パリ 1981
西ドイツ、南フランス 1981の続きです。39年前の2月中旬から3月中旬までの約1ヶ月の旅、旅の後半は2度目のパリ。写真が少ないので、今は行くことの叶わないパリ気分を少しでも味わえるように、以下赤いテキストリンクにはストリートビューを組み込んでみました。パリの街自体は39年前も今もほぼ同じです。
セーヌ川を渡るパリメトロ6号線をエッフェル塔側からとPassy側から。パリでも屈指の美観地区ですが、セーヌ川がかつての道頓堀みたいに汚いですね。写真の発色の問題だけじゃなくて、実際に汚かったかと。でもドブ臭くはありませんでした。6号線はこの当時既にゴムタイヤ式でした。
パリ在住の日本人YouTuberさんのロックダウン解除(緩和)初日のレポートでこの付近の様子が紹介されていました。一部報道されていたようなお祭り騒ぎはごく一部のできごとのようです。
ポンピドーセンターです。ピカソ、ダリ、シャガール、モディリアーニ、ウォーホール…、膨大な近現代美術のコレクション鑑賞には何日あっても足りません。表の広場で色んなパフォーマンスを見るのも楽しみ。当時日本にこんな場所などなかったものの、今や大阪城や上野公園でもレベルの高いパフォーマンスを存分に楽しめるようになったのは想像もしなかった変化です。
現在は閉館中ですが、ホームページやSNSでコレクションの解説、ポンピドー・センター自身の歴史等々、いろんな角度で新しい情報発信されています。中でも、サクレクール、ノートルダム、凱旋門、エッフェル塔といったパリの超有名建造物に比べて圧倒的に知名度が低いと分かり、ポンピドー・センターの文鎮の土産物を作ってパリ中で売り歩くという動画はポンピドー・センターならではのセンスです。
そういえば当時、エッフェル塔モナカを焼いて日本人観光客向けに売り出せば儲かるやろな、とアイデアを思いついたのですが、実行には至りませんでした。
パリもフランスもヨーロッパもロックダウンされてしまいノートルダム大聖堂大火はずっと前のことのように感じられますが、去年4月の出来事です。
2つの塔の間に見える尖塔は無くなってしまいました。正面の彫刻は無事のようですが、まだ崩壊の危険すら残り、屋根から溶け出した大量の鉛による健康被害も懸念されれいるようです。さらに、この際新しいフランスを象徴するものに建て替えようという意見と、元どおりに復元しなければならない、という意見が対立しているところにコロナ禍、復旧への道のりはかなり長いものになりそうです。
塔に上りガーゴイルの怪物たちを間近に見たり、サクレ・クール寺院やモンパルナスタワーを眺めることはかなり先のことになりそうです。
ルーブル美術館はネット黎明期からウェブサイトを運営、かなり早い時期からDrupalを導入、自分も多々参考にさせてもらっただけでなく、長年Drupalでウェブサイト構築を生業としている自分としては、あのルーブルも導入しているCMS、というのは営業トークでありがたい決め台詞になっています。今も変わらずDrupalサイトなのは心強い限り。
ダヴィッドのナポレオンの戴冠式、横9.79m、高さ6.21mとほぼ等身大のナポレオンやジョセフィーヌです。ナポレオンの戴冠式なのにナポレオンがジョセフィーヌに冠を授けているのが、不思議でならなかったのですが、「1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂での大帝ナポレオン一世の成聖式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式」が正式名と分かりました。
同じ部屋に展示されているアングルのグランド・オダリスク、前に立つお兄さんとはパリ滞在中かなりの時間、一緒に行動していました。ちなみにフラッシュ禁止も写真撮影はOK、今ならインスタ映え間違いなしですが、夢中で写真を撮ってる人はスリのカモなので要注意です。
もちろん悪い人ばかりじゃなくて親切な人もいます。出会った人とのちょっとした会話でJeudi(火曜日)の発音を直されました。ジュディじゃなくてジュ゛ディ(小さいユに点々)とでも表現しようがない母音ですが、何度も言い直すハメになりました。
ミロのヴィーナスの前で記念撮影、向うの日本人母娘の娘さんの聖子ちゃんカットが懐かしい。当時日本人のお嬢さんの殆どが同じヘアスタイルでした。
ステンドグラスはどこの教会か分からないのですが、中央の窓右下の影はピエタ像っぽいです。メトロの駅でAu Printempsの広告をバックに記念撮影。ダイエーがプランタンと提携、プランタン三宮(現三宮オーパ2)がオープンしたのはこの頃です。
パリのホテルはHotel Raspail、前回宿泊して以来お気に入りで、最寄り駅はメトロ4号線のVavin、モンパルナス通りとラスパイユ通りの交差点角にあり、当時は今の感覚で東横インくらいの宿泊料だったかと。ストリートビューでグリグリすると分かりますが、Vivin交差点の対角線上にLa Rotonde、モンパルナス通りを駅の方へ向かうとLe Select、その向かいにLa Coupoleと、ピカソ、モディリアニ、フジタ、サルトル、ヘミングウェイ、といった巨匠や文豪が若い頃を過ごしたモンパルナスの老舗カフェが並びます。
中でもLa Rotondeが好きで、表の小さな丸テーブルの籐椅子に腰を下ろし、エスプレッソ1杯だけでぼーっと通りを歩く人たちを眺めていました。Vavinの交差点のラスパイユ通りの中央分離帯にロダン作のバルザック像があり、そこから斜めに狭いブレア通りを抜けるとリュクサンブール公園です。ここでぼーっとするのも心地いいですが、リュクサンブール公園を北へ抜けるとカルチェラタン、シテ島。Vavinからノートルダムまで歩いても30分ほどです。
ホテル地下のダイニングでコンチネンタルスタイルの朝食(オレンジジュースとパンとカフェオレだけ)、ランチはカフェのサンドイッチ(バゲットにハムとチーズ)、おやつはクレープ(砂糖だけを挟んだ一番シンプルなの)やサンルイ島のアイスクリーム、夜遅くカフェでVin chaud(ホットワイン)やホットチョコレート、とか思い出せるものの、肝心のディナーの記憶が殆どありません。フォークやナイフがずらりと並ぶようなレストランには1度も入っていません。もちろんかなり高いし、ひとりでは完全に気後れします。夜はデリカテッセンで買ってきた惣菜がメインだったけど、当時はまだ数少なかった日本食はカツ丼を食べた記憶があります。
2週間ほどのパリ滞在中、アルバムに写真は1枚もないものの、ロワールの古城巡りへ遠出したことを思い出しました。列車の記憶が全然無いので、1日ツアーバスを利用したかと。200kmほどのロワール川中流域に140も点在する古城のいくつかを訪ねたはずで、さんざんググってChâteau de Brissacに見覚えがありました。
パリに戻ってきました。メトロ2号線のAnvers駅です。マップで位置を確認してみると、モンマルトルの丘のすぐ南麓、自分にとってかなり曰く付きの駅であることに気付きました。
この旅じゃなくてこの十数年後のことですが、ユーロディズニーランド(今はディズニーランド・パリというらしい)へ行った時のこと、元妻がこの駅でスリに合いました。Anvers駅の回転式のバーを回して通る出口で、ドンと男が当たったのは覚えているものの、モンマルトルの丘に登ってから財布や手帳が無いと分かり大慌て。取り急ぎ日本に電話して、キャッシュカードやクレジットカードを止めてもらい、盗難届をもらってきてほしいと言われ、ホテル近くの警察署に出向きました。
警察署に入るとびっくり、日本の警察だとカウンターがあって、交通課とか生活安全課とかが手前に位置しているのですが、訪ねた警察署はカウンターのすぐ向うに檻があって、中に逮捕された人が入ってました。で、カタコトのフランス語で、盗難届を発行して欲しいと頼んだのですが通じません。たぶんカタコトは通じたようですが、盗まれたことをどうやって警察が証明できるんだ、ということのようでした。確かにフランスの警察の方が理にかなってます。
もちろん盗まれた現金とかは帰ってきませんでしたが、さらに後日談があります。ユーロディズニーから帰国後確か1年以上経ったある日、フランスから小包が届きました。中には元妻のシステム手帳が入っていました。発信人は伊藤忠商事フランスオフィスに務めるフランス人の方、日本語を読めるのでどこかで拾った手帳を送ってくださったようです。
1981年に戻ります。もう一枚のメトロの写真は13号線です。2号線のAnversからPlace de Clichyで13号線に乗り換え、さらにMontparnasse Bienvenüeで乗り換えてVavinへ帰る途中と思われます。5本ものメトロ路線の乗り換え駅Montparnasse Bienvenüeでの13号線から4号線への乗り換えはかなり遠くて、阪急梅田駅よりずっと長いムービングウォークで移動します。でも途中にストリートミュージシャンがチェロを演奏していたり、飽きないです。
まだ社会人になる前、それにクレジットカード自体が今ほど普及していなかったので、トラベラーズチェックを後生大事に旅行用のポケット付腹巻きの中にしまいこんでの旅でした。調べてみるとアメックスのトラベラーズチェックは既に日本での販売を終了してしまい、他に発行している事業者も無いようです。例えばUS$2,000を持っていくとすれば、例えば$100x10枚と$50x20枚のT/Cをひとまとめの綴にしたものを、当時はまだ限られていた東京銀行等外貨取扱銀行の窓口で購入します。1枚ずつ、署名欄が2箇所あって、T/C購入時点で1箇所にサイン、使う時にもう1箇所にサインすることで、現金同様に使えるようになります。万一盗難にあっても、クレジットカード同等のセキュリティが紙で担保されていた訳です。
藤田嗣治の「カフェの中(サンジエルマンデプレのビストロ)」、たぶんポンピドー・センターです。モンパルナスではないものの、フジタやモディリアニらが語り合っていた頃のカフェの雰囲気が分かります。
なぜ学生時代に2回もパリへ行ったのか、藤田嗣治で思い出しました。フジタにちょっと似た雰囲気のある高田賢三さんに憧れたのが理由です。母は洋裁学校教師やクチュリエ経営で弟と自分を育ててくれました。そのためウチにはMode et Modeとかオートクチュール系ファッション誌が多くあって、よくそれを眺めていた自分です。
オートクチュールにあって豪華で美しいだけでなく、エスニックで華やか、それでいて可愛さを感じさせるケンゾーデザインや、極めて個性的なケンゾーそのものに憧れ、大阪モード学園の願書を貰いに行ったこともありました。結局ファッション業界を目指すことなく、リカちゃんの会社に務めることになったのですが、それでも何某かファッションに興味を持った自分がパリに行くことを母は喜んでくれていたようです。母自身70年代のパリへの旅で、一生の友人を得られたということも賛成してくれた理由だったかと。
同じ岸和田なのに、コシノ姉妹を母は評価していなかったようで、カーネーションも見ていませんでした。なぜだったのかもう聞けないのが残念でなりません。もう1枚の絵はレオナール・ビュッフェのThree Nudes、全然色っぽくないヌードになぜか惹かれたようです。
赤い服の女性を描いた現代絵画、誰の作品か分かりませんでしたが、赤いチェックのシャツと黒いコーデュロイのパンツ、今と全然変わっていない自分の好みですが、とてもケンゾーに憧れていたとは思えないダサい着こなしです。
シャルル・ド・ゴール空港のターミナル間を移動するムービングウォークの動画とジングルを見つけました。旅を終える寂しさが蘇ってきます。帰りも24時間かけて南回りのDC-8だったはず、トランジットで深夜のカラチに寄港したけど機外へ出られず、窓から給油風景を眺めていたことだけ記憶にあります。最後の1枚は成田空港のようです。