ぼくのなつやすみ後編
承前、豊田市民芸館を出て平戸橋駅へ戻るのではなく猿投駅から豊田市駅へ向かうことにしました。平戸橋だと15分のところ猿投へは20分、大した差ではないものの、平戸橋への木陰の道と異なり炎天下の住宅街を歩き始めたところで後悔。
丘の上にある豊田市美術館にたどり着きました。ブロンズ像の置かれた美しい木立が広がっていて、散策したいところですがいかんせん暑すぎ。美術館と博物館の立つ丘は童子山と呼ばれ、挙母城があった場所ですぐ近くに小さな櫓が復元されていると分かったのは帰宅後。
現時点のGoogle Mapの航空写真では、緑で覆われた美しい丘の北半分がまだ造成中です。豊田市美術館は平成7年の開館も、豊田市博物館は令和6年4月に開館したばかり。美術館と博物館の両方を運営できるほどの財政力はひとえにトヨタ自動車と周辺自動車産業の存在によるものかと。
ワイエス展
クリムトを早く見たいものの、まずはワイエス展へ。ワイエスが若い頃の自画像から始まる前半部分は撮影NG、オルソンの家(1939年、水彩)から始まる後半は撮影OKに。
表戸の階段に座るアルヴァロ(1942年、水彩)、ワイエスはメイン州クッシングの別荘の近所に住むクリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟を妻のベッツィに紹介され、生涯の友となりふたりを30年間描き続けています。
オルソンさんといえば、大草原の小さな家で雑貨屋を営むオルソンさん、温厚で優しいご主人と、高慢で噂話が大好きな奥さん、意地悪な娘のネリーと息子ウィリーの一家です。大草原の小さな家の舞台となった緑豊かなミネソタ州ウォルナットグローブと違い、荒涼とした景色が広がるクッシング、アザラシやパフィンの棲息エリアです。
今回の目玉、クリスティーナ・オルソン(1947年、テンペラ)。MoMA(ニューヨーク近代美術館)のクリスティーナの世界と並ぶ、ワイエスの代表作です。
進行性の難病で下半身が麻痺していたクリスティーナ、車椅子を使わず、強い意志と自立心を持ち両腕の力だけで地面を這って移動し、家事をこなしていたらしい。力強く生きる彼女の姿に深い敬意をもって描かれた作品です。
19世紀初めに建てられたオルソンハウス、クリスティーナとアルヴァロ姉弟が暮らしていた頃は既に築百年以上ということになります。
オルソンハウスは現存し、現在は改装工事中も博物館になっています。メインロブスターで有名なエリアです。アルヴァロはオリオール号という自分の船まで持つロブスター漁師だったものの、姉を介護するために漁師を諦め、ブルーベリー農家になっています。
乗船の一行(1982年、テンペラ)、海岸にあった家の窓の外にヨット。さっきまでこのテーブルにいた面々がヨットに乗り込み寂しくなった場面かと。ヒトデ(1986年、水彩)では、窓に乾燥したヒトデが飾られ、窓の向こうにはカメラか双眼鏡を構えたワイエスの妻、ベッツィさん。
ITとか金融とかに関係の無い古き良きアメリカ。30数年前、フレンチフライの工場見学でワシントン州東部を訪ねたことを思いましました。シアトルから小さな飛行機でマウントレーニアの横を通り過ぎると眼下に緑の円がびっしり、センターピボットと呼ばれる灌漑農法のじゃがいも畑で、給水塔を中心に散水パイプが移動した部分だけが緑になっていました。マップと検索で記憶をたどるとどうやらFrench Fry Capital of the Worldと呼ばれ、町中に大工場があり、町から空港が近いOthelloという町だったと思われます。
静かなホテルにチェックインし食事に出かけようとするも周囲には何もなさげ、Where is the downtown?と訊いてHereと答えが帰ってきたことに大いに驚いたことを覚えています。メイン州クッシングともミネソタ州ウォルナットグローブとも全然違うワシントン州オセロですが、アメリカの田舎ならではの根っこで繋がる共通点があるような気がします。
クリムト オイゲニア・プリマフェージの肖像(1913/14年、油彩)、トヨタ自動車からの寄付金により約18億円で購入されたとのこと。どかで見たような…、由紀さおりさん? クリムトのパトロンで銀行家オットー・プリマフェージの妻、オイゲニアさん。右上に描かれているのはクリムトの東洋趣味による鳳凰。
原田マハの短編集あの絵のまえでの「豊穣」は、豊田市のアパートでひとり暮らしのしがないライター「私」と整理整頓が得意で豊田市美術館に務めるスガワラさんとのこの作品をめぐる地味な物語、期待に答えられないまま逝ってしまった祖母がキラキラ画面から「がんばれ!」と。
クリムトの素描、ヘルミーネ・ガリアの肖像の習作(1903/1904年、鉛筆)と眠る裸婦(1915年頃、鉛筆)。
モネやルノワールら印象派が台頭し、さらにファン・ゴッホやセザンヌらポスト印象派も登場してきたパリに対し、19世紀末のウィーンでも、クリムトが保守的なクンストラーハウス(美術家組合)に対し、若手芸術家を率いてウィーン分離派を結成、1898年の第1回ウイーン分離派展には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の訪問を受け、1902年の分離派展ではベートーヴェン・フリーズを出品し大顰蹙を買い、1903年の分離派展で出品されたのが愛知県立美術館で見た人生は戦いなり、黄金の騎士、当時のクリムトの置かれた状況を描いたものと分かりました。
クリムトと並べられているのは、名前を聞いたことがある程度だった弟子のエゴン・シーレ カール・グリュンヴァルトの 肖像 (1917年、油彩)、こちらはずばり成田三樹夫さんですね。グリュンヴァルトはシーレのパトロンですが、シーレの自画像によく似ており、画家自身が投影されているようです。
シーレの素描、しゃがむ女 (1914年、ドライポイント)、フランツ・ハウアーの肖像(1914年、ドライポイント)、そして上掲カールの娘、座る少女: シュテファニー・グリュンヴァルト(1918年、クレヨン)。ドライポイントとは金属板にニードルで描いたスケッチの数枚だけの版画、体の線と垂直方向に何本もの線で影が描かれています。いずれも線に迷いがなく、極めて高い画力をもっていたことが分かります。
Amazonプライムでクリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代というドキュメンタリー映画を見つけ見てみました。クリムトとシーレだけでなく、ジークムント・フロイトやヨハン・シュトラウス、グスタフ・マーラーらウィーンの同時代人のことが輻輳して語られ難解な映画ですが、少なくともクリムトもシーレも人格的にはふたりともクズだったと分かりました。彼らの破滅的で自己中心的なクズな生き方が、人間の生や性、死を直視する強烈な芸術表現を生み出す原動力となっていたようです。
第一次世界大戦が終結しオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊したその年に、ふたりともスペイン風邪のパンデミックにより、クリムトは55歳、シーレは28歳で亡くなっています。家族愛や兄弟愛にあふれたモネやファン・ゴッホと異なり、人間的にクズだったクリムトもシーレもウィーン市民には、致命的な脆さや毒を持つものの、人間の深淵を描き、ウィーンの文化を世界の頂点に押し上げた不世出の天才と深く愛されているらしい。スキャンダルとは無縁の陽気で優雅な古き良きウィーンそのものシュトラウスや、ユダヤ人迫害への罪悪感の混じるフロイトやマーラーへの敬愛とは多少異なる感情が含まれます。
倫理という問題はちょっと脇に置いて、芸術における感情の表現においてクリムトやシーレはベートーヴェンと共通するものがありそうです。ウィーンの土産物屋さんにはクリムトやシーレのグッズで溢れているらしい。正義の味方より毒のあるキャラクターの方が好まれる風潮もあるのが現代、このページで紹介されていたクリムト似顔絵のアクリルスタンドはちょっと欲しいかも。
岸田劉生 麗子洋装之図 青果持テル(1921年、水彩)、美術の教科書や切手でもお馴染みですが、50点以上のさまざまなバリエーションの麗子像があるらしい。愛顧の麗子さんをなぜかようにブキミに描いたのか、劉生が「デロリ」と呼ぶ「人間の泥臭い生命力や、土俗的で生々しい不気味さの中に宿る、強烈な美」の表現だそうで、麗子さん自身「私は決してお化けではありません、父は私をモデルにしながら、父自身の内面にある別の何かを描いていた」と語っているそうです。
因みに、前編でも触れた原田マハ「リーチ先生」に岸田劉生も登場、バーナード・リーチの窯が築かれていた我孫子の柳宗悦邸に、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の面々が集まっていたことがかなり詳しく描かれています。東京国立近代美術館には岸田劉生が描いたバーナード・リーチ像があり、我孫子の柳宗悦邸は手賀沼公園の畔に現存。35年くらい前、クルマで5分ほどのところに住んでいたのですが、全く知りませんでした。
梅原龍三郎 少女アニーン(1908年、油彩)はパリへ留学した梅原が師となるルノワールと出会う前の作品。
岸田、梅原の隣に掛けられていたものの何となく無視していた大澤鉦一郎 少年(1918年、油彩)、おっちゃん無視せんとボクも撮ってと聞こえた気がして、シャッターボタンを押した大正時代の少年です。
展示室5の中央にはコンスタンティン・ブランクーシ 眠る幼児(1907年、ブロンズ)、ブランクーシの新生という1920年の作品を兵庫県立美術館で見ています。
下村観山 春夏秋冬十二景(1910年代、膠彩、絹布)は同じガラスケースの中も手前に置かれていてよく見えます。観山がイギリス留学から戻り、岡倉天心を追って茨城県五浦での横山大観らとの苦難の共同生活を経た後、円熟期の作品です。
12景のうち4景だけの展示なので、どれがどの季節かイマイチよく分からないのですが、1枚目は霧のロンドン、2枚目は巨大堂宇の手前に蓮池、ずばりではないものの猿沢池ではないかと。
3枚目は雷雨の中の案山子、4枚目は山水画風、超細密画で知られる観山の異なる一面を見させてもらいました。雷鳴に立ち向かうボロボロの案山子がかなり好きです。
奥にクリムトとシーレ、右は岸田劉生や梅原龍三郎、左は下村観山や横山大観、真ん中にポツンとブランクーシ、何考えてこうしたのとツッコミたくなるほどてんでバラバラなのですが、なんか不思議な調和がある展示室5、豊田市美術館のエッセンスがせせこましくなく、ぎゅっと凝縮されていました。壁面一面のガラスケースはともかくも、こんな常設展示室が中之島美術館にあって、佐伯祐三や北野恒富が鑑賞できればいいのですが。
豊田市美術館の階段からの眺め、光る目はヤノベケンジ サヴァイヴァル・システム・トレイン。
美術館を出てタクシーに乗ればいいのに炎天下を歩いて豊田市駅へ。町には赤いレプユニのグランパスサポーターに混じって紺色レプユニのガンバサポーターもちらほろ。結果はどうだったのかと思いきや、豊田市駅に着くと、電車からものすごい数のサッカーサポーターが吐き出されてきて、試合はナイトゲームで7時キックオフと分かりました。ガンバサポーターは試合終了で大阪まで帰れるのかな。
ホームに上がり、普通上小田井行の名古屋市交通局N3000系で帰ります。豊田線に急行はなく各停のみで東山線乗り換えの伏見駅まで31.8kmで50分はちょっとかかり過ぎかと。
もうデパ地下でお弁当を探す体力は残っていないのでJRの売店へ。1,500円超の駅弁が並ぶ中で、ゲットしたのは一番安い松浦商店の復刻弁当、1,150円。近鉄の改札に入り、スーパードライ350ml x 2缶と海鮮スティック、さらにファミチキ追加。
復刻弁当は大正解、復刻は151系こだま号が描かれた掛け紙だけとのことですが、さばの照り焼き、白身魚フライ、牛肉の炒め煮、煮物(ごぼう、竹の子、椎茸、鶏肉)、玉子巻き、蒲鉾、ひじきの煎り煮、くり豆、さくら漬け、と盛りだくさんで十二分にアテになります。何より白ごはんが美味い、崎陽軒のシウマイ弁当のおにぎりと同じくらい美味かったです。
何と今日は27,000歩、16kmも歩いてました。美術館の中も含まれるものの大半は炎天下でした。
APPENDIX
原田マハの短編集モダンに「中断された展覧会の記録」というワイエスの「クリスティーナの世界」をテーマにした短編を見つけました。福島県立美術館がモデルと思われる美術館で、門外不出のはずのMoMAのクリスティーナの世界をメインにした展覧会開催中に2011年の震災、MoMAの担当者がクリスティーナの世界を「連れ戻し」にやってくる物語です。福島県立美術館のコレクションにワイエス作品があり、実際に震災の2年前にワイエス展が開催され、「クリスティーナの世界」の習作も展示されていたようです。
美術館の担当者が貸し出された美術品が所蔵館の倉庫から搬出される瞬間から空港へのトラック、積載される飛行機、到着空港から貸出先までのトラックの全てに同乗し、荷解きされて検分まで全て立ち会うという、元キュレーターの原田マハさんにしか書けない叙述、中之島のフェルメールも同じ方法でやってきたんでしょうね。
クリスティーナの世界の「華奢な後ろ姿が振り向くことはない。前だけを向いて進む、強い意志に満ちた背中」はクリスティーナ・オルソンの横顔にも同じことが言えると気付いた次第。