奈良きたまち
スナガニかサワガニか悩んでサワガニに会いに行くことにします。
隣接する聖武天皇皇后天平応真仁正皇太后佐保山東陵、光明皇后陵です。生垣にオオスカシバがいたもののピント合わず。
2010年のテレビドラマ大仏開眼では聖武天皇を國村隼さん、光明皇后を浅野温子さんが好演していました。病弱で優柔不断も、飢饉や天然痘が蔓延し政争が絶えない四面楚歌の中、遷都を繰り返し試行錯誤を重ね、墾田永年私財法を制定し、反政府側だった行基の協力を得て大仏を建立、責めはわれ一人にありとの言葉を残した聖武天皇、藤原氏の傀儡政権樹立を狙っていたとされる光明皇后も施薬院や悲田院を設立し民の救済に尽力、聖武天皇崩御の後は遺品を東大寺に献納し正倉院の礎を築いています。日本史上初めて国民を強く意識したまつりごとを行った夫妻だったのではないかと思います。
かなり古いモノと思われる土塀、京都では見かけない奈良っぽい鄙びた道です。
仁丹広告付き町名看板が掲げられていました。これから向かうのは多聞城ですが、「もん」の字が違ってます。これまでにブログに掲載した町名看板のページを作っていて、奈良は2枚目。
かなり急な坂道を息を切らせながら上って若草中学に辿り着きました。遺構は殆ど残されておらず、中学校の敷地なので自由に出入り出来ないものの、ここが松永弾正久秀が築いた多聞城跡です。
安土城天守はそれを真似たという四層の櫓が築かれていた日本の城郭建築の元祖、大阪城にも残る長屋風の櫓が多聞櫓と呼ばれるのもこの城が由来です。
案内板には、西側の光明皇后陵、聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、とあります。余呉くんのお城のページの図面を見ると、光明皇后陵は西の丸、聖武天皇陵は出城だったようです。戦国時代三悪人のひとりとされる久秀だけに、聖武天皇への敬意も持っていなかった、とも取れますが、聖武天皇陵、光明皇后陵と宮内庁により治定されているものの確証はなく、多聞城築城は聖武天皇崩御の800年も後、多聞城築城から現在までよりずっと長い時間が経っています。戦国時代は対決する興福寺がよく見下ろせる小山が並んでいるだけだったのかもしれません。
松永久秀といえば麒麟がくるの吉田剛太郎さんがイメージにぴったりでした。権謀術数を巡らす希代のヒールではあるものの、城造りの天才、平蜘蛛釜と自分の首は信長公のお目にはかけぬ、と平蜘蛛釜を抱え爆死したほどの希代の好き者でした。多聞城は、天守閣の城造りを久秀の功績として残したくなかった信長により徹底的に破壊されたそうな。大仏を造営した聖武天皇と大仏を焼き討ちした松永久秀、双方の面影を偲ぶことができました。
3番線に京都市交通局の最新型20系、初めてお目にかかったのですが、何やら東急や東京メトロの新型に似た東京顔の電車です。続いて2番線にもL/Cカーの快速急行が入線。座席の転換シーンを縦長動画で撮ってみました。縦長動画(ショート動画)は埋め込みコードが発行されないのでテキストリンクです。3列ずつの座席がダンスをするように交互に回転、こんなにスグレモノなのに、阪神神戸三宮駅でもしっかりデモンストレーションして欲しい。
雨模様の大阪平野も美しい。