80年代の電車汽車その2

承前、年末に見つかった未整理の古写真でさらに記憶を辿ります。

上州

関西人にはどうにも馴染みの薄い北関東、群馬県と栃木県の区別はなかなか難しいですが、ここは上州、群馬県です。

東武1800系、急行りょうもう号でやってきた赤城駅、上毛電鉄のクハ30形、元西武鉄道の車両です。

古い電車好きは性分のようなもので、結婚した時に構えた新居は松戸市も、流山電鉄の小金城趾駅近く。窓の大きな元京急のモハ1101と窓の小さな元西武のクハ52のコンビで通勤したかったためです。

小金城趾といっても東京でも知っている人は少ないので、住んでる場所を説明する時は新松戸の近く、とお茶を濁していました。

群馬まで何をしに来たかというと、古い電車だけじゃなくて上信電鉄に導入された新型電車に乗ってみたかった次第。地方私鉄の電車は殆どが大手私鉄のお古、新型電車が投入されることは稀です。

1枚目は上信電鉄の終点、こんにゃくで有名な下仁田駅での250形、単行運転できる両運転台貫通ドア付で1981年の登場。もう1枚は世界文化遺産富岡製糸場最寄りの上州富岡駅での1000形、1977年のローレル賞を受賞しています。

いずれも地方私鉄とは思えない斬新なスタイル、側面の黄色い斜めストライプも目新しく、この手のデザインでは国鉄185系がありますが、上信電鉄が先駆です。この他に250形と同時期に導入された冷房車6000形があるのですが会えなかったようです。その後3形式の新型電車はいつの間にか塗装変更されて当時のかっこよさが無くなり、以降の新規導入車両は西武やJRのお古ばかりです。

津軽

冬の津軽への旅です。上野駅から寝台特急あけぼので弘前へ。五所川原駅の長い跨線橋は今もそのままのようです。

屋根に煙突のある津軽鉄道のストーブ列車、ダブルルーフ狭窓、昭和初年製オハ31形です。ストーブ列車は今も走っていますが、1983年に戦後製のオハ46形に置き換えられる前の写真です。一緒に手を炙っている人たちとはどこで知り合ったのかどうしても思い出せないものの、この時確かストーブに火が入ってなくてポーズだけだった記憶が…。

宿泊先は金木の斜陽館、太宰治の生家が旅館になっていました。その後金木町が買い取り、今は太宰治文学記念館になっています。

弘南鉄道大鰐線のクハ1611元国鉄クハ16形、撮影場所は弘前中央駅です。

もう1枚はモハ2233、元西武鉄道モハ235、その前は武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)デハ5554、昭和3年川崎造船所製と分かりました。ググっていると同じ形式でも車両ごとに細部が異なっていて車番までたぶん同定できていると思います。昭和3年川崎車両(同年川崎造船所から分社)製ということは阪堺電車で現役のモ161形4両と同い年の神戸生まれということになります。埋め込みじゃなくてケーブルでつながった外付けテールランプの形状はモ161形を彷彿とさせます。1920年代のクラフトマンシップです。

クハもモハもあずきアイスのような塗装がピッカピカ、クリックすると出てきますが、モハは前パンタでスノープロウ装備、まるで電気機関車です。

キ100形ラッセル車と記念撮影。大鰐駅ではないかと思われるのですがちょっと自信がありません。

上のストーブ列車もそうですが、どうやら線路を歩いて渡ったみたいです。まだ客車はドアを開け放って走行していた時代なのでご容赦を。

弘前では津軽三味線のライブハウスが記憶に残っています。祖父が高橋竹山の大ファンで、毎日くらい津軽じょんがら節のレコードが掛かっていました。その津軽じょんがら節を生で聞けて大感動でした。

弘前からどうやって東京へ帰ったのか、未整理の写真の束にわんこそばを食べている写真、さらに新渡戸稲造の銅像や羅漢像の前での記念写真もあり、盛岡へ行ったのは分かるのですが、別の機会とばかり思っていたのが、どうやら弘前からの帰り道で山形の親戚へ行っていた友人と盛岡で合流したようです。

たぶん弘前から花輪線経由で盛岡、盛岡から東北新幹線、大宮から新幹線リレー号で帰ったものと思われますが、記録も明確な記憶もありません。でも、わんこそばを確か57杯完食、自分よりずっと体格のいい友人に勝った記憶は残っています。

追記:一緒にわんこそばを食べた友人にブログを見てもらったところ、盛岡で合流したのではなく、上野から一緒に出発していたことを確認。自分が集合時間に遅刻して、あやうく寝台特急あけぼのに乗り遅れるところだったと聞かされました。ストーブ列車のストーブに火が入っていなかったことも確認できました。山形の親戚へ行っていた同じ友人と合流したのは、ずっと後年のことで、記憶がごちゃまぜになっていたとも分かりました。この時は、クルマで山寺や松島を巡っています。写真が見つかったらまた書いてみたいと思います。

上越

スキーの写真がいっぱい出てきたのですが、鉄道の写真は越後中里のEF64一枚だけ。関西にいた時はで八方尾根や栂池といった大糸沿線が殆ど、足を伸ばして野沢温泉、志賀高原といったところだったのが、関東に住むようになり、苗場や越後湯沢といった上越のスキー場へ4時間くらいで行けるようになったのがすごく新鮮でしたが、記憶に残るのは列車じゃなくて関越道の渋滞です。

せっかくなので滑っているところを1枚、緩斜面のウェーデルンは得意でした。スキーはもう30年以上ごぶさたです。今でも膝の入れ方は思い出せるけど、たぶん緩斜面一本で膝が笑うはず。

西独

西ドイツ国鉄103型の写真も出てきました。以前書いたニュルンベルグトイフェア出張時の写真です。学生時代の旅行で大好きになった電気機関車です。インターシティ(国内特急)と思われます。

中で食事した記憶は無いものの食堂車の写真、よく見るとパンタグラフがあります。その後インターシティ用客車がこの気品あるベージュと深みのある赤から、どうにも似合わない白と赤に塗装変更されたのは、南海がCIで塗装変更したのと同じくらいショックでした。

ウチを出てから約24時間でトイフェア会場に到着、まず最初にすべきはメッセ事務局で事前に発送しておいた展示用サンプルのピックアップ。荷物が届かなかったり、スリや盗難に遭ったりといったトラブルはドイツでは経験が全くなく、さすがです。

ニュルンベルグ中央駅からメッセまでは地下鉄(U-Bahn)で10分ほど、パリのメトロとかと違って車内放送があります。ネイヒトバーンホフ、フランケンシュトラッセ(次は、フランケン通り)、ドイツ語はからきしで、聞き取りが間違っているかも知れませんが、今も耳に残っています。ニュルンベルグはフランケン地方にあります。ワインの素養とかも全く持ち合わせていない自分ですが、フランケンワイン(平たいボトルに入った辛口の白)だけは別、見つけたら買い求めてしまいます。

例年ちょうど今時分に開催されるニュルンベルグトイフェアも、やはり今年は7月に延期だそうです。ニューヨークトイフェアは中止とありました。クリスマス商戦に向けて、毎年1月-2月のトイショーで始まるトイビジネスも大きな変化を求められています。

京成

出てきた写真は遠出したところばかりで、当時沿線住民だった京成電車とかは一枚もありません。携帯電話以前の時代、普段歩きではカメラを持っていなかったためです。

まだ青電と呼ばれるくすんだ青緑色ツートンの行商専用列車が走っていました。沿線の名物、柴又の草団子みたいな色の電車です。後年行商専用列車から急行電車の最後部1両だけが行商専用車両に規模が縮小されたのですが、近鉄の鮮魚列車とは異なり、モンペを穿いた本物の行商のおばあさんたち(なぜかおじいさんはいません)で、行商専用列車以外でもよく乗り合わせ、自分の身体より大きな荷物を背負ったまま座席の端にちょこんと腰掛けているのをよく見かけました。たぶん多少座り心地が悪くても大荷物を下ろしたり背負ったりするのが大変だったためでしょうね。台東区や墨田区辺りの道端でお店を広げているおばあさんたちも度々見かけました。

自分が小学生の頃、行商のおばあさんが乳母車に色んな商品を満載して毎朝7時半ころウチへやってきて、祖母がカマボコやアンパンを買っていたのを思い出しました。でも関西では大荷物を背負った行商のおばあさんを見た記憶がありません。京成線の行商のおばあさんたちのようなビジネススタイルは関東、それも千葉県と東京下町だけの独特のものなのかも。

成田空港の度重なる開港延期でこの頃の京成電鉄の経営状態は最悪の状態、ボロい電車が多く、冷房化率も他の大手私鉄と較べてかなり低く夏場の通勤はキツかったです。電車の窓に「ぢの治療は…」とかのステッカー広告がベタベタ貼られていてなんとも居心地が悪かったのはよく記憶に残っています。

ボロい電車に乗りたくなくて、通勤の帰り道では初代スカイライナー車両のイブニングライナーもよく利用しました。海外出張には極めて便利な場所に住んでいた訳ですが、まだ旧成田空港駅(現東成田駅)からターミナルビルまでバスに乗り換える必要がありました。沿線住民だった間にクリームとブラウンのシックなデザインから白ベースに青と赤のストライプに塗装変更されています。

日本でも西ドイツでも鉄道会社をCIブームが席巻していた80年代ですが、それが結果として企業収益に結びついたとはちょっと考えにくいです。

大佐倉へ撮り鉄に行った記憶があります。京成沿線きっての秘境駅で周辺に人家も少ない低い丘に囲まれた駅です。地図で確認すると印旛沼も近く、今も沿線に住んでいたら足繁く白鳥の郷へ通っていたはず。後年、我孫子市に引っ越しました。手賀沼がすぐです。当時既に湖畔に山階鳥類研究所や鳥の博物館もあったのですが、まだ日本一汚い湖でした。今やかなり水質は改善され、バードウォッチングのメッカになっています。鳥見を初めてまだ10年ですが、過去に戻って鳥鉄したいものです。