針中野・平野・天保山

恵我ノ荘、土師ノ里…、近鉄南大阪線には風変わりな駅名が多くあり、針中野もそのひとつです。その針中野の地名の謎を解く石碑道標をインスタで見つけ訪ねてみることにしました。

阿倍野橋から近鉄じゃなくて、他の場所も回る可能性が高そうなのでエンジョイエコきっぷを買って谷町線で駒川中野へ。

いつも元気な駒川商店街。お肉が安い!このお店も大繁盛ですが、別のお肉屋さんでは、向かいの空き店舗でお肉のカットが出来上がるのを待つ人たちのための待合スペースまで設置されていました。

野菜も安い!大根1本58円、ブロッコリも58円、店内奥のレジまでびっしりお客さんが並んでます。千林、天神橋筋と並ぶ大阪三大商店街ですが、飲食ではなく商店街本来の物販の賑わいではここ駒川がダントツの1位だと思います。

飲食も目移りするほどいろいろあるものの、結局入ったことのある近鉄高架下のお寿司にしました。デカネタの10貫とあら汁で税込880円のサービスセット。シャリはたぶん寿司ロボット、やよい軒のご飯おかわりサーバー同様、寿司ロボットもかなり腕前を上げきているようです。

店頭に掲げられた「板前にぎりのこだわり」は寿司屋としては極めて当たり前のことで、ちょっとこっ恥ずかしいくらいですが、880円のコスパの高さはハンパ無いです。

針中野

近鉄針中野駅は、なぜかマクドナルドまでかなりの行列。季節柄、グラコロ人気のせいでしょうか。マック大好き人間の自分ですが、焼きそばパンよろしく炭水化物を炭水化物で挟んだグラコロは自分的にはイマイチ。

商店街につながる大賑わいの西側と較べて駅東側はひっそり。

駅東側の酒屋さん、店頭にひっくり返したビールケースに座布団、角打ちやさんと分かります。お向かいのお好み焼もいい感じ。

郵便受けに「チラシお断り、不要なチラシは着払いで返送します」。同じセリフでウチにも貼っておきところですが、集合住宅ではなかなか難しい。昔のようにラブレターが届くようなことは全くなくなり、ゴミ箱直行の大量のチラシの間に、もらって嬉しくないけど無視できない請求書、それと宅急便の不在通知くらいがたまに紛れ込んでいるばかりの郵便受け、何とかならないのか。

この町に不似合いなくらいの大きな蔵、大きな門の上には「のかな、りは」と透かし彫り、「大阪府鍼灸師会員」というプレートも掲げられています。

先へ進むとありました、石碑道標、「→でんしゃのりば、→はりみち」、裏側には大正三年と彫られています。

「→はりみち」の方へ進むと、中野鍼灸院の診療所。なんと創業は平安時代初期の延暦年間、今も変わらず連綿と診療が続けられています。中野家41代目が南大阪線(当時は大阪鉄道)開業に尽力されたことにより駅名は針中野となり、後に地名になったそうです(参考: 東住吉区のページ)。診療所の建物の左手には「中野鍼控所」と掲げられた建物もあり、患者さんが殺到するほど繁盛していたことが分かります。

祖母がここから遠くない田辺の漢方薬局へ通っていたのを思い出しました。祖母が煎じる漢方薬の匂いがウチ中に充満していた記憶が今も鮮烈です。岸和田から田辺までわざわざ通っていたことが不思議ですが、ネットがない時代でも強力な情報伝播力のあるクチコミネットワークが存在していたんだと思います。おばあちゃん、中野の鍼て知ってた? と聞いてみたいところです。

石碑道標まで戻り「→でんしゃのりば」に沿って進むともうひとつ石碑道標。針中野駅から歩いてきたので母屋の裏側に診療所があるのが不思議に思われたのですが、石碑道標のでんしゃのりばは針中野駅ではなく、大正三年に開通した平野線中野電停を指しているので、診療所が表、母屋が裏だったと気づきました。

平野線廃線跡

南港通に出てきました。阪神高速松原線高架下、この辺りに平野線中野電停があったはずです。この先高架下を駒川町、田辺町、股ヶ池、阿倍野へと平野線が走っていたのですが、逆方向に平野へ向かって廃線跡をたどってみることにします。

今川の河岸に遊歩道が続いていてあべのハルカスが遠くないです。

高架下の平野線廃線跡は駐車場になってます。24時間500円はかなり安い。地面の下には大阪メトロ谷町線が走ってます。つまり平野線廃線跡は、高速道路、駐車場/一般道、地下鉄、と三層構造で有効活用されている訳です。

住宅街が途切れ大きな工場になりました。何の工場かと思っていたらその先にサンガリアの看板、周囲にはサンガリアのトラックがいっぱい、こんなところにサンガリアの本社があるとは知りませんでした。

いちにいサンガリア♪、大きな工場は本社工場と分かりました。

本社前にしっかり自販機が置かれていました。せっかくなので何か買おうと思ったら、「この自動販売機は、近隣のサンガリアビバレッジカンパニーとは関係ございません。サンガリアフーズ(株)」と貼り紙で買う気が失せました。リスクヘッジばかりじゃなくてグループ企業同士もっと協力すればいいのに。

高架下の駐車場は24時間600円に値上がり。

90度カーブする阪神高速から廃線跡は離れまっすぐ伸びていて、背戸口公園という公園になり地面に線路が描かれていました。

西平野電停跡がこの付近で、タイル絵の平野線路線図と水色雲模様のモ165のイラスト。自分の知っているモ165は鉄道喫茶あびこ道のラッピング時代で、懐かしい南海のグリーン濃淡のツートンカラーが素敵でした。その後ブルーのラッピングに塗り替えられ、最後はベージュとグリーンツートンの金太郎塗りにもどされたものの、この塗装ではほんの僅かの間走っただけであえなく廃車、それでも解体されず他のモ161形の部品取り用に今も我孫子車庫のすみっこに残されています。

サルビアホットリップスがいっぱい咲いているところで廃線跡は途切れました。その先の廃線跡には建物が立ち並ぶものの、その建物も既に年季が入っていて廃線からの年月を感じさせます。

内環状線を渡り廃線跡らしき道を辿ると、再び廃線跡が「南海平野線平野駅跡地プロムナード」という公園に整備されていました。枕木の線路柵や踏切跡らしきも再現されています。自分で撮ったモ161形の音を聞きながら歩くとめちゃ楽しいプロムナードです。

広場にモ205形のタイル絵、パンタグラフやライトなどの細部まで少しずつ色の違うタイルが並べられたかなりの力作です。平野駅のシンボルだった八角形の屋根を模した照明塔もあります。

平野線の主力だった小型車モ205形、いささか鈍重な印象のモ161形と較べて軽快感あり、子供の頃から大好きな電車でした。川崎重工製のモ161形より若い昭和12〜22年の南海天下茶屋工場(一部は広瀬車両)製で、平成2年に全廃も、モ247がカナダ・エドモントン市で動態保存されているそうです。

終点平野に到着。地面の線路のタイルは単線が分岐しているだけですが、平野線は全線複線で1番線2番線のある平野駅手前に両側への渡り線があったと、廃線5日前の平野線全線前面展望ビデオで確認できました。モ205形には間違いなく乗ったことがあるのですが、平野線に乗ったことがあるのかどうかの記憶は微妙です。

平野駅跡に隣接する土地でマンションかなにかを造成工事忠、大量の地下水が湧出しているのが見えます。平野駅跡に置かれていた宝暦13年摂州平野大絵図、環濠集落の平野が水路に囲まれているのがよく分かります。地下水湧出もむべなるかなです。

平野駅前跡の商店街は今も平野南海商店街。それまで田園地帯だったところに大正3年平野線の開通により住宅地として発展、今や大阪市24区で人口が最大の平野区です。平野線に先立ち国鉄平野駅が明治22年に開業していますが、昭和48年まで電化すらされていません。安い運賃で頻繁に運行されていた阪堺/南海平野線への平野の人たちの思いが公園プロムナードや商店街の名前から伝わってきます。

平野

商店街には入ってみたくなる洋食屋さんやお好み焼やさん、針中野でお寿司を食べるのをガマンすればよかったです。

アーケードのあるサンアレイ商店街は残念ながら寂れてますが、寂れきってはいないです。

アーケードの中に豪壮な朝日新聞の販売店、レリーフのロゴが朝日じゃなくてカニに見えました。中は博物館になっているそうですが、日曜日だけの開館で入れませんでした。

朝日新聞の隣は全興寺というお寺、境内に入ってみると蔵を改造した「小さな駄菓子屋さんの博物館」。

中に入るとところ狭しと懐かしグッズがびっしり。すみっこには手回し絞り器のついた洗濯機。

グリコの看板、道頓堀のグリコとは別の人です。今はGLICOですが、左側の箱状のものに描かれたグリコの走る人(グリコ社内ではゴールデンマークと呼ばれているそうです)には「GLYCO」と入っています。左は戦前の2代目、右は戦後の3代目のようです(参考)。

平野線のジオラマも飾られているのですが、イマイチ再現度は高くないです。

こちらのグリコは道頓堀と同じ人ですね。カバヤのこのロゴは昭和62年まで使われていたそうです。岡山のカバヤさん本社には何度か訪ねたことがあります。何かとノリのいい会社で、大好きなお取引先でした。

全興寺本堂です。他にも境内や門前に町おこしを兼ねたいろんな施設があって、ちょっとしたテーマパークになっています。

まだ紅葉が美しく柿がたわわに実っていました。

平野川に出てきました。両岸がコンクリートで覆われてしまっているものの点々とカモたち、オナガガモもいます。

振り向くと可愛くないにゃんこ。

この先に大和路線お鉄橋、近づくと221系じゃなくて201系がやってきてビックリ。まだ走っていたんだ。

わずかに残っている平野郷の環濠です。戦国時代、堺同様に自治都市だった平野を守るために掘られた堀です。秀吉によって平野の有力商人らは大阪城下へ移住させられ、その移住先が、自分の現住所、東平(旧町名、東平野町)だったそうです。方角に合わせて北平野町じゃなかったのかは不明。

環濠の内側の杭全神社に裏門から入ってみると巨木の紅葉黃葉が美しい。境内は七五三で賑わっていて、晴れ着の子どもたちにレンズを向けたりすると変質者と間違えられかねないので気を使います。

樹齢千年の巨楠を見て表門に出てきました。こんなに大きな神社とは思ってもみませんでした。

平野もだんじりが盛んな町で、ミニチュアが店頭に飾られています。ふとん太鼓もあるようです。マップで検索して見つけた喫茶店でひと休み。ご近所の高齢女性たちの集会所になってましたが、居心地の良いお店でした。

だるま夕日

まだ快晴、手元にエコきっぷがあり時間的に良さげなので天保山へ行ってみます。

海遊館裏に到着、バッチリなタイミングです。

日の出日の入りマップをチェックすると咲洲と夢洲の間にずぼっとはまってくれるようです。快晴でこの方角はめったにないかと。だるま夕日も期待できそうです。

ところが夕日に向かってゆっくりとコンテナ船の巨大な船影、EVER STEADY 76,261総トンです。

夕日を受けて物憂げな人魚姫。コンテナ船が早く通り過ぎるのを一緒に待ってくれているようですが、日が沈んで寒くなってきたので服を着た方がいいよ。

EVER STEADYはおひさまを通り過ぎてくれましたが、沖に新島(しんとう)の影、廃棄物処分場の新しい島です。将来的には新島にコンテナ埠頭が計画されているらしく、そうなると沈む夕日の下にキリンがいっぱい並ぶことになります。

夕日が新島の上にたなびく雲に分断されました。

雲の下に出てきました。

あっ、新島の廃棄物処理施設の影がじゃまですが、一応だるま夕日になってます。

だるまの頭と胴がつながりました。

4時48分、日没です。