕え、応神天皇の判神とされる武内宿禰が、応神天皇を抱き南海から紀伊水門に至り、忍熊皇子の反乱軍を破るという日本書紀神宮皇后紀の姿、たぶん300歳くらいの頃です。
上掲の木像神功皇后像の胎内に納められていた墨画日課千躰地蔵菩薩像(正平8年8月18日)、念阿弥陀仏という人物が極楽往生を願って千体の地蔵菩薩を墨書、おそらく最初に一体の菩薩像を描き、それを下に敷いて引き写し千体を描き上げたたもの。神功皇后像が奉納されたのはこれが完成した半年後というところが気になります。700年ほど前の武家や僧侶ではなくおそらく一般庶民の信仰が伺えてきます。
壺井八幡宮に残された楠木氏の家紋である菊水と楠木正成が信仰した摩利支天の文字が描かれた旗。源義家の死後、親族内の内輪揉めで河内源氏の有力者は関東へ移り、河内の領地は義家五男の義時が継承。平清盛の粛正を経て、義時孫の義兼らその子孫は姓を石川と改め、鎌倉幕府御家人として南河内を支配するも楠木正成の台頭で河内の源氏は衰退、多くは関東へ逃げ延びたり、楠木正成の配下になったらしい。壺井八幡宮に残されたこの旗はその頃のものかと。
源頼義(頼家の父)が東国にも石清水八幡宮を勧進したのが鎌倉の鶴岡八幡宮の始まりで、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に、源氏の氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に引き継がれ、今も鎌倉観光には欠かせない神社になっています。一方壺井八幡宮は自分もこの展覧会まで名前すら知らなかったのですが、上ノ太子駅から徒歩20分くらいのところにあり、閑静な境内が守られているようです。聖徳太子磯長陵も近く、古市駅にレンタサイクルがあるとも分かったので天気のいい日に訪ねてみたいと思います。
内堀側の入口脇の南高梅、最高級の梅干しになる品種です。花びらにうっすらピンクの斑点、花芯付近の濃い梅色も美しい。
雁木坂を上って梅林を俯瞰してみました。盆梅展で枝ぶりを愛でるも良し、梅林で花の色や香りを愛でるも良し。やはり桜より梅派の自分です。