1973年北海道の旅
人生最初の長距離一人旅は16歳の夏の北海道、大きなリュックを背負ってワイド周遊券を手に改札口を横歩きで通り抜けていた、カニ族と呼ばれる若者たちがわんさか北海道へ押しかけていた頃です。自分の目的は今で言う乗り鉄撮り鉄ですが、鉄道の無い知床や礼文島なども訪ねています。
今と違って鉄ちゃんはまだまだ日陰者の存在だった頃です。以下、写真はアルバムに貼った紙焼きをiPhoneで撮ってレタッチしています。
大阪→阿寒湖
アルバムに自分で書いた旅程表が挟まれていました。この下手くそな字、現在も全く進化していません。
20系ブルートレイン特急日本海で出発、大阪駅は11番線じゃなくて10番線発だったと記憶します。3段式B寝台、もちろん寝台車なんて初乗車です。新潟を過ぎて夜が明け、通路の折りたたみ椅子に座って日本海をぼーっと眺めながら秋田に到着、機関車の付け替えです。EF81が切り離され、山食パンみたいなナハネフ23が顔を出し、ED75が取り付けられました。
青函連絡船です。当時、バナナマン日村氏みたいなサロペットを愛用していました。字の下手さは全然進化しなかったものの、体型は大きく劣化しています。
飛んでるウミネコ(たぶん)が写ってます。この時持参のカメラはたぶんキャノンデミ。28mm広角固定のハーフサイズでこれだけ撮れてれば上等です。
青森から4時間弱、漸く函館山が見えてきました。
函館からキハ82系特急北斗で札幌へ。C62重連が牽引する急行ニセコは2年前にDD51に置き換えられていたので、自分の経路も倶知安経由ではなく苫小牧経由です。
チューリップハットの自分、背景は摩周湖です。函館からいきなりワープしてしまっていますが、旅程表通り札幌から夜行急行大雪6号に乗車しています。「たいせつ」と改称する前の「大雪」です。北見でC58に付け替えられ普通列車に変わるものの、B寝台3両+グリーン車1両+普通車5両+荷物車2両と堂々たる11両編成(参考)はそのまま、蒸気機関車に牽かれ網走へ向かいます。
ニセコDL化で国鉄のSL急行列車はなくなってしまったものの、急行列車の姿のSL列車に乗りたかったのがこの旅の最初の目的です。高校生の分際でグリーン車のスロ54、青い車体にグリーンの帯、低屋根に分散式クーラーが並んでました。
せっかくのSL牽引豪華普通列車を終点の網走まで乗らず美幌で下車、車内で出会って旅の序章を楽しくしてくれた母娘ともお別れ。美幌から、屈斜路湖、摩周湖と廻って阿寒湖へとバスで巡る当時の定番ルートです。今も変わらないはずと調べてみると10年ほど前に廃止されていて、今はもうレンタカーがデフォルトのようです。阿寒湖観光船のきっぷには48.7.26と日付印があり、旅程表通りです。
観光船で見てきたまりもです。超有名ではあるものの、見て感激するようなものでは無いですが、岩に付着している藻ではなく球体全体が藻でできている天然記念物です。
この12月に会いに行くはずだったタンチョウの写真があってビックリ。でも偶然出会ったという記憶がなく、飼育されているタンチョウだったかと。やはり雪原を舞うタンチョウを見たい。
釧網線のC58
釧網線のC58牽引列車、確かミキスト(貨客混合列車)だったはずです。2枚目の列車のシルエットは16歳の写真としてはよく撮れてます。旅程表によると釧路で泊まった翌日7月27日の634レですが、釧路に泊まった記憶や釧路湿原を見た記憶が全然ありません。
自分の写真は車内で親しくなった大学生くらいのお兄さんが撮ってくれたもので、木製の壁からオハ62型の車内かと。アルバムにはお兄さんと肩を組んだツーショットもあります。テンガロンハットは阿寒湖辺りの土産物屋店で買ったような気がします。
無蓋貨車に丸太を満載、まだまだ鉄道貨物輸送全盛の時代でした。牧場の向こうの水面はたぶん濤沸湖です。
網走到着後監獄等を見学した翌28日、ハマユウの咲く原生花園臨時駅から北浜駅まで歩いたと思われます。北浜駅東側の鉄橋を渡るC58、風化した廃屋と建築中の住宅の間から築堤を行くC58を撮るセンスは褒めてやりたいとは思うものの、C58に電柱が被ってます。
5番線まである大きな駅はたぶん網走駅。現在は3番線までしかないものの、航空写真を見ると路盤跡が見え、たぶん間違いないはず。旅行中の車中泊以外の宿は基本ユースホステル、写真はたぶん網走のユースホステル。
知床
旅程表にはない知床観光汽船のチケットがアルバムに貼ってありました。この日から大幅に予定を変更したみたいです。湖の写真はたぶん知床五湖、湖面に写った方が山はくっきり。
ウトロからの硫黄山航路、現在も同じ航路があって1時間半のショートクルーズと分かります。岩が鳥の糞で真っ白、黒いのはたぶんウで、白いのはウミネコだとすれば小さすぎる感じで、関西ではまず見られない海鳥かも。今の自分なら大興奮しているところです。滝はカムイワッカの滝と分かりました。
稚内と礼文島
旅程表とはだいぶ違ってきたものの稚内へ移動。現役のC55の写真は貴重かと。C55 47号機と読めます。この年の11月に廃車されています。
日本最北端の地、宗谷岬、海の向こうは樺太です。当たり前ですが、みんな思いっきり昭和なファッションです。
赤いシマシマの灯台は稚内市内からほど近いノシャップ岬灯台。檻に入ったアザラシはノシャップ寒流水族館です。オホーツク海や稚内周辺の海では野生のアザラシが少なくないと知ったのはつい最近のことです。
稚内から礼文島の香深港まで2時間半、距離を測ってみると稚内から 約60km、稚内から樺太の南端までの距離と変わらないです。旅程表では東日本海フェリーとありますが、現在はハートランドフェリーと名前が変わり、香深まで2時間弱と速くなってました。
利尻じゃなくてなぜ礼文にしたのか、鉄道も無い礼文になぜ行きたかったのか、ネットの無い時代、どうやって情報を得たのか。たぶん毎月ではないものの愛読していたJTBになる前の交通公社発行「旅」誌の影響で、北海道のエーデルワイス、レブンウスユキソウが見たかったと思い出しました。
礼文島の宿泊は桃岩荘ユースホステル、日本三大バカユースホステルに行ってみたから今も人気の宿の宿の分かります。このサイトで紹介されているようなコスプレミーティングまでは無かったものの、45年前も他のユースホステルとはかなり異質で元気度全開は変わりませんでした。
翌日、桃岩荘ユースホステル主催の島のハイキングに参加、岩場の写真はその時のものです。
そそり立つ奇岩は地蔵岩です。礼文島には忘れられない思い出があります。どこかの漁港を一人で歩いていた時、すごくお腹が減って、お店を探したもののそういうのは1軒も見つからず途方に暮れていました。近くにいた4年生くらいの少年にどこか食べ物を売っている店は無いか訊いてみたところ、そんなものは無いとの素気ない返事。
空腹を抱え岸壁に腰を下ろしてぼーっとしているとさっきの少年が駆け寄ってきました。何かと思うと、ホイルに包まれたおにぎり。家へ帰ってお母さんに頼んでボクのために作ってくれたようです。さらにしばらくするとウニの殻を割ってもってきてくれました。ウニの産地の採れたてのウニ、それも針の長いムラサキウニじゃなくて、針が短くて丸っこい高級なバフンウニ、スプーンですくっていただきます。あんなに美味しいウニ、その後一度も出会っていません。
地蔵岩を調べていたらおにぎりとウニの場所をストリートビューで思い出せました。元地漁港という礼文島西岸唯一の港です。
札幌から大阪
札幌へ戻ってきました。札幌では当地へ赴任していた宣教師先生夫妻宅に泊めていただきました。最初高校生が大金使って北海道へやってきたことにお叱言をもらってしまったものの、大歓待、たくさんご馳走をいただきました。711系電車は翌日野幌森林公園へ連れて行ってもらった時のものかと。
旅程表に浦河とあり、ハイセイコーブームの時でサラブレッドを見たかったものと思われますが、行ってません。知床まで足を伸ばしたためです。洞爺湖へは行った記憶がうっすらあるものの後年のことだったような気もします。帰路は青森から特急白鳥ではなく、583系寝台電車特急ゆうづるに乗って東京経由で大阪へ戻りました。
旅程表に予算がメモされていて交通費宿泊費だけで21,730円です。消費者物価指数で換算すると現在価値では6万円くらいです。これに食費やら何やらプラスして10万円くらいの旅だったようです。高校1年生の自分、全額親や祖父母におねだりしたはずで、恥ずかしい限りですが、この年齢でないと得られない貴重な体験をさせてもらったことに改めて感謝。
この当時、入学した高校が期待と全然違っていて、かなり鬱屈した一学期を過ごしていました。それを気遣って親が大枚はたいてくれたものと思います。なので夏休みになって間髪入れずに出発しています。
結局苦労して受験した高校を1年で退学してしまったのですが、子供の頃から友達が少なくそれが強いコンプレックスにもなっていた自分にとって、色んな人たちと意外と簡単に親しくなれるものだと分かったのはこの旅の大きな収穫だったと思います。