花の御所

司馬遼太郎の箱根の坂、上中下の3巻でKindleだと上巻が99円だったので即ダウンロード。858円の中巻、913円の下巻はまだダウンロードしておらず、司馬先生の作品をこんな価格設定にしなくてもいいのにとは思うものの、99円はやはりありがたいです。最初の戦国大名と言われ領民に愛されたと伝わる北条早雲の物語、箱根の坂というタイトルではあるものの、上巻の舞台は応仁の乱ただ中の京都です。550年ほど前の京都の姿が克明に描かれていて、あっという間に読み終えてしまいました。

ということで今週もおけいはん、今日は8000系の階下席です。

物語は現在の宇治田原町から始まります。田原郷の若厄介(農家の次男)の山中小次郎が宰領役の荒木兵庫に伴われ、田原で匿われていた足利将軍家の政所執事を世襲する伊勢氏のお姫様、千萱を京の伊勢家に送り届けることになります。
 
小次郎はわがままな千萱を背負って、急峻な山を越え、当時はまだ野盗のような存在だった足軽たちがたむろする伏見や稲荷山を避け、東山の杣道を進み、鳥辺山墓地(清水山の麓)で願阿弥(応仁の乱で消失した清水寺の再建に奔走した時宗の僧)に出会います。願阿弥に案内してもらって、朽ちた舟に踏み板を渡しただけの鴨川を渡り、鴨川右岸の土手を北へ、一条通を西へ、現在の御苑あたりで北へ、相国寺でその壮大さに驚き、花の御所を見学しています。花の御所西隣の伊勢氏の屋敷に千萱姫を無事送り届け、屋敷の書院ではなく、裏門そばの鞍小屋で馬の鞍づくりの材料に埋もれた職人姿の伊勢新九郎が登場。ここまで小次郎が北条早雲なのかと読み進んでいたのが、どうやら新九郎が早雲らしいと分かってきました。
 
それと、室町幕府そのものである花の御所は、大覚寺散歩で歩いたばかりの同志社寒梅館の場所と思い至りました。ひと月前には全く気づきませんでした。箱根の坂の上巻を読了、京から離れてしまうと思われる中巻、下巻へ読み進む前に、どうしても再訪して確認してみたくなった次第。

出町柳から相国寺

高野川を渡ります。写真左手、雪の積もった右岸土手の細い道を歩いたのは10日前のこと。

河合橋の上からイソシギ、大股で川面を闊歩しています。10日前凍った川面にいた同じ子かも。

日射しが心地よく小春日和の賀茂川です。高野川分岐から上流も河川法上は鴨川ですが、一般に賀茂川と表記されることが多いようなのでそれに習うことにします。

土手には10日前製作中だったかまくらの残骸と思われる小さな雪のかたまり。

カワアイサは見当たらなかったもののカイツブリ。

土手の向こうでジョウビタキがしばらくじっとしてくれたのに、どうしても手前の枝にフォーカスしてしまいピンボケ。ヒーホイヒーと聞こえてきて土手の木立にイカル数羽がちらっと見えたけど撮れず。

「今日も元気だ!」出町枡形商店街、何度も歩いているのに気づかなかった地面のタイル絵は一枚ずつ違っているようです。

雪が僅かに残る町家の通りを抜け上立売通を西へ、相国寺が見えてきました。写真の左端あたり、現在の同志社構内に高さ109mの七重塔が建っていたものの、応仁の乱の最中に落雷で焼失したそうです。

鐘楼を過ぎると左手に総門、その中に見える門は御苑の今出川御門。

放生池あたりからまっすぐ伸びる長い直線路、相国寺の広大さに室町時代を感じさせます。まともな行政組織をもたなかった室町幕府で、今の外務省や文部科学省に該当する政府機関の役割を担っていた相国寺です。

花の御所の学食

相国寺を抜け烏丸通を渡ると同志社寒梅館、その北側の隅にHamac de Paradis(楽園のハンモックという意味のラテン語)という学食、一般人も利用できると分かり今日は最初からここでランチと決めてきました。

「自動ドアが死亡中」とのことで重いドアを引いて入ると、ずいぶん広い店内でテーブルは余裕も、食券を買って厨房の前で並んで料理を受け取るシステムと理解できるまで若干戸惑いました。5種類くらいしかないメニューから唐揚げと蒸し鶏のBセットをゲット、40何年かぶりの学食は、予想以上に美味でした。

同志社の学生さん7割、その他3割という感じ、後ろのテーブルにはスカーフを被った留学生やご近所っぽい高齢者グループ。照明のケースには、同志社建学の精神らしき文章(たぶんラテン語)が綴られています。

満腹して花の御所の痕跡を探すべくお店を出た途端、引率の先生に付き添われた学生さんたちが10人ほどが通り過ぎ、その先にはガラスで覆われた遺構らしき施設が。

ガラスの中には石が敷き詰められているばかり。煉瓦塀に説明が掲げられているものの劣化して読みにくいのでレタッチしてみました。それでも意味が読み取りづらいのですが、2002年寒梅館建設時の発掘調査で発見された室町時代後半の石敷きだそうです。

片隅に小さなお庭のような遺構、殆ど読めなくなっていた説明を強めにレタッチすると、石組水路跡と紹介されています。石敷きの下から見つかったとあり、ガラスの中の石敷きと高さが違うので掘り出して移築したもの、あるいはレプリカと思われます。

箱根の坂の上巻、一行が花の御所へ向かう途、豪壮なものでございますか、と尋ねる小次郎に、いや瀟洒なものだ、と願阿弥は答えています。豪華さではなく花がたくさん植えられていたことでそう呼ばれる花の御所の敷地は相国寺より小さく、3代将軍足利義満が建てたものを8代将軍足利義政が大改築しています。日明貿易で巨万の富を得て金閣を建てた義満の好みとは異なり、巨費を投じてもそれを燻すように目立たせないといった、後に東山文化を築いた義政の独自の美学による大改築だったようです。
 
しかし花の御所の大改築は、2ヶ月で8万2千人もの餓死者を出した寛正の飢饉のさなかに米6千万石もの造営費が費やされており、例えていえば、大震災直後にオリンピックを強行していたようなもので、文化人としてはともかく政治家としては完全に失格だった義政です。

寒梅館のHamac de Paradis、一番右端の窓の内側がさっきまで自分が唐揚げを食べていた場所です。そのすぐとなりが花の御所遺構です。

寒梅館の奥は同志社室町キャンパス、アーチを描く瀟洒なレンガづくりのビルですが、たくさん並べられた立看ばかりは昭和のまんまの大学っぽいです。

烏丸通の向こうは今出川キャンパス。

寒梅館の南に隣接する大聖寺の境内を覗いてみると「花乃御所」と刻まれた石碑がありました。

大聖寺から見上げた寒梅館、寒梅とはいうものの周辺に梅の木は一本も見当たりません。

あら懐かしや講義ノート屋さんです。この時期、後期試験はすでに終わって入試が始まっているはずです。

室町上立売の交差点、室町幕府、室町時代とはいうものの、上立売幕府、上立売時代とは言わないのは単に語感の良さ故かと。

雪がまだ少し残っている室町通、このあたりに山中小次郎たちが訪ねていった伊勢氏の邸宅があったはずです。学生さん向けの賃貸住宅広告を見るとかなり設備が整っていても意外と格安、大阪よりワンルーム物件が多く出回っているようです。

箱根の坂で千萱が伊勢氏の邸宅に上がる前に着替えをした場所として出てくる羅漢寺を検索してみると、もう少し西の方に妙蓮寺十六羅漢の庭というのが出てきたので向かってみます。

新町通りに面した同志社新町キャンパスではやはり入試が始まっている様子です。ここ新町キャンパスはかつて五摂家の近衛家があった場所とのこと。

十六羅漢の庭をチェックし直すと、まだかなり先、堀川通より向こうです。着替えのためにそこまで行くとは思えず、羅漢寺と妙蓮寺は別と判断し引き返します。仁丹の住居表示看板みっけ、上京區が右書きで賣も旧字体。

室町今出川の散髪屋さんの角にさほど古くはなさそうな「足利将軍室町第阯」の石碑。花の御所が上立売通、烏丸通、今出川通、室町通に囲まれた1.3万坪程度だったのは間違いなさそうです。現在の相国寺寺域の1/3ほどです。たばこの据える喫茶店を見つけひと休み、えらく昭和なまんまのお店で価格だけが令和でした。

Wikipediaで応仁の乱をチェックしてもその原因や経過はややこしすぎてちっとも頭に入ってきませんが、足利義政は政治が嫌で、早々に隠居しようとして義政が将軍職をだれに継がせるかが応仁の乱の大きな要因です。領地からの年貢ではなく日明貿易でなりたっていた室町幕府は、もともと国事に責任感をもっておらず、行政組織の体をなしていなかったようです。そこに旧来の守護や新興の武家、それに足軽集団があっちについたりこっちについたり敵味方が入り乱れ、義政自身も東軍についたり西軍についたり右往左往、庶民ばかりがとんでもないとばっちりを受けていた大義名分の無い内乱だったようです。結局花の御所も焼失、京都で「先の大戦」というと太平洋戦争ではなく応仁の乱のことをいうと、ジョークのように言われますが、都が焼け野原になった応仁の乱に対して、京都は米軍の空襲を受けておらず、あながちジョークとは言いきれません。

御苑で梅見しようと思っていたのですが、足利義政の足跡を追って銀閣へ行ってみることにしました。上京区総合庁舎前から203系統のバスで今出川通をまっすぐ東へ。

銀閣寺

独特の背の高い生け垣の道を抜けるとおなじみの巨大プリン、向月台。

屋根の北側には雪が残って、鳳凰のシルエットが際立ってます。手前にはどうやって作庭するのか分からない銀沙灘(ぎんしゃだん、で一発変換できました)。

漸く人が切れたところを見計らって銀閣。方丈前から銀沙灘越しに銀閣。

赤い実を着けた見事な枝ぶりは、写真を撮ってるご夫婦から聞こえてくる会話でクロガネモチと分かりました。

岩の苔の上に伸びた長いシダ、先端の方に斑点がありノキシノブと分かりました。

角度を変えた鳳凰は避雷針をタクトにしたオーケストラの指揮者のよう。苔やシダ、水の流れや樹々などの様々な音色をひとつのハーモニーに仕上げていました。あるいは世界中からやってきた観光客や自分もそのハーモニーのひとつかも、ウィーンフィルニューイヤーコンサートのラデツキー行進曲のように。

たわわに実ったマンリョウが鮮やか。池につながる岩に囲まれた水路は、さっき花の御所遺構で見た小さな庭に似ています。これも足利義政デザインといえそうです。

小さな滝が流れ落ちる洗月泉、苔むした細長い一枚岩ををちょろちょろと流れていて見事。

手前の池にはコインがいっぱい。真ん中の台にコインがのるといいことがあるとコインを投げているカップルが話してました。

少し遠景の銀閣。クランクした小さな掘割に点々とマンリョウ、そこにカーブした細い木、いとをかし。

庭園だけじゃなくて裏山の中腹まで登れるようになっていて、崖がむき出しになって岩が並ぶ漱蘚亭(そうせんてい)跡。ここに別の庭園があったのものの江戸時代の山崩れで埋没してしまったそうな。

その手前に湧水池、義政が愛用したお茶の井跡で周囲の石組みは当時の遺構のままだそうです。

回遊ルートの最高地点展望所からの眺め、正面の横に長い丘は吉田山

下りの坂道も色っぽい。花の御所の様子を今に伝える銀閣寺、庭師さんたちの手入れもカンペキです。

南側から鳳凰をアップ、ブロンズ製と分かります。

室町時代の銀閣彩色が再現展示されていました。銀箔が貼られていたのではないことは知っていたものの、なんと黒漆塗りだったそうです。

青空に鳳凰のシルエット。裏山も回ることができて参拝料金500円は何十年も変わっていないかと。極め付きの文化人で芸術家だった足利義政、政治的には全く無能だったのですが、この人に政治を委ねたことが残酷だったのかも知れません。

人の多い表参道を避けて裏道から帰ります。ここでも仁丹の住居表示看板みっけたけど、左書きで新字体です。銀閣寺町という住所は古くないと思われるものの金閣寺町という住所もあると分かりました。

形のなくなった雪だるまがまだバケツを被ったままです。

哲学の道の琵琶湖疏水には何もいなかったけど、このあたりではあまり風情のない白川の川辺にイソヒヨドリ。

市バスの錦林車庫です。かつて市電の車庫もここにありました。裏山の森に囲まれた景色は広電の江波車庫に少し似ているような気がします。先にやってきた203系統は超満員で見送ると、次の32系統はガラガラも、岡崎公園あたりでこちらも超満員に。

四条河原町の人混みを何とか通り抜けてお気に入りの立呑、うまい、安い、座れる、タバコが吸える、混んでない、客層がいい、のウチ座れる以外を全て満たしてくれるお店、切子のグラスで冷酒と赤なまこです。

4人ボックス席の通路側でも河原町から阪急で座って帰って来ました。箱根の坂・上巻の終章で応仁の乱も一応の決着が付き、東軍側で足軽の頭領だった愛すべき骨川道元も、東軍総帥の細川勝元、西軍の山名宗全も死んでしまい、足利義視の申次衆だった伊勢新九郎は牢人し北条早雲と名を変え諸国をさすらい駿府へ。戦乱の京から脱出した多くの人々によって京の文化が全国に拡散したようです。室町時代に形作られた今に伝わる日本文化は茶の湯や庭園、書院造だけでなく、例えば正座してお辞儀するといった行儀作法や、出汁で味わう和食なども室町時代に形作られたものと箱根の坂・上巻で学びました。その余韻を味わいつつ花の御所や銀閣寺をめぐることができたのはちょっと得難い経験だったかも。