纒向遺跡・纒向古墳群
漸く暑い暑い夏が終わり、ずっとガマンしていた古墳めぐりを再開。この国の始まりの地、纒向へ。終末期の古墳、飛鳥の八角墳をVLOGにまとめたので、逆に最初期の古墳をVLOGにまとめたいのですが、これまでの纒向訪問だけだと写真や動画がイマイチなので改めて取材です。
メクリ1号墳から東田大塚古墳
大きな公衆トイレがあるだけの広い空地が纒向遺跡太田地区。公衆トイレの南側にぽっこり盛り上がった小さな塚が、木製仮面の出土したメクリ1号墳かと思い込んでいたのですが、調べれば調べるほどこの塚じゃなさそう、と分かってきてそれを確認するのが最初の目的です。
見学会の人たちは皆大型公衆トイレ西側を向いて講師の先生の説明を聞いていました。やはり南側の塚じゃなくて西側の広い空間のどこかがメクリ1号墳のようです。見学会の人たちが去ったあと、大型公衆トイレ前から空地を撮影。纒向遺跡の物資集積・管理の拠点だったらしい太田地区ですが、遺跡としての説明板も何もありません。立入禁止の看板が立つだけで引き続き発掘調査が行われているものと思われます。
見学会の人たちはゾロゾロと纒向遺跡辻地区のある北の方へ向かって行ったので、自分はこのまままっすぐ西へ。県道を越えると右手に纒向小学校、その隣の平たい台地が今年の3月に訪ねた纒向石塚古墳です。
3月のブログでは纒向型前方後円墳のひとつと書いていてしまったものの、後円部と前方部の比率が2:1という纒向型の定義からすると当てはまらないので訂正しておきました。墳丘長115mの勝山古墳、右手に2:1以上に長く伸びる削平された前方部が見えます。
説明板では「勝山古墳(墳丘墓)」とカッコ書きで墳丘墓とあります。矢塚古墳にもカッコ書きで墳丘墓、東田大塚古墳にはありません。墳丘墓とは弥生時代末期、古墳時代前段階の形式が統一されていない地域有力者の墓。一方、古墳はヤマト王権を頂点とした広域的支配者層の定型化した墳墓と定義されるようです。
勝山古墳は纒向型ではないもののカッコ書き付きです。説明板には3世紀代とのみ案内されていますが、周濠部から出土の建築部材の年輪年代測定による3世紀初頭説と、布留式土器が出土していることから3世紀末〜4世紀初頭説があり特定されていないようです。「墳墓の定型化」が古墳時代の始まり、ひいてはこの国の始まりを意味することから、今後の調査の進展で歴史を変える可能性も秘めるているのかも。
説明板によると線路脇にさらに建物E、線路をまたぐように位置し、B〜Dとは異なる方向を向いている未知の居館らしい。発掘調査を進めるには長期間電車を止める必要がありそうです。
建物B〜Eだけで、建物Aがありません。散々調べてみたのですが、建物Aは検出を想定して発掘調査を進めたものの検出できなかったものと判明しました。(参考: 史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群保存活用計画書纒向遺跡第176次調査の項)
建物群の南側に草原、このARの標識は大量の桃の種やベニバナの花粉が発見された場所を示すもののはず。(参考: 史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群保存活用計画書纒向遺跡第168次調査の項、及び、纒向遺跡発掘調査概要報告書7ページの地図)、SK-3011と記されたピンク色背景の位置です。
ホケノ山古墳・箸墓古墳
満腹してホケノ山古墳へ向います。黄金色の田んぼの向こうに見えてきたのは巻野内石塚古墳。真後ろは箸墓古墳、右手に耳成山、遠景は金剛山と大和葛城山。実に美しい。
かなり見えにくい場所に立てられた巻野内石塚古墳の説明板をズームで撮ってみると、詳細不明も前方後円墳らしいとあるまでですが、大和の古墳探索さんによると、位置や規模からホケノ山古墳に続く同時代の重要な古墳かも知れないとのこと。
iPhone17に機種変を考えているiPhone12Proで撮った箸墓大池と箸墓古墳、十二分に美しい。墳丘長278m、高さ30mで全国で11番目に大きい古墳。周りに大きな建物がないこともあり、仁徳天皇陵より勇壮かつ美しく見えます。墳丘上の樹木も含めると日本一高い古墳かも。
大きさや美しさだけじゃなくて紀元241年〜260年頃築造の最古級の前方後円墳、上述の墳丘墓と古墳の違いの定義づけからすると最古の古墳と言えるはずです。箸墓古墳を雛形として、埋葬のための前方部と祭祀のための後円部のバランスが整えられ、三段築成で葺石で覆われ、周濠で囲まれるなど、古墳の形態や築造方法が定型化。4世紀の西殿塚古墳や桜井茶臼山古墳、5世紀百舌鳥古市の仁徳天皇陵や応神天皇陵など時の王陵に引き継がれ、吉備の造山古墳など地方有力者へも波及、大化の改新の薄葬令が出されるまで、古墳が権威を示す象徴となります。
池に浮かぶ小さな島も堂後(どうご)古墳と呼ばれる古墳とされるのですが、詳しい情報はなく、古墳ではないのかも。ちなみにホケノ山古墳のすぐ西側に堂ノ後(どうのうしろ)古墳があります。
画文帯神獣鏡などホケノ山古墳出土品は橿考研で見ることができます。ホケノ山は箸墓より古いのは確実で、被葬者は卑弥呼の後継者の台与という説もあるものの、箸墓が卑弥呼だとすると、辻褄が合いません。巻向川ではまだハグロトンボがパタパタやってました。
今日訪ねた古墳を築造年代順に時系列で整理すると、①纒向石塚古墳(3世紀前半〜中頃、纒向型前方後円墳)→②矢塚古墳(3世紀中頃、纒向石塚古墳とほぼ同時期、纒向型前方後円墳)→③ホケノ山古墳(3世紀中頃、纒向型前方後円墳)→④箸墓古墳(3世紀中葉〜後半、定型化前方後円墳の元祖)→⑤勝山古墳(3世紀代、前方後円墳)→⑥東田大塚古墳(3世紀後半、前方後円墳)、となりそうですが、①と②はどっちが先か微妙、⑥は①以前に遡る可能性もあり、かなり微妙です。ChatGPTではホケノ山の方が纒向石塚よりやや古いという説が有力とのことでした。断定はできず、このモヤモヤっとしているのがこの時代の面白さと捉えるべきかと。
桜井市埋蔵文化財センターに到着。メクリ1号墳から出土の木製仮面、以前撮った写真を撮り直したくてやってきた次第です。そして辻地区出土の桃の種、2769個も出土した一部です。
古墳時代の諸宮のパネル。上段中央に実在する最初の天皇ともされる第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、纒向が廃絶した後、次に築かれた宮廷ではないかと自分は想像しています。邪馬台国畿内説が正しいとした場合、魏志倭人伝に記されているように卑弥呼の死後、国は乱れるも、台与により安定を取り戻した、その後が4世紀初めの磯城瑞籬宮ではないかと。山の辺の道の南端、海柘榴市の近くにその伝承地があります。その後は纒向に戻って珠城宮、そして日代宮、日代宮伝承地を訪ねた時と較べてぐっと考察が深まりました。
今日歩いたところが漏れなく含まれている纒向全景写真、勝山古墳の北西上空からの撮影です。素材が十分集まったところでVLOG編集の再開ですが、YouTubeにアップするまでかなりかかりそうです。