EXPO1895

1年超の休館を経てリニューアルオープンしたばかりの泉屋博古館へ。住友家の膨大な青銅器コレクションを有する東山鹿ケ谷にある美術館です。

天満橋駅ではプレミアムカーの満席表示がずらりと並んでいたものの8000系先頭車に余裕で座れました。淀屋橋駅の乗り換えが後方なので、天満橋では前方がおすすめです。泉屋博古館を訪ねる前に藤の開花情報があった平安神宮神苑へ、大した距離じゃないので三条京阪から歩きます。三条通の100円ローソンに灰皿みっけ。

以前訪ねたことのあるお店でランチ、ご飯大盛りが150円、おかわりが250円になっていてビックリ。毎週通っている自分ち近所のお店は大将が悩みに悩んで、4月からそれまで無料だった大盛り50円、おかわり100円にされたのと較べてずいぶん大胆。30年間殆ど値上げの無かった社会、一気に暮らしにくくなった今日このごろです。

白川

三条白川橋の白川の川面に何やら石積、さんざん調べてみたものの何なのか不明です。

橋の袂の道標には「是よりひだり、ちおんいんぎおんきよみず」側面には「京都為無案内旅人立之、延宝六戊午三月吉日、施主為二世安楽」と刻まれています。京都に不案内な旅人のため、1678年に施主さんが自分の名前も刻まずに来世の安楽の為に建てたものと分かり、糺の森の下鴨一老女さんの献灯に通じる奥ゆかしさと感じさせます。

ちなみに江戸時代と今で漢字とひらがなの使い分けが違ってます。どうやら江戸時代は万人誰もが理解できるようにひらがなを使い、正確を期す場合は漢字を使っていたようだと気づきました。

「區京下、三條通北裏白川筋東入上る堀池町」の仁丹広告付きホーロー看板発見。まずもって現在地は鴨川の東で下京区ではなく左京区です。三条通の一本北の東西の名前の無い通りと白川に沿った南北の白川筋(京都でも大阪のように南北の通りを筋と呼ぶ場合があると分かりました)の交差点を東に入り北へ上ったところの堀池町という意味です。

堀池町を抜け堀池橋で透明な白川を渡ります。

白川にかかる「もっこ橋」、もっこは農作業や土木工事に用いられる天秤棒で担ぐ運搬具ですが、付近にあった製氷工場の作業員が保温材となる籾殻をもっこを担いで渡っていたことに因むそうです。

「もっこ橋」のすぐ川上に橋桁のようなものが並んでいます。もうひとつ「もっこ橋」があったのかと思いきや、何と昭和30〜40年代ここに設置されていた児童プール跡で、石の杭には筋が刻まれていて板を挟み水を堰き止めていたと分かります。

何度も歩いたことのある道なのに新たな発見がある京都の町、きりがないので先へ進み。ようやく琵琶湖疏水まで出て来ました。疎水の水が濁っているのに白川の水は透明、今立っている橋の下にかなり強力な濾過装置があるはずです。

京都国立近代美術館では「若きポーランド」展、向かいの京都市京セラ美術館では「草間彌生 版画の世界―反復と増殖―」開催中、このあと泉屋博古館なのでここは素通り。

平安神宮

平安神宮應天門に到着。京都市交通局二号電車が神苑の隅っこから應天門の外西側に建てられたばかりの上屋の下に移されていました。

明治28年(1895年)に開催された第四回内国勧業博覧会に合わせ京都電気鉄道(後の京都市交通局)七条-南禅寺間が開通、この車両は明治44年梅鉢鐵工所(後の帝国車輌、東急車輛)製なので、EXPO1895時点の車両ではないものの、昭和36年以来神苑に保管されています。重要文化財に指定されており、今後車体の補修や塗装などの修復作業が行われるものと思われます。

平安遷都1100年を記念して開催された第四回内国勧業博覧会の目玉として5/8サイズで平安京朝堂院が復元されたのが平安神宮。いわばEXPO1895のメインパビリオンです。境内に入ると大極殿は改修工事中、白虎楼や青龍楼も含め全体の改修は2030年までかかるらしい。

1895年の万国博覧会はジョージア州アトランタで開催されているので第四回内国勧業博覧会をEXPO1895と呼ぶのは適切ではないかもしれないですが、日本の人口が4千万人、交通も情報インフラも現在と比較にならない中で、113万人もの来場者を集めています。ちなみに第五回内国勧業博覧会は1903年に大阪天王寺今宮会場で開催、海外からも14カ国18地域が参加、来場者数は435万人、美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館などのパビリオンが設けられ、イルミネーションのライトアップで夜間も開催、アメリカ製自動車や、エレベーターで上る塔、茶臼山の池に飛び込むウォーターシュートやメリーゴーランドなどが人気を博し、大阪市には莫大な経済効果ももたらしたらしい。たぶん今年の万博のそれに味をしめたものの、その後日露戦争や暗い時代が続き、国家的博覧会はEXPO1970を待つことに。大阪府公文書館で詳しい資料が公開されていました。ちなみにその跡地が天王寺公園と新世界。

境内隅の白虎の手水鉢は小室信夫による寄進。知名度は高くないものの幕末の志士で等持院の歴代足利将軍の木像をさらし首にした足利将軍木像梟首事件のメンバー、維新後は徳島藩に重用されイギリス留学、自由民権運動に参画、民撰議院設立建白書にも名を連ね、実業界に転じ東京株式取引所、京都鉄道、阪堺鉄道(後の南海電鉄)などの設立に携わっています。

南神苑に入ると二号電車が保管されていた場所はレールだけになっていました。ここに二号電車が保管されていたのはEXPO1895だけじゃなくて小室信夫に因むということもありそう。日本初の市内電車はEXPO1895の目玉のひとつだったようです。

いつも鳥や虫たちに会えたものの今日は何も見つからい南神苑を抜け、西神苑もハナショウブはまだ先。クロイトトンボに会えたものの、ここにあったはずの木橋が無くなっていました。

早々とコウホネ、9月頃までと花期の長い水草です。

中神苑の池のノムラモミジ(たぶん)が美しい。ハナショウブはまだですが、カキツバタは季節になりました。

数は少ないもののスイレンも咲き始めています。池の中の魚は希少種のイチモンジタナゴじゃなくてたぶんカワムツ。

茶店に別れたヨメにそっくりな人がいてドキドキ。前を何度か往復して別人であることを確認。

花びらの根元が白い線はカキツバタをアヤメやハナショウブと見分けるポイントです。池面に写ったノムラモミジは秋景色。

メジロとヤマガラのおしり。

東神苑の鮮やか過ぎるノムラモミジ、そのノムラモミジをぼかして泰平閣の鳳凰を撮ってみました。結婚式新婦のお友達でしょうか、振り袖のお嬢さんたちが眩しい。

神苑の作庭も明治28年、つまりEXPO1895ではこれだけの広大な日本庭園も供されていたようです。EXPO1970でも広大な日本庭園が作られ今もそのレガシーとして残され、EXPO2025でも同様な日本庭園ができるものとばかり思っていたのですがそいうのは何もできなかったのが残念。

藤棚があるはずも見つけられないまま神苑を出ると蒼龍楼、春を司る青龍は東側と決まってます。

應天門を抜け、EXPO1895会場を後にします。

冷泉通を東へ。15分ほど歩いた永観堂参道沿いの岡崎コーヒーショップでいっぷく。大阪のように4月から厳しい受動喫煙防止条例が施行されてはいないものの京都でも絶滅危惧種のタバコの吸える喫茶店です。アイスコーヒーが上手い。

鹿ケ谷通を北へ5分ほどで目的地の泉屋博古館。「いずみや」ではなく「せんおく」です。

泉屋博古館青銅器館01名品大集合

チケットブースで訊ねると青銅器館は写真撮影OK、企画展はNGとのこと。青銅器館に入り、美しいホールの螺旋階段を上ります。

最初のフロアは「名品大集合」、展示品01-1は夔神鼓(きじんこ)、太鼓を模した青銅の鋳造品。「夔」は一本足の牛に似た怪物とも、人の顔と猿の体で人語を解する動物とも、(魑魅魍魎の)魍魎と同一視される木石の怪とも、音楽を司るように命じられた人間とも。孔子曰く性格は悪いものの正直だけが取り柄で音楽の才だけは突出していたらしい。この鼓の胴に描かれた「夔」は角を生やし両手両足を広げていて一本足ではないです。

なぜ太鼓を青銅器で作ったのか、閉じられた器でまともに音響しないかと。鼓の上には鳳凰らしき鳥が2羽。

名品の殆どは青銅器が最も発展した殷後期(紀元前12-11世紀)のもの。

象文兕觥(ぞうもんじこう)です。兕觥は酒器、背中が蓋になっていて、口から酒を注ぐようになっているようです。空想上の動物らしき全体に精緻な文様がびっしり刻まれ、空想上の動物に混じってゾウやウサギら実在の動物も。殷時代の遺跡からアジアゾウと一緒に埋葬された人骨も確認されてるそうな。

鴟鴞卣(しきょうゆう)、鴟鴞はフクロウやミミズクのこと。2羽のフクロウが背中合わせになった器にびっしり文様が刻まれています。奈良国立博物館青銅館にも鴟鴞卣がありました。奈良と較べるとよりフクロウっぽい形態です。

鳳柱斝(ほうちゅうか)、熱燗を楽しむための紀元前11世紀のチロリです。奈良のと違って上には鳳凰が2羽、その冠羽の造形が素晴らしい。

饕餮文瓿形卣(とうてつもんほうけいゆう)、饕餮文は左右対称の怪獣の文様、瓿は丸々とした胴をもつ広口の器、卣は酒壺。

中国青銅器年表で酒器などの実用品の登場は日本では縄文時代の頃、銅鏡は日本の弥生時代になってからと分かります。難読漢字が頻出する青銅器、鼎「てい)や鬲(れき)などは青銅器自体に器の種類名が刻まれているそうです。

泉屋博古館青銅器館02種類と用途

階段を少し上ると「種類と用途」のフロア。酒器の組み合わせのショーケースには、右端から時計回りに鬲父乙盉(れきふいつか、酒を混ぜる)、饕餮文卣(とうてつもんゆう、香りづけをする)、鼎父己尊(ていふきそん、酒を盛る)、げん兕觥(げんじこう、酒を注ぐ、げんの字は文字コード無し)、宰椃角(さいこうかく、温める)、癸觶(きし、これで飲む)。お酒を楽しむだけじゃなく儀礼としての意味が大きかったと分かります。

爆弾のような球体は穀物を盛るための円渦文敦(えんかもんたい)。地球儀のような見事な球体をどんな鋳型で作ったんでしょう。殷周より後、紀元前5世紀(春秋戦国時代)のもので、青銅器が衰退し鉄器が普及した時代ですが、技術自体の進化を感じさせます。

饕餮文鼎(とうてつもんてい)、肉が入ったスープ(羹、こう)を煮るための鼎は「鼎の軽重を問う」の語源。

穀物を煮るための戲伯鬲(ぎはくれき)、鬲という字はこの器をかたどった象形文字。

大小さまざまな大きさで音階を奏でる鐘(しょう)。

酒に燗をつけるための爵(しゃく)、チロリです。

食器、酒器、水器、楽器の4種類の用途に分類できる青銅器を分かりやすく美しくイラスト化されてました。何度も参照することになりそうなパネルです。

まだまだ紹介したい青銅器がいっぱいあるので後編に分けます。後編のメインは銅鏡になるはず。

考古学者来村多加史先生の青銅器の基本がとても参考になります。後編の前の予習にぜひ。「柔らかい」を「やらかい」とかとても心地いい大阪弁で青銅器の素材や作り方、変遷が学べます。