野田藤も牧野博士

桜が終わるとお次は藤。奈良公園の萬葉植物園か、宇治の平等院か、と調べていると福島区の春日神社がヒット。規模は大きくなさそうですが由緒ありげです。

千日前線の玉川駅で下車、多分初めて下りた駅です。改札を出ると「のだふじ巡り」のポスター。

野田駅高架下の喫茶店でカウベルを鳴らしてモーニング。昨日久しぶりにおもろかったわ、と常連さんとママさんの会話が飛び交ってます(昨日は7-0で阪神快勝)。

快晴の下、野田駅を通過する大和路快速、桜島線直通が運転されていない時間帯は15分ヘッドになってしまう野田駅、高架橋の橋桁に藤が描かれています。

野田藤発祥の地

野田の住居表示は街区表示板、町名板、住居番号板がフルセットで藤色です。小さな児童公園に藤棚。

狭い路地にもフジの鉢。

新なにわ筋に出てきました。以前海老江干潟へ足繁く通っていた頃、自転車で何度も通った道です。絶滅危惧種の283系くろしおが通過。

間近にナミアゲハ、iPhoneを5cmくらいに近づけて撮ると体毛の1本1本までくっきり。

公園のネモフィラ。紫の斑点はネモフィラ・マキュラータという品種と分かりました。

春日神社、思ったよりずっと小さな祠です。境内に藤棚。

道路を挟んで「野田藤発祥之地」の碑、嵌め込まれたプレートの写真は昔の植木屋さんかと思いきや、この地で梯子に上って藤棚の藤を観察している牧野富太郎博士。日本の固有種、フジの標準和名をノダフジと命名したのは何と牧野博士と分かりました。

発祥之地の碑の上にかかるノダフジ、「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と並び称され、秀吉も藤見物にやってきている古代から藤の名所、戦前まで残っていた原木は空襲で消失も、近隣の公園や学校に残った枯木の種子から栽培が行われ、野田藤まつりが開催されるまで復活したらしい。

ボランティアの女性からもらったパンフレットの中面にはのだふじみどころMAP、かなり広範にみどころが点在しているのですが、⑨番の下福島公園へ向かいます。

下福島公園、以前自転車で通り抜けた記憶があります。向こうに見える大きなビルは大阪病院、旧大阪厚生年金病院、自分の出生地です。

試合中の野球グラウンドを回り込むと、藤棚と大阪病院。

クマバチとノダフジ。大阪病院とノダフジ。

ノムラモミジをバックにノダフジ。クマバチのアップ。

白いフジは白野田藤。

萬葉植物園で見た九尺藤や紫藤もノダフジの園芸品種、カピタンフジはノダフジとは別種のヤマフジの一品種と分かりました。

大阪病院を正面から。久しぶりに福島のDNAを感じた自分です。

のだふじみどころMAPを参考にもう少し回ってみようかと思ったのですが、中之島にキッチンジローがあることを思い出し花より団子に決めました。堂島大橋を渡らずに堂島川の右岸を歩きます。

中之島

垣根の黄色い花はジャスミン。

黄色いえらく平べったい船が遡ってきました。一本松海運の最新鋭ほたる号19t、道頓堀川のクルーズ船よりかなり大きいです。平べったいだけじゃなく屋根が上下するらしい。

数ミリの赤紫の花はマツバウンラン。玉江橋を渡り中之島へ、対岸はほたるまち港。

中之島美術館はビルをぐるっと囲むように長蛇の列、何が開催されているのか少なくとも数千人は並んでいそうです。

モネ展と分かりました。おそらく中が混みすぎないように入場制限しているものと思われます。

シデコブシです。

ダイビル本館と中之島ダイビル、いずれも低層階に元あった建物を復元してその上に高層ビルが載ってます。

フェスティバルプラザのキッチンジロー、ファミレスのジョイフル傘下になって、ここフェスティバルタワーと九段下の2店舗が残るだけも、全盛期と変わらない味、スタコロ(スタミナ焼き+コロッケ)、ハンカラ(ハンバーグ+唐揚げ)といった符丁は今も引き継がれていて嬉しい限り。スタミナ焼きもエビフライも捨てがないのですが、やはりメンカレ(メンチカツ+カレー)にしました。東京発のお店なのでミンチカツじゃなくてあくまでメンチカツ、相変わらずジューシで美味。前回酸っぱくなったかもと書いたカレーですが、この酸っぱさこそジローのカレーと再認識、とん汁もこの味、この味。スタッフさんたちが関西弁なことだけがちょっと違和感。

となりの人の注文はワエビ、えっそんなのあったっけ、とメニュー表をチェックし直して、和風ハンバーグ+エビフライと分かりました。かつては2種類だけじゃなくて3種類選べたこともありました。例えばハンスタカレー。

満腹して近くで見つけた喫茶店でいっぷく。まだ12時前、フェスティバルタワーウェストの香雪美術館で開催中の「北斎と広重」を訪ねてみることにしました。

北斎と広重

中之島美術館のモネ展のような長蛇の列はなくすっと入れましたが、館内はそこそこの混雑。前の人が見終わるのを待って鑑賞の繰り返しです。スマホや携帯電話限定で撮影OK、最初はバシバシ撮っていたのですが、何か下品かもと感じ、特に気になった作品だけに控えるようにしました。

モネ展も一部の作品は撮影OKらしく、先日訪ねた円空展も一部OKでした。撮って減るもんじゃなし、来館者のSNSを通しての来館促進という美術館の新しいマーケティングが一般的になってきているようです。

正確には「北斎と広重 冨嶽三十六景への挑戦 江戸東京博物館コレクションより 」という特別展、江戸東京博物館は大規模改修工事で長期休館中、その所蔵作品を借り出してきての展覧会です。江戸東京博物館へは何度も行ったことがあるものの北斎や広重を見た記憶はありません。

入館するとまずはそれぞれのプロフィール紹介パネル、北斎は1760年、広重は1797年の生まれも、62歳で没した広重に対して北斎は90歳まで長命しているので、ほぼ同時代人と言って間違いなさそうです。生涯に93回も引っ越ししたと伝わる北斎ですが、本所辺りばかりでバリバリの下町っ子、定火消同心の長男だった広重は現在の丸の内や京橋が住まいのお武家。北斎の好物は大福餅と甘党、広重は赤貝の三杯酢とあり辛党だったようです。

おそらく世界中で最もよく知られた浮世絵、富嶽三十六景 神奈川沖浪裏。7月から発行される新千円札にも描かれるそうな。江戸時代に8千枚ほど刷られたものの現存するのは200点ほど、状態の良いものは限られるらしく、昨年クリスティーズで落札された1点は3億6千万円だったそうです(参考)。

こちらも超有名な富嶽三十六景 尾州不二見原、桶職人が作る桶の中に富士山。名古屋の大須からほど近い場所に富士見町が残っているもののビルに囲まれ富士山は見えません。

2024/9/10追記: 富嶽三十六景尾州不二見原の桶の中の富士山は富士山じゃなくて南アルプスの聖岳だそうです。

富嶽三十六景 東海道金谷ノ不二、大井川の渡しです。肩車してもらって渡る大きな風呂敷包を担いだ旅人たち、駕籠を台に載せて大勢の人足が担いでいるのは参勤交代のお殿様でしょうね。川の流れが激しくとても富士山をのんびり眺めている余裕はなさそうです。

富嶽三十六景だけでなく絵草紙なども多数展示、日本のコミック文化の原点、北斎漫画です。

歌川広重といえば東海道五十三次、日本橋朝之景。奴さんたちを先頭に大名行列、橋の袂には棒手振りたちが、土下座するでもなく屯しています。頻繁に大名行列に出会う江戸では土下座は必要なく、下にぃ下に、は将軍家や御三家、御三卿だけだったそうです。

箱根湖水之図、急坂の道に延々と続く大名行列。富士山のような山がいくつも見えますが、左端で白く浮かんでいるのが富士山です。

永谷園のお茶づけ海苔に東海道五十三次カードが入っていたことを思い出しました。今でいうカルビーのプロ野球カードやJリーグカードのようなものです。調べてみると1965年から1997年まで続けられていたようです。お茶漬けにはお茶づけ海苔より塩昆布で塩けをつけるのが好きだったこともあり、55枚コンプリートどころか数枚しか集まらなかった覚えがあります。

昔は3杯目のおかわりはお茶漬けと決まってました。たぶん洗い物が楽になるというメリットもあったはず。今や3杯目のおかわりやお茶漬けも絶滅危惧種です。

歌川広重 東都名所両国回向院境内全図、よしず張りで覆われているのが相撲場、真ん中の屋根の下に土俵があるはずです。お相撲さんらしき人は見当たらず、場所の開催中ではなさそうです。右下には触れ太鼓のやぐら、チケットブースらしき小屋に人が見えますが、おそらく予約受付中かと。

歌川広重 江戸近郊八景之内羽根田落雁、芦原の広がる干潟の向こうは羽根田弁財天(玉川弁財天)で多摩川河口左岸に現存しますが、かつては少し沖の要島という島にあったようです。現在の穴守稲荷神社旧一の大鳥居辺りと思われます。三番瀬を彷彿とさせる雰囲気もあり、もし自分が江戸市民だったらしょっちゅうバードウォッチングに通っていたと思われる景色です。

滑走路が4本も作られてしまっているものの、上空を行く雁が飛行機に変っただけで、今も羽田でこの景色がイメージできそうに思います。1960年頃まで東京湾にマガンがやってきていたそうです。

大阪メトロ400系

まだ2時前、でも天気予報通り午前中の青空は厚い雲に覆われてしまいました。お城へ向かうかあるいは大阪港へ向かうか、とりあえず肥後橋から四つ橋線に乗って、本町で中央線のホームに出るとコスモスクエア行の400系がいたので迷わず乗り込みました。阿波座から九条へ向かって外に出たところです。

コスモスクエアに到着。先頭車を撮っているとおばあちゃんの手を引いた男の子、かっこええ電車やから見に来たとのこと。

大阪メトロ400系の車内です。コスモスクエア寄り3両目に地下鉄車両として異例のクロスシートも両側1列で窓の高さがえらく狭く、1970年の大阪万博で登場した30系を初めて見た時に囚人護送車みたいと思ったことを思い出しました。

コスモスクエアのバスのりばには長蛇の列、舞洲のネモフィラを見に行く人たちです。

南港野鳥園へ行こうかとも思ったけど、この天気ではその気がなくなってシーサイドコスモを少し歩くことにします。エレベーターはずっと修理されないままで階段を下りてひと休み。眼の前に大きな浚渫船兼起重機船、讃岐号。

井本商運の内航コンテナ船、しげのぶ2,479トンが入港してきました。

ボラのジャンプ。

1本見送って400系で帰ります。409-09とあるので、少なくとも既に第9編成まで増備されているようです。ホームには撮り鐵の少年たちも。

両側がお一人様用直角クロスシートに高さの無い窓、ロングシート5人分で3席だけ、それも3席中最前列には窓がなく、混み合うと自分の肩のすぐ横に人が立ってしまい、見た目の斬新さとは裏腹にあまり快適とは言い難いです。来年の万博への機運を盛り上げるための新型車両ですが、万博への期待を抱かせるものはありませんでした。