京都のキワ

京都で混んでなさそうな紅葉スポットということで修学院の赤山禅院へ。

叡電修学院駅に到着。

叡電中吊り広告に載っていた修学院駅近くのラーメン屋さんはかなりの行列で諦めました。

音羽川

左手に日本福音ルーテル修学院協会、ヨハネ伝の「初めに言があった」とマルチン・ルターの肖像、右手に広がる比叡山。青空にルターと最澄がディベートしている様子が見えるようです。

遡っている川は比叡山南麓を源流とする音羽川、一級河川だそうです。ほぼ完全に人工的な流れも、水はきれいです。

舗装のすき間から生えた元気なコスモス。せっかくの比叡の山容に電線がウザいです。

キバナコスモスもパワフルです。北に向かうと修学院離宮、赤山禅院と続く後安堂(ごあんどう)橋で川の景色が一変、電線がなくなり川原は草が生い茂っています。

ドピーカンの青空の下、左奥が比叡山848m、真ん中の紅葉が美しいこんもりした山は修学院離宮の裏山にあたる修学院山340m、その右側になだらかに伸びているのはてんこ山442.2mです。

「雲母坂⇠入口」との道標、前から行ってみたかった「きらら坂」が近いようです。橋を渡って北へ向かう前に、音羽川左岸を東へ遡ってみます。

音羽川右岸に修学院離宮広がっていて、修学院山の麓の建物は離宮の隣雲亭。帰ってから調べてみると事前の予約無しでも修学院離宮を見学できる当日枠があると分かりました。但し事前に配布される整理券がゲットできるかどうかは運次第のようです。予約しても当日が雨だとがっかり、当日枠だとお天気を確認して行けるものの、今の時期はたぶん平日でも難しいでしょうね。

修学院離宮の中に広大な田んぼには稲架(はさ)がまだ残っています。音羽川左岸を遡るにつれ紅葉したモミジが増えてきました。

音羽川砂防ダム

「曼殊院へ300m→」の道標と並んで砂防学習ゾーンの案内板。

4つある砂防ダムの一番川下のダムの手前に掛かるきらら橋からの眺め、頂上付近上空をトンビが舞っている正面の山はてんこ山。

きらら橋を渡ると雲母坂入口、ケーブル比叡駅を経て比叡山頂へ続いています。叡電の展望列車デオ900形きららの愛称はこの坂に由来しています。

坂の入口右手に「親鸞聖人御旧跡きらら坂」の碑。今、吉川英治「親鸞」を読んでいるところで、後の親鸞、範宴少僧都が比叡山からこの雲母坂を通って京都市中へ深夜に往復し六角堂に参籠すること99回、ついに迷いが吹っ切れて下山を決断するところまで読み進んだところです。古来京都市中と比叡山を結ぶ最短路で、比叡山の山法師が御所へ強訴した時のルートでもあったようです。今も道が険しく利用者は少ないと聞いていたものの、若い女性のハイカーさんたちが上っていきます。

雲母坂をちょっと上ったところから砂防ダム、緩やかな土手をヤマトシジミがいっぱい舞ってました。

初めて来たのになんか見覚えがある景色、ちょこっと京都に住んでみたエピソード1のロケ地です(0:55くらいから)。こんな場所が京都にあるのかと思っていた場所が目の前にありました。ビデオを改めて見てみると、おじさん(大叔父さん)から鯖寿司買うてきてと頼まれ、ついでに京都のキワを回ってみるように勧められた主人公の佳奈さん、鯖寿司をゲットしてキワへ向かいます。音羽川左岸の坂を電チャリじゃない自転車を漕ぐのを諦め、人生には3つの坂がある、上り坂と下り坂とまさか、とつぶやきながら自転車を手で押して上ってきた京都のキワがここです。

漢字だと「際」、フチとかヘリ - 縁 - のすれすれの内側といった意味合いです。京都盆地は南側が開け、西、北、東が山に囲まれています。奥行きの深い西や北の山並みと異なり、東の山並みは屹立していてヘリ(比叡山系)のすれすれの内側感が強く感じられます。東山清水辺りは山を超えるとまだ山科があるのですが、ここから山の向こうはいきなり琵琶湖、まさに「キワ」です。

はんなりの京都弁だけじゃなくて、ひとつひとつの言葉にもこだわりを込める京都、「キワ」は「キ」にアクセントを置いてください。とても綺麗な水で綺麗すぎて生物は逆に少なそうですが、テングチョウが下りてきました。

佳奈さんが、おじさんに頼まれて買ってきたばかりの好きじゃなかったはずの鯖寿司を広げ、全部平らげてしまうのが写真のモミジの下の石積み辺りです。ちなみになんとも美味しそうな鯖寿司を提供していた出町柳の天ぷらや「天忠」さんは番組放映後、惜しくも廃業されてしまったようです。

対岸からさらに道が伸びていて、砂防ダムの上に出られそうです。水深の浅そうなところを選んで対岸に渡ったところのモミジを内側から。

急な階段を上るとダムの上に出てきました。川上にはさらに大きなダム、案内板にあった一番上流の砂防ダムです。

上ってきた急な階段を下りるより楽そうなのできらら坂への道標に沿って下ります。iOSやMacにもデフォルトで登録されている雲母坂=きらら坂、親鸞の時代から雲母をきららと読んでいたのか、気になります。

下り坂は雲母坂に合流、雲母坂入口に戻り、てんこ山を振り返ります。真っ赤なモミジもちらほら。あと2週間くらいしたら絶景かと。京都の超穴場紅葉スポットといえそうです。

曼殊院門跡

「曼殊院へ300m→」の道標まで戻ってきました。木の間隠れにお堂の宝珠、修学院中離宮の裏手辺りなのですが、お堂の名前も不明です。

目的地の赤山禅院とは全く逆方向ですが訪ねてみることにします。曼殊院への坂道を上ると小さな果樹園に赤い実がいっぱい。

赤い実を日に透かしてみました。グミかなと思ったらサンシュユだそうです。

その先に大きな果樹園が広がっていてサンシュユの実がいーっぱい。曼殊院に隣接して武田薬品の薬用植物園があり、その一部のようです。

曼殊院門跡に到着、「まんしゅいん」と濁らないです。淡い紅葉が美しい。

庫裏で靴を脱いで上がると、門跡寺院であることをアピールするように皇室の方々が訪ねられた時の写真が多数、さらには歴代ローマ法王、デビッド・ベッカムの写真も。写真撮影は書院の緋毛氈からだけとかなり厳しく規制されています。宗教施設での撮影禁止は理解できるものの、メモ代わりに写真に撮っておいて、後で思い出すことや新しい発見も少なくないので、写真をアップしないとしてもブログにまとめるにはとても不便です。同じ門跡寺院の青蓮院では新しい襖絵とかは撮影に問題がなかったのでいささか残念。

大書院前に広がる小堀遠州好みとされる枯山水のお庭、丸い亀島と長細い鶴島です。鶴島の松の根元にキリシタン灯籠があるそうですが、気づきませんでした。

書院の回廊を回っていると真新しい白木の建物に出てきました。その手前に広い石庭、「盲亀浮木之庭」と案内されています。ホームページの境内案内図にも、もらったパンフレットならぬ1枚ペラの案内書きにも出てこず、さんざんググってもこのお庭のことも白木の建物もでてきません。Google Mapに投稿された写真にも全く出てこず、航空写真を見るとこの辺りは工事中です。何か幻を見てきたのかとまで考え込んでしまい、検索の日付を絞り込んで漸く、ホームページの新着情報に宸殿が150年ぶりに復興再建しましたという記事を見つけることができました。どうやら今月になって公開されたばかりのようです。150年ぶりに再建されたばかりの書院造の回廊から作庭されたばかりの枯山水の庭、皆既月食より貴重な体験だったかも知れません。

大海に住む目の見えない亀が、百年に一度息継ぎのために頭を出したところが「盲亀浮木之庭」の奥に横たわる細長い岩です。門の外にある弁天池の水は濁っているものの紅葉が美しい。

曼殊院の表参道の紅葉です。表参道の石段の上は閉ざされている勅使門。街道をゆく16 叡山の諸道で司馬先生は赤山禅院、曼殊院と訪ね、撮影禁止にがっかりしてさっと見て回っただけの自分と異なり、「陽が落ちるまで、柱の一つずつから屋根のこけらの苔にいたるまでゆっくり見せてもらっ」ています。

司馬先生の文章を自分なりに要約すると「隋や唐を範にした規律や威厳をあらわすような奈良時代の大寺とは思想的も全く異なり、長い時間を経て寺院が純粋に日本化され、学問、求道の場でなくなり、江戸時代初期の美意識や教養、人生観を凝縮した建物、庭園でありつつ、東照宮に代表されるような豪華絢爛な理想や嗜好と対峙、桃山時代の美意識の成熟と終焉を示す」のが桂離宮と曼殊院だそうです。

曼殊院のホームページのサブタイトルは「小さな桂離宮」となっているものの、ちょっと謙虚すぎるかも知れません。

「わび」質素なもの、貧相なもの、不足の中に心の充足を見出そうとする意識、「さび」静かでさびしさの中に奥深いもの、豊かさを感じること

今もホームページ・ビルダーで更新されている、いささか読みにくいホームページの歴史・概要のページに見つけた一節です。大事なものをいっぱい見逃してきた気がしてきました。いずれ改めて訪ねたいと思います。

坂をのぼりきると、土塁が気づかれている。塁上の楓の葉が、紅葉を待ちつつ青さに耐えている。その土塁を割って十三、四段の石段があり、それを登りきったところに、軽快な正門がある。…中略…、正門も通用門も威圧感からほど遠く、いずれも簡素なのがいい。

司馬先生の描写したこの景色は自分も見てきました。

赤山禅院

表参道を下りていくと赤山禅院へ向かうにはかなり遠回りと分かり、音羽川へ戻り20分ほど歩きました。

緩やかにカーブした参道に都七福神の幟、緑の幟は福禄寿の赤山禅院、紫の幟は寿老人の行願寺、この前マーキングのないアサギマダラに会えた京都のど真ん中のお寺です。赤山禅院は梅谷川探鳥の起点で、6年前ニホンリスに会えた時に訪ねています。

拝殿の奥に真っ赤なモミジに覆われた本殿があります。比叡山延暦寺の塔頭ですが、お寺なのか神社なのか釈然としないお寺です。明治の廃仏毀釈以前の神仏混淆の様子を色濃く残しているようです。新・平家物語や私本太平記にも登場していた赤山禅院、街道をゆくでは赤山禅院に2章が割かれています。赤山を「あかやま」ではなく「せきざん」と音読みするように、最澄の弟子の円仁が遣唐使として唐に渡り滞在した山東半島の先端にある赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したのが赤山禅院の始まりで、仏教寺院なのに本尊は道教の泰山府君です。

拝殿の屋根に置かれた鬼門除けの猿、かつて夜な夜な抜け出して悪さをしたために金網に入れられているそうです。

不動堂の脇に明治時代のモノと思われるポンプ車、前面には「滋賀縣長濱町齊藤四海堂喞筒製作所」とあります。現在も東近江市に本社を構える齊藤ポンプ工業製と分かりました。側面には「三谷村保坂消防組」、滋賀県高島市の一部になっている地区に活躍していたポンプ車だったようです。

街道をゆくで司馬先生は、お坊さんが見当たらず境内の売店の娘さんがに拝殿の屋根の上の猿の意味を訊ねたところ、娘さんの父親で消防局に30年勤続する赤山禅院の用をつとめ境内に住む鳥居本さんが登場、司馬先生は屋根の上の猿と孫悟空の関連を期待していたようですが、「危難ヲ去ル」という意味らしいという回答。自分的には猿よりも不動堂脇のポンプ車と鳥居本さんの関係が気になりました。

赤山禅院のモミジです。ちなみに拝観料とかはなく、無料です。

修学院

修学院駅へ戻りさっき入れなかったラーメン屋を覗くともうお昼の営業を終了していました。車内吊りにあるラーメン屋さんが集中する一乗寺へ向かいます。ちなみに修学院も一乗寺も地名として残るだけで、修学院や一乗寺というお寺は遠く平安時代に既に廃寺されています。地名だけで千年以上残る京都です。

ラーメンの前に叡電の車庫を見学。いつも車庫の隅に止まっているデト1000形1001、枕木やバラスト、レール運搬に現役ですが、ATSを装備していないので、営業時間中は走れない夜行性の電車です。1974年製、嵐電にも同型のモト1000形1001があります。元はポール集電だったのがZ型パンタに取り替えられているもののパンタの上げ下げはロープで手動のようです。

デオ732ひえいが到着。

金色の楕円を揺らせて去って行きました。デト1000をもう1カット。

ようやくラーメンにありつけました。天天有の中華そば、煮玉子入。

近くのタバコの吸える喫茶店で食後のコーヒー。

喫茶店でのんびりしすぎてかなり薄暗くなってしまいました。高野川左岸遊歩道出発点の高野川北和泉橋です。

高野川川面にはセグロセキレイ。

オレンジ色のひこうき雲。一日を惜しむようにまだ高野川飛び石で遊んでいる人たちや川辺でスマホ読書やゲームの人たちも少なくないです。

あっちへ行ったりこっちへ来たりの鳥の群れ、シルエットを拡大するとどうやらコサギたちです。出町柳ではもう真っ暗、まだ5時半です。