Spielwarenmesse
シュピーエルヴァーレンメッセ、ニュルンベルクトイフェア、今年は1月31日から2月4日まで開催、今も世界最大規模の玩具見本市で、東京ビッグサイトの2倍近い17万平米の展示場全部が世界中の玩具メーカーのブースで埋まります。
グローバルには毎年年明け早々の香港とこのニュルンベルク、それに2月後半のニューヨークが世界3大トイフェアであることは変わっていないはずです。各メーカーが自信の試作品を持ち集まり、1月から商談を開始、バイヤーの反応を得て、春頃には生産計画を決め、9月くらいから出荷を始め、11月の感謝祭、そしてクリスマス商戦というのが玩具業界の1年の流れです。なので、毎年6月に開催される東京おもちゃショーはグローバル・ビジネスからは完全に外れています。
1985年の写真が見つかり、紙焼きをコンビニでスキャニングしてきました。展示ホールに囲まれた広場で大型ライブスチームのデモ、アメリカンなシェイギヤードロコとDB80型です。
新卒で入社した玩具メーカー外国部(貿易部でも海外事業部でもなく外国部!)の営業担当としてメッセには2回か3回出張、玩具小売店勤務の時にはドイツへは行かせてもらえなくて、独立してから提携先の香港企業のみんなと一緒にもう1回行ったと記憶します。
まだ西ドイツだった頃でICEも開業以前、フランクフルトからDB(西ドイツ国鉄)のクリーム色と臙脂色の客車に揺られてニュルンベルクまで3時間くらい。これだけ大規模な見本市なので、ニュルンベルグ市内のホテルなど取れず、ローカル線に乗ってさらに1時間ほど行ったことろの小さなホテルに泊まっていました。
何という町だったかは覚えていないのですが、快晴の朝、ホテルを出かける時に、表の柱に架けられていた温度計がマイナス25℃を差していたことを覚えています。アイスクリームやマグロの冷蔵庫以外で自分がこれまでに体感した最低気温です。
会期は5日間ですが、ブース設営や搬入搬出もあるので、1週間強の出張です。
勤務先玩具メーカーのブースです。後にトランスフォーマーとなるミクロマン、ダイアクロンの変形ロボットが最主力商品、後のオプティマスプライムは既にダイアクロン・コンボイとしてリリースされていました。
香港事務所のJ所長と自分です。手前の黒い箱はデモビデオを見てもらうためのポータブルビデオデッキ。
ハートマークの販促用ビニールの反物は、確か挟持と呼ばれていたと記憶します。ハクション大魔王そっくりの販促部Yさんに頼み込んで分けてもらったものです。
通訳のウルスラさんとのツーショット。英独の通訳の他、事務局との折衝や会期前後の色んな手配とかもこなしてくれました。一緒に食べた会場の屋台で売っているシャシリク(ケバブみたいな肉の串焼き)がめちゃ美味かったです。
城壁に囲まれたニュルンベルグの街、ワーグナーのニュルンベルグのマイスタージンガーの舞台で、ナチスが党大会を開催し、ニュルンベルグ裁判が行われた街ですが、鉄道の要衝で、鉄道博物館もあります。
メッセの1日が終わると街へ繰り出します。ちょうどバレンタインの季節なのですが、バレンタインギフトは、女性から男性に限らず、チョコにも限られず、花が多いと初めて知りました。
Vサインの男性は確かアメリカ人で、クライアントとかじゃなくて会場で知り合った人です。ニュルンベルグのあるフランケン地方の扁平なボトルに入ったフランケンワイン(白のみ)はかなり美味です。
このレストランじゃなくて、郊外の1日に1組しか食事できないレストランに連れて行ってもらったことを思い出しました。7時ころからのディナーでコースが終わったら12時ころ、つまりフルコースが5時間くらいかかる訳で、1時間くらい経たないと次の料理が出てきません。お客様同士の会話もご馳走というコンセプトらしく、英会話力が十分ではなかった自分にはいささかつらかったものの、料理は間違いなく絶品でした。
5日間の会期中、主なクライアントとの商談は概ね最初の2日くらいに集中しその間は緊張感があるのですが、後半になると会場全体ものんびりした雰囲気が漂ってきて、商談やブース番の合間を縫って他のホールを見て回ります。特にホール4だかホールDだかはホール全体が鉄道模型メーカーオンリーで、いつまでも飽きることがありません。日本からはKATOも出展していました。会期後半で人が少なくなった他ホールと較べて会期中ずっと人通りが絶えず、ドイツの鉄道模型市場の広がりを実感させられました。
ウルスラさんの美人のお友達がしょっちゅうウチのブースに遊びに来てくれます。ドイツなので仕事中でもテーブルにビールが載ってます。鼻の下を伸ばした自分の様子に苦笑しているのが直属の上司K課長です。
貿易実務のイロハから、海外クライアントとの交渉術、それに何と言っても自分にお酒の飲み方を教えてくれたK課長です。当時テレックスやコレポンの英文原稿を書いて、何度も読み直して、この単語で言いたいことが正しく伝わるのか、自分自身で何箇所も赤を入れ、それでももう一晩考えてから送ろう、ということをよくされていました。
課長(ちなみにこの会社では肩書では呼ばず上司でも名前で呼ぶことになっていました)が細い指で打つタイプライターもめちゃ速くてカッコよく、自分もタイピングの修得は必死でやりました。なので、自分は今でもキーボードのブラインドタッチだけは自信があります。
終業時間がくると即、いつもの小料理屋さんへ。おいタック(自分のこと)待ってるからな、とお誘いがかかります。課長の十八番、思い出のサンフランシスコは自分も得意です。それで、おいタック、もっと飲め、いくら飲んでもいい、でも明日遅刻だけはするな、と説教が始まるのですが、翌朝遅刻するのは課長でした。数え切れないくらい一緒に飲んだのですが、一度もお代を払った記憶がありません。自分の退職後ですが、まだかなり若くして他界されたのが残念でなりません。
K課長の上がO部長、自分を面接、採用してくれた鼻髭が似合う部長は課長以上にダンディで、英語でくだをまけるくらい英語の上手い人でした。O部長のこともいずれ機会を改めてブログに書きたいと思いますが、熱海への社員旅行で、朝起きたら自分と同室のO部長とK課長が歯を磨く前からビールの栓を抜いていたのにビックリしたことを鮮明に覚えています。
この後、自分は国内マーケティング部へ異動、外国部と違って会社のメインストリームで、新しい上司にずいぶん気遣っていただいたものの、居心地が良すぎた外国部と較べてどうしても馴染めず、1年ほどで退職してしまいました。
この頃おもちゃの生産の殆どはまだ国内だったのものが、この後生産拠点は一挙に海外へシフト、玩具業界に限らずビジネス全体があっという間にグローバル化していきました。
バブル直前の時代に、上司や仕事、仲間に恵まれ、たくさん学び体験させてもらった5年間は、自分にとってかけがえのない社会人第一歩だったことは間違いないです。