迷えるものの禅修行

ドイツ人で兵庫県の山奥にあるお寺の住職を勤める著者の自伝です。表紙の帯の端正な容姿の著者が墨染の衣で座禅している写真に惹かれました。

ZENに興味を持ち、高校を卒業してすぐに来日するも、「お寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業になり下がった」日本の仏教に落胆、一旦ドイツに帰るも、諦めきれずに京大へ留学、モラトリアムを楽しんでいるだけの日本の大学にまた落胆、それでも諦めずに、漸く受け入れてくれる禅寺を見つけ修行生活を始めます。

この修業がハンパじゃありません。朝4時から夜9時までずーっと座禅の毎日の夏休みを過ごし、やがて結果その住職になる安泰寺というお寺にたどりつき、さらに想像を絶するような修行生活を続けます。

座禅以外の時間は作務と呼ばれる作業です。作務衣ってありますよね。よく工芸家の人たちが着ている和服ですが、ここでの作務は、工芸とかではなく、農作業や土木作業などの極端な重労働です。

予定した期間の修行を終え、ドイツへ戻るも学業にケリをつけ安泰寺へ戻ってきます。今度は修行だけでなく、正式に出家得度、その後3年の修行を経て、今度は京都の禅寺でさらに修行、ここの生活が、もう読んでいられないくらい軍隊や地獄より厳しい修行です。

以前、高名なお坊さんとの食事会に招かれたことがあります。和尚さんの様々な経験談やためになるお話と楽しく食事を頂いた後、お腹いっぱいになって、さあお開きという段になって、和尚さんが同行のお弟子さんに、テーブルに残ったものをすべて片付けるように目で合図したのに気づきました。

片付けるとは食器を洗うとかじゃなくって、自分に取り分けられたものはもちろん、大皿に残ったものも含め全部食べるということでした。小柄なお弟子さんが、残り物を無理やり口に運んでいるのを見て、正直見ているだけで自分も辛くなったのが忘れられません。

あれ以来、注文し過ぎて残してしまったりした時、いつもあの時の食卓を思い出してしまうですが、この本で、その背景がわかりました。修行僧の食事は無理やり食べて胃腸を壊してもオムツを付けて托鉢にでなければならないほど厳しいものだそうです。

著者は10年の安泰寺での修行を経て、曲折があって、今度は大阪城公園でホームレスの生活、そこで知り合った女性と結ばれ、やがて安泰寺の住職に任じられ、今に至る由です。

とてもじゃないけど、本書を読んで座禅をしてみたいとか、修行してみたいとかは絶対思わないですが、著者の自分に向きあう姿に、感動と自分自身に対する恥ずかしさのようなものを感じるのは否めません。

迷えるものの禅修行