トリオ・ザ・ミユビシギ

ミユビシギに会いたくて伊勢湾へ。行ったことのある五主(松阪)、安濃川河口(津)、白塚(津)、千里(津)、楠(鈴鹿川派川河口 - 四日市)、鈴鹿川河口(四日市)以外のスポットを探してみたところ、特急も停車する鈴鹿市の白子が海岸まで近く、それに駅前の観光案内所にレンタサイクルもあると分かりました。航空写真を見る限り、五主のような極端な遠浅ではなく、干潮時の鳥見でよさそうです。

8連のひのとり、プレミアムシートは満席でレギュラーシートも八木でほぼ満席。雲出川の沈下橋付近を通過、天気予報通り、どん曇りです。

津で乗り換え、久々のビスタカー2階席で、どこに自分の席があるのか戸惑いました。

津から白子まで10分間のビスタカーの旅、伊勢平野は早々と黄金色も、やはりどん曇り。

白子駅に到着、「しらこ」じゃなくて「しろこ」です。鈴鹿市の実質的中心地で、F1のパネルが迎えてくれました。駅前の歓迎看板もチェッカーフラッグ、当然頭の中はこの曲

駅前の鈴鹿市観光案内所でレンタサイクルを借りて出発。F1とは対極的な電動じゃない変速機無しのママチャリです。橋の坂道は下りて押して5分ほどで白子漁港に到着。

漁港の先の公園に自転車を置いて浜に出ます。鼓ヶ浦という海水浴場で今年も営業中止だそうですが、遊泳禁止ということではなさそうで海水浴のファミリーがいるもののわずか。あとは釣り人とビーチバレーの部活だけ。

いきなりミッションコンプ

シギチ3羽が目の前を通り過ぎ、ほど近い水辺に下り立ちました。ミユビシギです。

砂浜を突っつきながらちょこまかちょこまか、200mほど行くとまたちょこまかちょこまか戻ってきます。体を傾けながら急旋回してます。

浜に仰向きで打ち上げられていた5cmほどのカニの死体をひっくり返してみるとガザミでした。

ミユビシギたちはiPhoneでも撮れる近さです。トリオ・ザ・ミユビシギはつかず離れずも、1羽だけ単独行動をとることが多く、どういう関係かは不明です。

晴れ間が少し広がってきてピントが合うようになってきました。

釣り人がごく近くでもぜんぜんへーきです。

もう自分から2mくらいの近さ、間違いなくこっちの存在は気づいているはずですが、こっちを向いても目を合わせることなく一心に砂の地面をつっついています。

ミユビシギだけで連写も含めて300枚以上撮っていたもののピンぼけを大量生産。その中からある程度まとものなのをピックアップするのはなかなか大変でした。

ここでミユビシギに会えなかったら、千里や白塚へ向かうつもりだったので、このママチャリで片道10kmはどうしようかと思っていたのですが、いきなりのミッションコンプリート。次の目的地へ向かいます。

大黒屋光太夫モニュメント

その目的地は自転車を止めておいた公園にありました。

天明二年、白子浦の隣村、若松村生まれの船頭、大黒屋光太夫率いる「神昌丸」が紀州藩米や伊勢商人から託された木綿などを満載して江戸へ向けここ白子浦を出港、風待するまもなく僚船を追って鳥羽を出たものの遠州灘の大嵐で遭難、7ヶ月の漂流の後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、シベリアを横断してサンクトペテルブルクでエカチェリーナ2世に謁見し、約10年を経て帰国した史実を証した記念碑です。

そそり立つモニュメントは鈴鹿市の彫刻家三村力氏の「刻の軌跡」、その手前が「おろしゃ国酔夢譚」で大黒屋光太夫を描いた井上靖の詩碑です。自分の写り込みが鬱陶しいですが拡大すると詩文が読め、サンクトペテルブルクではなくレニングラードになってます。

街道をゆく「モンゴル紀行」を読んでいたところ、司馬先生がイルクーツクに着いた時、大黒屋光太夫のことを思い出し書き綴られていました。そんな矢先に白子周辺のマップを見ていてこのモニュメントを見つけ行ってみたくなった次第です。いわゆる漂流モノの小説が好きでよく読むのですが、物語自体よく似ているのでイマイチよく思い出せないものの、ジョン万次郎、アメリカ彦蔵、吉村昭の「漂流」、「無人島に生きる十六人」辺りは読んでいるのは間違いないかと。映画も色々見ているはずで、船の難破ではないもののトム・ハンクスのキャスト・アウェイは記憶に新しいです。

モンゴル紀行の前に読んでいたのが、司馬遼太郎の「ロシアについて」、ウクライナとロシアについてもう少し勉強してみようと手にとりました。ここでも大黒屋光太夫について触れられていて「菜の花の沖」もてっきり大黒屋光太夫の物語だと思いこんでいたのですが、「菜の花の沖」は高田屋嘉兵衛の物語、難破じゃなくて拿捕されてロシアに行ったところが大きく違ってます。でも、大黒屋光太夫がカムチャッカにたどり着いたのが1787年、高田屋嘉兵衛がカムチャッカに連行されたのが1812年、歴史軸としてはわずかな時間差で混乱します。

「おろしゃ国酔夢譚」は既読のような気がするので、ここへやってくるにあたって吉村昭の「大黒屋光太夫」を読み始めました。光太夫たちはカムチャッカからオホーツクにたどりつきイルクーツクへ向かうところです。

写真の河口手前が白子漁港で、漁港から白子の海岸の裏側に沿って伸びる運河のような川は堀切川。白子の海岸は元々砂州だったようです。

吉村昭の「大黒屋光太夫」冒頭に当時の白子浦の様子が克明に描かれていて、今自分が立っている辺りから沖に停泊している神昌丸へ、艀で何度も往復して米俵を積み込む場面を思い浮かべることができます。堀切川に沿って大きな蔵が立ち並んでいたはずです。

白子漁港から北へ向かいます。ワタシを撮ってといわんばかりにイソッチが目の前の杭に止まってくれました。

白子の北側は千代崎海岸。防波堤の道から水辺を丹念にチェックしながら自転車を漕いで進んだものの、秋の渡りのピークのはずなのに、シギチは全く見当たりませんでした。よくぞトリオ・ザ・ミユビシギに会えたものだと思います。吉村昭が、

文字通りの白砂青松で、これほど美しい海浜を他の地で眼にしたことはなく、この地を故郷としているのを誇りに思っている。

と光太夫に言わせている浜で、防波堤の内側には瀟洒な別荘風の住宅が並んでいます。

3つ目の目的地、光太夫の実家のあった辺りに立つ大黒屋光太夫記念館です。右側の自転車は今日の相棒。光太夫のキリル文字の揮毫や「神昌丸」の模型等が展示されているものの展示品は多くなく、映像で光太夫の足跡を紹介するとか、緒形拳が演じた「おろしゃ国酔夢譚」のトレーラーを流すとか、今少し工夫が欲しい感じです。さらに、ジョン万次郎らの漂流史や日露関係史まで踏み込むと大黒屋光太夫の功績がより明確になるかと。

近くで踏切が鳴り出しアーバンライナーが通過。千代崎-伊勢若松の車窓から「大黒屋光太夫のふるさと若松」と見える場所ですが、その建物は若松公民館で、記念館は若松小学校の陰に隠れまています。

白子駅に戻りレンタサイクルを返却、そのすぐ近くの寿司とうなぎのお店でプファー。来る前から今日は鰻と決めていました。鰻は憧れの三河一色産です。2年かけて漸く一色の鰻にありつけたことになります。五主周辺で鰻の養殖池を見たことがあるものの、三重県の鰻養殖は減っているそうです。一方、鈴鹿川上流で天然うなぎが捕れ、たまに仕入れることもできるそうな。

駅前の線路際にF1日本グランプリ歴代チャンピオンが紹介されているものの2013年まで。至近の優勝者もちゃんと紹介してほしいところです。10月には3年ぶりの開催だそうです。

優勝者の手形も並んでいるのですが、アイルトン・セナの手形はありません。それにナイジェル・マンセルは鈴鹿では全然勝てていなかったと分かりました。地上放送がなくなってからすっかりF1も縁遠くなったのですが、ここに立っていると古舘伊知郎節が聞こえてきそうです。さぁ、音速の貴公子がヘアピンを抜け出した!

北勢線

これで今日のミッションは全てコンプですが、近鉄週末フリーパスを買って来たので、まだ帰るのはもったいないです。久しぶりに北勢線のツリカケ音を聞きに行くことにします。

白子駅で行き交うアーバンライナーplusとアーバンライナーNext。

久しぶりの5200系です。

桑名に到着、駅がリニューアルされていました。橋上駅舎から近鉄、JR、さらに養老鉄道へそれぞれ専用の改札が設置されています。近鉄と養老鉄道には乗換改札があるものの、JRは全く別、リニューアルされても津駅と違って相変わらず近鉄、JRお互いがシカトし合ってました。

駅が新しくなってちょうど2年経っているのですが、駅前には歩道橋の残骸がそのまま。人通りはほとんどなく、何のための駅前再開発なんでしょう。

運行本数の多い東員までのきっぷを買って3連の先頭車に乗り込みます。先頭車だけが電動車なのでツリカケ音を楽しむなら断然先頭車です。ナローゲージのツリカケ電車なので、運転手さんは高齢者と思いきや、若いお嬢さんでビックリ。

発車してすぐ313系とすれ違い、中京圏にいることに気づかされます。

列車交換の度にやってこないかとチェックしていた200系は東員駅の側線に停まっていました。なぜかドアを開放したままです。

改札の外に出て200系を撮ります。広い田園地帯の向こうは鈴鹿山脈の竜ヶ岳1099m。

200系をじっくり観察します。正面2枚窓の制御車ク202、昭和感たっぷりのクリームとダークグリーンのツートンカラーがとても似合ってます。

ク202+サ101+サ201の3両は連接台車で連結されています。1959年製の元カルダン駆動車ですが、ナローゲージの小さな車体に無理やり駆動システムを組み込んでいたため完全分解しないかぎり整備ができなくて、早々に電装解除されたそうです。

電動車モ277と制御車当時の運転席跡を残すサ201の連結面は連結器ではなく連結棒で繋がれ固定編成になっています。モ277は阿下喜向き固定の一人用クロスシートが両側に並んでます。

MJK松山重車両工業製の保線用車両、屋根の載っているのはエグゾーストパイプ、シートが被せられた部分は簡易なクレーンのようです。

正面から200系、昭和の技術やデザインが凝縮された、少なくとも重要文化財クラスの電車だと思います。

東員始発の電車で戻ります。車内に入ってびっくり非冷房車です。それも3両とも。北勢線で編成全体が非冷房なのはこのK76編成と200系のK77編成だけです。

七和-星川の後方展望動画です。冷房化改造車両はクーラーを屋根ではなく車内の隅に設置、その分正面の展望が効かなくなっているのですが、このK76編成は暑さをガマンして正面の展望が楽しめます。

今週の縦長動画は冷房なしのK76編成車内と馬道-西桑名の後方展望動画 - 1分20秒辺りから - 右上です。

最後尾モ276は扇風機じゃなくてラインデリア。車内冷房が普及する以前の近鉄ならではの送風装置ですが、今や貴重な存在も風力は弱く扇風機と比べてぜんぜん涼しくないです。

西桑名に戻ってきました。

伊勢海老ライナーからサニーカー

特急券代を少しケチるべく津まで急行で戻ります。5200系の車内から塩浜車庫に水色の機関車デ32が見えました。こういうのはロングシートだとなかなか気づけません。

津からそのままひのとりで帰るのはつまらないので、その次の伊勢中川乗換の特急にして、津駅前をちょっとぶらぶら。駅前に立ち並ぶビル群が突然途切れて住宅地が広がっていました。

津から中川までの10分間、伊勢海老ライナーの旅を楽しみます。ひのとりのレギュラーシートより窓が広くて見晴らし良好です。

中川からは12400系サニーカー8連、12200系がいなくなって近鉄特急の最古参ですが、シートの中側の肘掛けももちろんコンセントもなく、それによく揺れます。

狭い喫煙室はおひとり様利用で、と張り紙がありました。

サニーカーの運転席です。

上本町に到着。今日乗った近鉄特急4種類の中では伊勢志摩ライナーが一番快適でした。