新・平家物語を歩く なにわ帖

自転車が7段変速の2速でもペダルが重くてしばらく乗っていなかったのですが、谷七の自転車屋さんで空気を入れてもらっただけで超快適に、早速お城へ。

上町筋と長堀通の交差する上本町1丁目交差点の北側は中央区上町、そこに妙な住所表示があります。中央区上町B、Bは番地扱いです。ローソン上町店の住所は中央区上町C-3、ローソン上町北店は中央区上町A-3、アルファベット番地は全国でここだけらしい。なぜそうなったかは日経のアーカイブに詳しいです。

超珍鳥がいたらしい

2cmほどの小さなガはシロオビノメイガ。市民の森には藤色のヤブランがびっしり。

雁木坂にカメラマンがいっぱい。近寄ってみると、どうやアカショウビンがいたらしい。上野動物園で見たことがあるだけで、信州でも行かない限り見られないと思っていたのに、ご近所までやってきていたとは。

誰もいない神社裏、塀の上にキビタキ♀。

修道館裏でもキビタキ♀

石垣の上にエナガ軍団がやってきました。逆光なのでグリッと露出をアップ。

コゲラも混じってました。

小さなさくらんぼのような実がいっぱいなっているのに、エナガもコゲラも木の実には見向きもしません。

久しぶり石垣に上ってゆっくり近づいてみると、色っぽい目つきの撮れました。

枝に乗っかってもぶら下がっても絵になるエナガです。

シジュウカラが驚いたような表情をしてました。何か獲物を逃してしまったようです。

渡辺津

バードウォッチングはここまでにして歴史探訪にシフトです。京都へでかけたいのは山々ですが、大阪で新・平家物語、平安時代に大阪も大坂もまだなかったので、なにわ帖です。

八軒家浜、平安時代は渡辺津だった場所です。新・平家物語は漸く一の谷の合戦が始まったところまで読み進みました。平家きってのイケメン、平敦盛(清盛の甥)が屋島の陣をこっそり抜け出して都の恋人に会いに行ったところ捕まってしまったものの、源家きってのイケメン、義経に助けられ危うく窮地を脱し、渡辺津で屋島へ戻る船便を探します。

奇しくも、敵方の兵に送ってもらい、そこからは、ただ一人となって、国府のある繁華な浪速ノ大江の町中にはいって来たその美少年は、往来の人も眼にはいらぬ容子で、「…さては、あれが九郎義経殿だったのか」…(中略)…江に沿った渡辺の聚落のかなたに、真っ青な海づらが迫って来、河口の船着きに騒めく大船小舟の帆柱…(中略)…、波間に止まりない千鳥…(中略)…そこらの商戸や船宿の軒ばや、道ゆく人影にも、眼をそそぎ始め…(中略)…渡辺橋の近くまで来ると… 

新・平家物語「ひよどり越えの巻、六万寺船」からの抜粋、平安時代の渡辺津の賑わいが目に浮かぶ描写です。大江とはすぐ南側に今も北大江公園があるように、渡辺津を囲む大川左岸の地名です。かつて摂津国の国府がおかれていたのもこの辺りで、北大江公園を含むエリアの現住所は石町(こくまち)、どうやら国府(こくふ)が石(こく)に転化したようです。現在の渡辺橋は堂島と中之島を結ぶ橋で江戸時代の架橋ですが、敦盛の頃の渡辺橋は天神橋辺りに架かっていたのではないかと思われます。

平安時代の大坂でググってみても情報は多くありません。大阪歴史博物館の難波宮や江戸時代の紹介は圧巻ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての700年分くらいの大坂についてはほぼすっぽり抜けていて、せいぜい石山本願寺があった頃のイラスト程度です。

イラストの渡辺津は寂れた漁村程度ですが、新・平家物語の描写からすると、こんなはずはない、もっとたくさん船が行きかう賑わった町だったのではないかと思われます。大阪歴史博物館には、9世紀から15世紀頃の、大坂が大坂と呼ばれる前の大坂の紹介をせひ充実してもらいたいものです。秀吉により大坂が大都市として成長するための素地がそこに見つかるはずです。

新・平家物語の「波間に止まりない千鳥」という表現はチドリぽくなくてカモかカモメのイメージですが、現在の大川河口に当たる南港野鳥園まで行くと今もシギチが少なくない訳で、こんなシギチとコンテナ船が行き交う風景が現代版渡辺津と言えるのかも。

渡辺津は嵯峨天皇の皇子、源融(とおる)を遠祖とし、渡辺綱(つな)を祖とし、今、全国にいる渡辺さんの祖となる渡辺党の本拠地です。新・平家物語でも源頼政の郎党として保元の乱で、競(きそう)、省(はぶく)、授(さずく)、与(あたう)、続(つづく)、加(くわう)らが参陣、多くが討ち死にしています。自分も佐(たすく)だけにこのu音で括る一文字名に強いシンパシーを覚えます。

源頼政という老将もとても魅力的な人物なのですが、いずれその最期の地である宇治平等院を訪ね詳しく書きたいと思っています。

坐摩の前

さて、渡辺党の守護神、坐摩(いかすり)神社が船場の西端にあり足を伸ばしてみます。秀吉により渡辺津から移転させられたそうです。

摂津国の一宮というと住吉大社ですが、坐摩神社も摂津一宮です。ひっそりしているものの途切れることなくひとりふたりと参拝者がありました。

境内に上方落語寄席発祥の地の碑があります。生玉さんにある上方落語発祥の碑とは異なり、「寄席」という場所の発祥です。

池はないものの寸胴の鉢にスイレンが一輪。

旧鎮座地が行宮としてさっき行ったばかりの石町に現存していると分かりました。よほど戻ってみようかと思ったものの、もうサドルのおいどが痛いのでいずれまた、とします。

坐摩神社の住所は大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3、昭和63年に東区と南区が合併した際、渡辺町という由緒ある地名が消えそうになり、町名が番地として残されたそうです。久太郎町4丁目渡辺には坐摩神社の他、(華道の)小原流ホールと、宮司さんと思われる渡辺さんのお宅があるだけです。

坐摩神社は「ざまさん」、周辺は坐摩の前と呼ばれ、陶器や古着の町として賑わっていたそうです。珍しいネタですが、坐摩の前を舞台にした、枝雀さんのつぼ算、米朝さんの古手買を聞いてみました。前者は瀬戸物、後者は古着を買いに行く話ですが、どちらも阿呆が悪賢い買い物上手に一緒についてきれくれと頼みに行くという話の発端が全く同じです。前者は自分も騙されてしまいそうな算数のお話ですが、後者は米朝さんの話術に引き込まれるもののサゲは全く理解できませんでした。

周囲に瀬戸物屋や古着屋は見当たりませんが、御堂筋を渡ったところになんとマクラーレンのショールームがありました。アイルトン・セナのあのマクラーレンです。レーシングチームを運営するだけじゃなくて市販車があるとは知りませんでした。

黄色いモデルはたぶんマクラーレン720S。3994cc、V8ツインターボ、ミッドシップ、720PS、3462万円〜、だそうです。