大塩平八郎の乱

天保7年(1837年)2月19日(旧暦)、大塩平八郎の乱がありました。天保の飢饉に市民が苦しむ中、大坂町奉行は豪商や江戸の老中と結託、私腹を肥やす一方、米の価格は益々高騰、ついに怒りを爆発させた元与力、大塩平八郎が養子の格之助らと二門の大砲を引いて決起、北浜の豪商らを襲うものの、内部密告者により計画が事前にリークされていたため、あえなく幕府軍に鎮圧されてしまいます。

大塩たちによって町を焼き尽くされても、大塩たちをかばい慕い続ける大坂の町人らの心意気は今の大阪文化の礎のひとつといって間違いないと思います。チュニジアやエジプトの人たちとつながるところも感じます。

詳しくは羽柴茶々さんの大塩平八郎の乱を読み解くをどうぞ。

そんな大塩平八郎ゆかりの場所を自転車で廻ってみました。

北区天満近くに同心町とういう地名があります。

同心町に隣接して与力町という地名も残っています。東京でいうと八丁堀ですね。大塩邸は少し東より、造幣局の辺りだったそうですが、平八郎はこの辺を毎日歩いていたはずです。

大塩平八郎、格之助親子の眠る成正寺、天神橋筋商店街はすごい人出でしたが、少し外れると人影もまばら、今日はお参りの人がいるのでは、と思ったら誰もいませんでした。

大阪天満宮も大塩の乱の時には社殿が全焼したそうです。今日は大梅盆展やら、梅酒大会やらで大賑わい、人ごみが苦手なので梅の花だけ写して退散です。今日は、繁昌亭も素通り。

大塩隊は難波橋を渡って、北浜へ攻め寄せます。難波橋のライオンはいつ見てもカッコいいです。

豪商がひしめいていた北浜周辺、重厚なビルが立ち並ぶビジネス街ですが、今日は大塩の視点で街を見ているのでいつもと少し違って見えます。「エチゴヤ、お前も悪よのう」といった人たちがいっぱいいる場所に見えてきます。

当時を彷彿とさせる建物を堺筋沿いに発見、小西家住宅、接着剤のコニシの本店社屋です。決してコニシが悪徳商人ということではありませんので念のため。

追記:私腹が私服になってました(^ ^);。ご指摘ありがとうございました。