徳川大坂城の障壁画
大阪くらしの今昔館と大阪ガス共催の第6回お出かけ今昔館〜徳川大坂城の本丸御殿というセミナーに参加してきました。
会場は上本町一丁目交差点から近い大阪ガス実験集合住宅NEXT21、ウチから徒歩15分のところにこんな建物があるとは今まで全く気づきませんでした。1993年築で、大阪ガスの社員が実際に居住し、環境、エネルギー、暮らしの面から、さまざまな実験・検証を続けているらしい。緑化が進み、ジョウビタキやメジロもやってくるようです。「実験マンション」ではなく「実験集合住宅」となっているところがいいです。
セミナー会場は2階のホール(バーチャル見学ページ)、円形アリーナのようなオシャレで見やすいホールです。参加者は自分と同世代あるいは年上と思しき高齢者がほとんど。第6回となるお出かけ今昔館、これまでは「空堀の路地と長屋」や「四天王寺と金剛組」等町歩きとセミナーがセットで開催も、今回はまだ猛暑が予想されたのでセミナーのみとのこと。
本丸御殿
岩間香・摂南大学名誉教授による解説が始まりました。以下岩間先生の解説、配布資料、購入した図録、それにネットで調べたことの自分なりの理解です。
徳川大坂城は大坂の陣(慶長20年 - 1615年)、家康死去(1616年)の後、元和6年(1620年)から寛永6年(1629年)まで十年をかけて築城、「堀の深さや石垣の高さを豊臣時代の倍にせよ」という将軍秀忠の命により豊臣大坂城をまるまる埋め尽くし、第一期工事は東外堀、北外堀、西外堀、第二期は内堀と本丸、第三期で南外堀が築かれています。
第二期工事の本丸天守台(2019年4月撮影)と隠し曲輪(2020年3月撮影)。隠し曲輪に集まっている大勢はヤツガシラを撮りに来た人たち、自分もそのひとりでした。
第三期工事では南外堀と7つの櫓が作られ、六番櫓(2018年10月撮影)と一番櫓(2018年11月撮影)が現存、いずれも寛永5年(1628年)築。よく似た櫓ですが窓の数やレイアウトが違ってます。一番櫓の壁の一部が剥がれているのは2018年9月の台風21号の傷跡と思われます。こちらは内部公開されていません。
現存する二の丸の櫓は全て二層ですが、本丸にあった月見櫓、馬印櫓など11基の櫓は全て三層、11基の本丸櫓も本丸御殿と同時に鳥羽・伏見の戦いで焼失。WikiPediaに三層櫓の写真が残されていました。国宝の彦根城や犬山城に匹敵する規模の櫓が11基も並んでいた大坂城、残っていたら間違いなく世界遺産です。
第三期築造の南外堀、ブログにアップしていなかった2014年6月コアジサシが10羽くらいやってきた時の写真が出て来ました。ソニーサイバーショットWX300という20倍ズームでわずか139gコンデジ、2110万画素とiPhone17Proの半分くらいの画素数でも結構くっきり撮れていてビックリ。
徳川大坂城築造と同時期に江戸城や二条城の築造が行われています。江戸城は約30〜35万坪、徳川大坂城は約23万坪、二条城は約8万坪、西国に対する牽制と豊臣以上の威厳を示すための徳川大坂城は、京都における将軍の宿所および朝廷対策として築かれた二条城の3倍ほど、概ね江戸城と変わらない規模の城郭だったことが分かります。
徳川大坂城天守は五層六階(地下一階)で58m(石垣30m+建物28m)、江戸城の58.5m(石垣13.7m+建物44.8m)とやはり同規模、二条城の35m(石垣と含む推定)より遥かに大きいものの、寛文5年(1665年)に落雷で消失、以降昭和6年に再建されるまで大坂城には天守はありませんでした。
因みに江戸城天守は明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失、二条城天守は寛延3年(1750年)に落雷で焼失しています。2015年10月撮影の江戸城天守台と本丸御殿跡です(皇居東御苑)。江戸城本丸御殿は何度も火災で焼失、文久3年(1863年)の火災以降は幕府の深刻な財政難と将軍が京大坂に滞在していることが多かったこともあり再建されず、西の丸に仮御殿が建てられ、そこが幕末の政庁となり、明治以降その場所が皇居となっています。
大坂城は天守焼失後も御殿は慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いの戦火で焼失するまで存在しています。寛永11年(1634年)三代将軍家光が上洛の際、大坂城に滞在したものの、以降将軍の大坂城入城は約230年途絶え、14代将軍家茂が、文久3年(1863年)4月に上洛、文久4年(1864年)2月には海路翔鶴丸で上洛、いずれも二条城に一時入城したものの京都の治安悪化から大坂城を本拠にしていたようです。さらに慶応元年(1865年)閏5月に長州征伐のため大軍を率いて入城し14ヶ月滞在するも江戸に帰ることなく慶応2年(1866年)7月に大坂城内で21歳の若さで病没。
15代慶喜は慶応2年12月に二条城で将軍宣下を受け、慶応3年3月から4月に大坂城滞在、イギリス公使パークスやフランス公使ロッシュらを招いています。慶応3年10月に二条城で大政奉還、12月9日に王政復古の大号令により将軍職を追われた慶喜は大坂城へ退去、慶応4年1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで連戦連敗、1月6日夜に大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ逃亡しています。この後、大坂城各所から出火し1月8~9日にかけて大坂城内の建物が焼失。
WIKIMEDIA COMMONSで見つけた徳川大坂城本丸の図面、城郭の形は現在と同じです。上のほぼ正方形が天守、下のいくつもの建物が廊下で繋がっているのが本丸御殿、現在のミライザから日本庭園の池まで東西に、天守前喫煙所付近から桝形巨石裏のトイレ付近まで南北に広がっています。
つまり本丸広場一面に広がる毎朝500人ほど参加するラジオ体操会場全体くらいが本丸のあった場所ということになります。規模は二条城二の丸御殿(2021年7月撮影)を大きくしたような武家風書院造りだったようです。
本丸御殿障壁画
セミナーは別の部屋に移動し、本丸御殿南東隅に位置あった大広間と最奥に位置する銅(あかがね)御殿の1/10スケール復元模型を見学。
徳川大坂城本丸御殿の建坪は3,600坪で66室、1,000坪で33室の二条城二の丸御殿の3倍の広さ。渡り廊下で結ばれ66室の詳細な間取りが描かれた重要文化財大工頭中井家関係資料「大坂御城中御殿向絵図」(たぶん模写)が展示されていて、それぞれの間取り毎に部屋のサイズ(畳の数)や障壁画の内容まで書き込まれていました。
大広間御上段部分の模型。二条城二の丸大広間を見学したことを思い出します。二条城は屋内の撮影NGだったのですが、上段の間に徳永慶喜と小姓の人形、下段の間には平伏する家臣らの人形が並んでいたのはよく覚えており、それとそっくりな徳川大坂城本丸大広間。パークスやロッシュを謁見したのっもこの大広間、中井家資料には「大廣間御上段遠山松御床内大松四拾帖主馬」とあり、この文面や城内を実際に見た人の見聞録などを元に再現された模型です。
京阪電車のウェブページに二条城大広間の写真を見つけました。上段の奥、床の間の松は微妙に枝ぶりが違っているもののほぼ大坂城本丸御殿模型と同じ構図、床の間右の違い棚もほぼ同じですが、将軍から見て左手の大広間御上段帳台構(ちょうだいがまえ)はちょっと違っていて、白梅、紅梅、金鶏(たぶん)、松に水の流れ。
ちなみに二条城二の丸御殿内は撮影NGもその障壁画はすべて模写で、実物は二条城障壁画展示収蔵館で見学できると分かりました。あまり楽しくなかった記憶のある二条城ですが、改めて訪ねる必要がありそうです。
銅御殿御上段の床の間、銅御殿御下段外側には千鳥。模型の障壁画作成は諫山宝樹さん。東映京都撮影所で時代劇の襖絵などを手掛け、朝ドラばけばけの小豆洗いなど妖怪の絵も宝珠さんの作品。模型制作は嵯峨嵐山文華館の百人一首フィギュアや近つ飛鳥博物館の仁徳天皇陵ジオラマの株式会社ヤマネ、アカデミック・エキスパートによる超綿密な学術調査考察と関西の超一流クリエイターによる合作模型です。
セミナーの〆はグループに分かれて今日の学びで気づいたことを語りあうもの、参加者皆さんの学びの深さや洞察力に驚かされました。中でも平城宮との比較という視点はすごい。
名古屋城御殿
折良く新プロジェクトXで幻の国宝 名古屋城本丸御殿 〜完全復元に挑む〜が放送されていました。名古屋城本丸御殿は徳川大坂城本丸御殿に先立つ慶長17年(1612年)から慶長20年の創建、大きさは二条城二の丸御殿とほぼ同等、天守ともども昭和5年に国宝第1号に指定されるも昭和20年の空襲で焼失。
名古屋城本丸御殿は遺された実測図や写真を元に2018年に復元、テレビ番組はその復元の苦闘の物語。番組ではよく分からなかったのですが、障壁画についてはすべて焼失したのではなく、1049面の障壁画は焼失を免れ、復元された本丸御殿公開にあたり焼失した作品の復元と遺された作品の模写の両方を含む約900面が飾られ、復元模写は継続中だそうです。ちなみに奇跡的に遺されたオリジナルの障壁画は西の丸御蔵城宝館に保存され見学できるとのこと。
名古屋城本丸御殿をGoogle Mapで見ると本丸の真ん中を埋め尽くすように広がっていて、たくさん内部の写真もアップされていて、二条城と異なり写真撮影OKらしく、徳川大坂城本丸御殿模型の中にいるような体験ができそうと分かります。次回名古屋訪問時は徳川美術館へと考えていたのですが、名古屋城本丸御殿も欠かせません。
名古屋城本丸御殿同様に徳川大坂城本丸御殿も復元できないかとは思ってみたものの、これは可能性が低そうです。遺された資料が限られるだけでなく、大阪市民の多くはアンチ巨人、アンチ徳川、なんで豊臣大坂城で復元せえへんねんとなるはずです。
APPENDIX
江戸城の写真を探していたら神保町さくら通りにあったスヰートポーヅの餃子の写真が出て来ました。写真を見るだけで味をしっかり思い出すことができます。コロンとした肉が殆どでニンニクもニラも入っていない餡が、香ばしく焼かれたツルンとした絶妙な厚さの皮に包まれていて、齧るとジュワーと肉汁がでてきます。焼小籠包感覚に近い餃子です。もう40年くらい前九段下で勤めていた頃以来散々通ったお店ですが、コロナ禍最中の2020年に閉店していてもう食べることが叶わない餃子、この味を引き継ぐ店がないかAIにも訊いてみたもののどうやら無さそうです。
皇居三の丸尚蔵館が今秋オープン、狩野永徳や探幽、俵屋宗達、酒井抱一、伊藤若冲らの錚々たる絵師の障壁画や掛け軸が出展されるようです。スヰートポーヅは無いものの、神保町いもやの天ぷら定食に穴子としいたけにおしんこ追加とか、池袋タカセで東郷青児の飾られた昭和な空間で肉汁じゅわーのハンバーグとか、巣鴨ときわ食堂の甘い卵焼きとか、食べたいものがいっぱい思い出されます。名古屋もいいけどやはり東京へ向かうか、悩んでます。