纒向遺跡・纒向古墳群

漸く暑い暑い夏が終わり、ずっとガマンしていた古墳めぐりを再開。この国の始まりの地、纒向へ。終末期の古墳、飛鳥の八角墳をVLOGにまとめたので、逆に最初期の古墳をVLOGにまとめたいのですが、これまでの纒向訪問だけだと写真や動画がイマイチなので改めて取材です。

桜井駅南口の絵都蘭世で茶がゆモーニング。おかいさん出してくれる喫茶店は珍しいよね、ママさんとしばし茶がゆ談義。番茶でもほうじ茶でもなく中番茶とのこと。自分同様、茶がゆ食べに大阪からやってくるお客さんも少なくないらしい。

北口の円形地図、赤い部分が「纒向遺跡の範囲」、辻地区大型建物群、纒向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、箸墓古墳、古墳時代初期の遺跡や古墳を全部回るつもりですが、珠城山古墳群は時代が違うので今日はパス。

バックミラーで227系とツーショット。

車内には和歌山線昼間時間帯集中保守工事に伴う運転休止のお知らせ。高田-五条間はバス代行があるものの五条-橋本間は代行なし。奈良和歌山県境をまたぐ利用は多くないと分かりますが、五條病院へ通院の橋本の一人暮らし高齢者とかは困るでしょうね。

三輪駅を過ぎると左手車窓に箸墓古墳、右手車窓の三輪山をバックにした木の生えていない小さな台地がホケノ山古墳です。

巻向駅に到着。

踏切を渡ってすぐの場所が最初の目的地なのですが、すごい人、人、人でビックリ。遺跡・古墳めぐりの見学会のようですが、500人はいそうです。ほぼ100%高齢者。

メクリ1号墳から東田大塚古墳

大きな公衆トイレがあるだけの広い空地が纒向遺跡太田地区。公衆トイレの南側にぽっこり盛り上がった小さな塚が、木製仮面の出土したメクリ1号墳かと思い込んでいたのですが、調べれば調べるほどこの塚じゃなさそう、と分かってきてそれを確認するのが最初の目的です。

見学会の人たちは皆大型公衆トイレ西側を向いて講師の先生の説明を聞いていました。やはり南側の塚じゃなくて西側の広い空間のどこかがメクリ1号墳のようです。見学会の人たちが去ったあと、大型公衆トイレ前から空地を撮影。纒向遺跡の物資集積・管理の拠点だったらしい太田地区ですが、遺跡としての説明板も何もありません。立入禁止の看板が立つだけで引き続き発掘調査が行われているものと思われます。

見学会の人たちはゾロゾロと纒向遺跡辻地区のある北の方へ向かって行ったので、自分はこのまままっすぐ西へ。県道を越えると右手に纒向小学校、その隣の平たい台地が今年の3月に訪ねた纒向石塚古墳です。

金剛山と大和葛城山をバックに東田大塚古墳、まだ訪ねていなかった纒向古墳群のひとつです。

ところどころに極彩色のヒャクニチソウ。

清楚なアキノノゲシ。東南アジア原産の帰化植物ですが、稲作とともに日本へ渡ってきた史前帰化植物だそうな。

三輪山をバックの背の高い白い点々もアキノノゲシ。

ひょうたん島みたいなのが箸墓古墳、遠景は音羽山。稲穂が美しい。

右手に矢塚古墳。正面に東田大塚古墳が近づいてきました。

東田大塚古墳後円部墳丘です。ヒガンバナはまだ咲き始め。

私有地で立入禁止になっているのが残念ですが、かなり丁寧に整備されているようです。緑色の実がなっている木は柿かと。

箸墓古墳と同時期、3世紀後半築造の前方後円墳ですが、南西方向に伸びていたはずの前方部はほぼ削平されてしまっています。ガードレールにハクセキレイ。

東田大塚古墳後円部北側からの眺めです。西の方にはかっこいい角度で二上山。

ウスバキトンボらしきがいっぱい舞っていて、漸く止まったと思ったらアキアカネ。

矢塚古墳・勝山古墳・石塚古墳

東田大塚古墳の北250mほどのところに矢塚古墳。アレチハナガサじゃなくてヤナギハナガサです。

3世紀中頃築造の矢塚古墳、後円部径と前方部長の比率が2:1の纒向型前方後円墳です。

東田大塚古墳同様に立ち入り禁止も、竹藪に覆われるばかりで墳丘もよく見えません。国の史跡に指定されているので、地主さんも自由にできないはず。公有地化は難しいのかな。

矢塚古墳を北側から。そのすぐ北側に池に囲まれた勝山古墳、3月に訪ねた時は水が抜かれていました。こちら側が後円部です。

頭上を通り過ぎたのはチョウゲンボウ。アオサギも何やらカッコいい。

3月のブログでは纒向型前方後円墳のひとつと書いていてしまったものの、後円部と前方部の比率が2:1という纒向型の定義からすると当てはまらないので訂正しておきました。墳丘長115mの勝山古墳、右手に2:1以上に長く伸びる削平された前方部が見えます。

説明板では「勝山古墳(墳丘墓)」とカッコ書きで墳丘墓とあります。矢塚古墳にもカッコ書きで墳丘墓、東田大塚古墳にはありません。墳丘墓とは弥生時代末期、古墳時代前段階の形式が統一されていない地域有力者の墓。一方、古墳はヤマト王権を頂点とした広域的支配者層の定型化した墳墓と定義されるようです。

勝山古墳は纒向型ではないもののカッコ書き付きです。説明板には3世紀代とのみ案内されていますが、周濠部から出土の建築部材の年輪年代測定による3世紀初頭説と、布留式土器が出土していることから3世紀末〜4世紀初頭説があり特定されていないようです。「墳墓の定型化」が古墳時代の始まり、ひいてはこの国の始まりを意味することから、今後の調査の進展で歴史を変える可能性も秘めるているのかも。

纒向石塚古墳に出てくると、さっきの団体さん。500人は大げさも300人は下回らないようです。向いのローソンでトイレを借りていっぷくする内に団体さんが南の方へ移動したのを見て纒向石塚へ戻ります。

こちらの説明板にもカッコ書きで墳丘墓。纒向型前方後円墳で3世紀前半〜中頃の築造と案内されています。古墳時代初頭の「古墳」とも弥生時代終末期の「墳丘墓」ともされる両論があり、古墳時代の定義を議論する資料となっているようです。

太平洋戦争中に後円部が削平され高射砲陣地が構えられた纒向石塚古墳、左手にチラリと金剛山。

3月に墳丘上の木の下で見つけたネコの頭蓋骨がどうなっているか気になるのですが、草茫々。団体さんも近づかなかったようです。草が踏まれた墳丘へ続く跡が少しあったものの、ヤブコギ必至なので自分も諦めました。古墳めぐりはやはり冬から春がシーズンと再認識。

茶色いトノサマバッタがアスファルトの上でっじっとしてました。

奈良県営住宅纒向団地です。纒向遺跡の中にあり、団地内からも少なからずいろんな出土品が見つかっているようです。

纒向遺跡の中心となる辻地区、大型建物群が立ち並んでいた、政治と祭祀のエリアです。

AR(仮想現実)で大型建物群が眼の前に再現できるらしいのですが、アプリをダウンロードする必要があり、以前も試して途中で諦めたことがあり、今日もアプリインストールのパスワードが分からず諦めました。おそらく位置情報と絡めたアプリと思われますが、シンプルにQRコードからウェブ表示で十分かと。

辻地区西側は柱10本の建物B、中央は同じく柱10本も柱間が広い建物C。

東側の万葉まほろば線沿いの建物Dは何と柱45本。

桜井駅の南北連絡通路に掲げられていた纒向遺跡辻地区建物群の復元イメージ、手前から建物B、建物C、建物Dです。

説明板によると線路脇にさらに建物E、線路をまたぐように位置し、B〜Dとは異なる方向を向いている未知の居館らしい。発掘調査を進めるには長期間電車を止める必要がありそうです。

建物B〜Eだけで、建物Aがありません。散々調べてみたのですが、建物Aは検出を想定して発掘調査を進めたものの検出できなかったものと判明しました。(参考: 史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群保存活用計画書纒向遺跡第176次調査の項)

建物群の南側に草原、このARの標識は大量の桃の種やベニバナの花粉が発見された場所を示すもののはず。(参考: 史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群保存活用計画書纒向遺跡第168次調査の項、及び、纒向遺跡発掘調査概要報告書7ページの地図)、SK-3011と記されたピンク色背景の位置です。

巻向駅から東へ、ママさんも言ってたけど、やはりおかいさんだけでは腹持ちはよくないので、国道169号との交差点角にあるRest & Cafeフレールでランチ。日替わりランチのオムライスとカキフライのセット、コーヒー付で1,000円。

エビまでのった三輪素麺がおにぎり2個付きで850円は、大神神社参道や山の辺の道沿いのお店と較べてかなり破格。こんどは素麺かにゅうめんにしましょ。

ホケノ山古墳・箸墓古墳

満腹してホケノ山古墳へ向います。黄金色の田んぼの向こうに見えてきたのは巻野内石塚古墳。真後ろは箸墓古墳、右手に耳成山、遠景は金剛山と大和葛城山。実に美しい。

かなり見えにくい場所に立てられた巻野内石塚古墳の説明板をズームで撮ってみると、詳細不明も前方後円墳らしいとあるまでですが、大和の古墳探索さんによると、位置や規模からホケノ山古墳に続く同時代の重要な古墳かも知れないとのこと。

三輪山の手前にも小ぶりの古墳、Google Mapで小川塚西古墳と分かったもののコメントはゼロ。巻向川の扇状地の埋没した流路の上に築かれているらしい。Google Mapをチェックし直すと周辺に、サシコマ古墳、北口塚古墳、茶の木塚古墳…、と他にもコメントゼロの小さな古墳が見つかります。マーカーすら置かれていない古墳も見つかりそうです。

そこそこ開いたヒガンバナです。

ホケノ山古墳が見えてきたものの、墳丘と周辺を覆うようにさっきの300人の団体さん。古墳北側から段築が確認できる写真だけ撮って、団体さんがいついなくなるのか耳をすましていたところ、どうやらここで休憩らしい。仕方ないので、ホケノ山は諦めて箸墓古墳へ向かうことにしました。巻向川の川面を覗くとハグロトンボ。

箸墓古墳を反時計回りに回ってみます。黄金色の田んぼと箸墓古墳。箸墓大池のカイツブリです。

iPhone17に機種変を考えているiPhone12Proで撮った箸墓大池と箸墓古墳、十二分に美しい。墳丘長278m、高さ30mで全国で11番目に大きい古墳。周りに大きな建物がないこともあり、仁徳天皇陵より勇壮かつ美しく見えます。墳丘上の樹木も含めると日本一高い古墳かも。

大きさや美しさだけじゃなくて紀元241年〜260年頃築造の最古級の前方後円墳、上述の墳丘墓と古墳の違いの定義づけからすると最古の古墳と言えるはずです。箸墓古墳を雛形として、埋葬のための前方部と祭祀のための後円部のバランスが整えられ、三段築成で葺石で覆われ、周濠で囲まれるなど、古墳の形態や築造方法が定型化。4世紀の西殿塚古墳や桜井茶臼山古墳、5世紀百舌鳥古市の仁徳天皇陵や応神天皇陵など時の王陵に引き継がれ、吉備の造山古墳など地方有力者へも波及、大化の改新の薄葬令が出されるまで、古墳が権威を示す象徴となります。

池に浮かぶ小さな島も堂後(どうご)古墳と呼ばれる古墳とされるのですが、詳しい情報はなく、古墳ではないのかも。ちなみにホケノ山古墳のすぐ西側に堂ノ後(どうのうしろ)古墳があります。

倭迹迹日百襲姫命大市墓拝所を過ぎて左へ回り、前方部と後円部のくびれに沿って歩きます。

約30分かけて箸墓古墳を一周してきました。十字路を左へ曲がると箸墓古墳後円部、まっすぐ進むとホケノ山古墳。もう団体さんは去っているはずなのでホケノ山古墳に戻ります。

ホケノ山古墳の墳丘です。途中草むらを懸命に這っていたフクラスズメの毛虫、幼虫はハデも成虫はかなり地味です。

ホケノ山古墳墳丘から箸墓古墳の眺めです。手前の生け垣に囲まれたところが堂ノ後古墳。削平されているものの前方後円墳らしい。出土品から5世紀後半築造と見られホケノ山や箸墓の陪塚ということではなさそうです。

ホケノ山古墳前方部に復元された木棺直葬墓、頭蓋骨のように見えるものは出土した壺。後円部には3世紀の人と6世紀の人のふたりが埋葬されており、少なくとも3人のお墓です。

画文帯神獣鏡などホケノ山古墳出土品は橿考研で見ることができます。ホケノ山は箸墓より古いのは確実で、被葬者は卑弥呼の後継者の台与という説もあるものの、箸墓が卑弥呼だとすると、辻褄が合いません。巻向川ではまだハグロトンボがパタパタやってました。

今日訪ねた古墳を築造年代順に時系列で整理すると、①纒向石塚古墳(3世紀前半〜中頃、纒向型前方後円墳)→②矢塚古墳(3世紀中頃、纒向石塚古墳とほぼ同時期、纒向型前方後円墳)→③ホケノ山古墳(3世紀中頃、纒向型前方後円墳)→④箸墓古墳(3世紀中葉〜後半、定型化前方後円墳の元祖)→⑤勝山古墳(3世紀代、前方後円墳)→⑥東田大塚古墳(3世紀後半、前方後円墳)、となりそうですが、①と②はどっちが先か微妙、⑥は①以前に遡る可能性もあり、かなり微妙です。ChatGPTではホケノ山の方が纒向石塚よりやや古いという説が有力とのことでした。断定はできず、このモヤモヤっとしているのがこの時代の面白さと捉えるべきかと。

桜井市埋蔵文化財センター

ホケノ山古墳と箸墓古墳の間の踏切が鳴り出しました。左端の木立は箸墓古墳。

木立に挟まれた単線を行く227系です。右は竹林、左はたぶんケヤキ。

ハナトラノオを見てさっきの十字路を南へ。1kmほど歩いて桜井市埋蔵文化財センターを再訪します。

活玉依媛(たまくしひめ)と大物主神の伝説が伝わる苧環(おだまき)塚の池、正面に三輪山。

フヨウの花に止まっているのはフタトガリコヤガの幼虫。

歩いている道は上ツ道、飛鳥時代に整備された山の辺の道に並行する官道です。

桜井市埋蔵文化財センターに到着。メクリ1号墳から出土の木製仮面、以前撮った写真を撮り直したくてやってきた次第です。そして辻地区出土の桃の種、2769個も出土した一部です。

纒向古墳から出土した阿波、河内、近江、南関東、吉備、東海、山陰、さらに韓式の土器。東海系が最多で49%も占めているらしい。辻地区から骨が見つかった纒向犬は9月28日までの展示。卑弥呼様の愛犬だったかも知れません。公募していた名前は10月頃に発表らしい。

纒向遺跡の繁栄はわずか百年足らず、古墳時代が始まる4世紀初頭には廃絶したと考えられています。邪馬台国畿内説を採ると卑弥呼の死によって纒向はその政治的役割を終えたと考えられ、纒向はヤマト王権の出発点ではあるものの、その拠点は磯城、飛鳥、橿原へ移動、纒向の人々も新たなヤマト王権に組み込まれていったようです。

古墳時代の諸宮のパネル。上段中央に実在する最初の天皇ともされる第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、纒向が廃絶した後、次に築かれた宮廷ではないかと自分は想像しています。邪馬台国畿内説が正しいとした場合、魏志倭人伝に記されているように卑弥呼の死後、国は乱れるも、台与により安定を取り戻した、その後が4世紀初めの磯城瑞籬宮ではないかと。山の辺の道の南端、海柘榴市の近くにその伝承地があります。その後は纒向に戻って珠城宮、そして日代宮、日代宮伝承地を訪ねた時と較べてぐっと考察が深まりました。

今日歩いたところが漏れなく含まれている纒向全景写真、勝山古墳の北西上空からの撮影です。素材が十分集まったところでVLOG編集の再開ですが、YouTubeにアップするまでかなりかかりそうです。