60型びわこ号

人が多い所はいつも避けているのですが、京阪寝屋川車庫のファミリーレールフェアに行ってきました。

構内踏切が鳴り出し何が来るのかと思ったら「特急・香里園」

マイナーチェンジした3000系、元々中之島線の快速急行用だったのが特急にも転用され、今では快速特急専用車に、どんどん偉くなっている車両です。

その隣にびわこ号の60型。

70型72号

びわこ号の奥に70型、現役の構内入換車で自走します。昭和18年に2両、昭和23年に8両が製造された京津線用の車両で、昭和24年四宮車庫の火災で10両中9両が被災、この72号だけが奇跡的に生き残ったそうです。近寄ることができないので、この1カットだけですが、このヨーロピアンなカラーリング悪くないです。でも、時代考証的には違っているかと。

ググってみたら現役時代の72号の写真を見つけました。モノクロなので色は分かりませんが、今と違って京都側から交差点を直進して左にカーブしたところにあった京津線の浜大津駅に進入するところです。京津線浜大津からスイッチバックすると現在の浜大津駅の位置に石山坂本線の浜大津駅がありました。統合されたのは昭和56年のことなので、自分の目で見た記憶があります。

昭和42年頃の錦織車庫のカラー写真では昭和初期製の30型が旧京阪一般車標準色です。たぶん72号の現役時代末期はこの色だったのではと思います。昭和23年の出場当時は一般車がヨーロピアンなツートンカラーだったとは考えにくく、濃緑一色ではなかったかと推測。

昭和39年東山三条辺りを行く72号のモノクロ写真、やはり旧京阪一般車標準色かと。浜大津行普通です。自分の知っている京津線普通は全て四宮行、浜大津行はステップがない車両による急行か準急で御陵まで京都市内の併用軌道区間は通過だったのですが、それは昭和46年以降と分かりました。

60型びわこ号

60型は昭和9年製、大阪から琵琶湖への直通特急として導入された車両です。ダブルポールの集電装置が目を引きます。

車内へ入ってみます。半室運転台の異様に小さい椅子、座るというより、ちょっと腰掛ける程度です。右側の視界が悪く、おそらくほとんど立ったまま運転していたのではと思われます。

運転室右側は最前面までシートがあります。窓を開けてかぶりつきできたら、香港トラムの2階みたいな感じでしょうね。

運転室の磨りガラス、照明ケース、ニス塗りの板壁、真っ白でツヤッツヤの天井、細部まで職人仕事が凝縮されています。

正面3枚窓内側中央に手回しブレーキ、その上に通風器。雨粒の向こうに70型、ちょっとタイムスリップした感じ。

車体中央扉はステップ付の低床ホーム用、福井鉄道のレトラムGT4と似た感じですが、戸締め状態でステップ部分がフラットになっているということはより優れた構造になっているのかも知れません。扉を開いたところを見てみたいものです。

京阪デパートの中吊り広告、「お食事と喫茶は、美味、新鮮な京阪食堂へ、特製折詰弁当、体裁よく廉価に調製」

伏見の料亭、澤文の中吊り広告、「電車御船御乗降実ニ便利、百畳敷及五十畳敷大広間外二客室十数室、大浴場は朝より御入浴願ひます、芸妓○女の招聘至極便利、会○一円以上○中御料理又はスキ焼五十銭以上、船賃御料理共格別の勉強申上げます、団体様は○何○とも御相談申上げます、御一報次第、店員参上申上げます。(○は解読不能)」、澤文の番頭さんの思いが伝わってきます。

連接車で連接台車の上は円筒形のブースのようなものが載っかってます。天井の照明は連接部分は白熱灯も、それ以外はケースの中はLEDのようです。

京阪電車沿線名勝案内図

貫通路脇の京阪電車沿線名勝案内図、今の阪急京都線の新京阪線として淀川右岸をまっすぐ走ってます。京阪本線よりずっと駅が少く見えて、戦後にできた阪急京都線の駅が多いのかなと思ったら今とさほど変わらないです。新京阪は天神橋-京阪京都(現、大宮)が本線で、淡路-十三は支線、千里線(千里山まで)、嵐山線もあります。

一方京阪本線側では交野線が載っていません。この時点では信貴生駒電鉄という会社の路線と分かりました。現、近鉄生駒線も同社の路線で、つまり枚方から王寺を結ぶ計画だったようです。地図を見てみると、私市から生駒までほぼ南北に一直線、ほしだ園地付近を除けば、山並みもさほど険しくなく、これはアリの発想です。もし全線開通していたとしても、結局京阪か近鉄に吸収合併されていただろう、三条発王寺行とか京阪と近鉄で相互乗り入れしてただろう、とかイメージが膨らみます。

鉄道路線がまっすぐ描かれているものの、淀川(宇治川)、桂川、木津川の三川合流とか、川がとても分かりやすく描かれていて、琵琶湖から大阪湾までの淀川水系全体のイメージを把握できるように描かれています。巨椋池もまだあります。目を転じると大阪市内には長堀川と西横堀川も流れています。

琵琶湖の航路図には大津と長浜を結ぶ航路はなく、既に観光船だけになっていたと分かります。ピンボケですが、いつまでも見飽きない地図です。

もう一枚は大阪からびわ湖へ直通急行運転の広告、天満橋発7:30、8:00、8:30の3本だけの運行、びわこ号とは明記されておらず、びわこ号は車両の愛称で、列車名ではなかったようです。車内の写真を見ると、今いるこの車内がかなり正確に復元されているのが分かります。

反対側のエンドです。とても電車の車内には見えません。殆ど工芸品です。ちなみに2両連接も、車番は2両とも63です。

連接部分を外からチェック。貫通幌ではなく、円筒形の接続ブースを車体と接続された金属カバーで包み込んで固定しているようです。

連接台車と車体の銘板です。昭和9年日本車両会社製。

連結器下に併用軌道走行用の排障器、2本のポールに挟まれたヘッドライト、ヘッドライト保護用の枠があるだけでも大切にされてきた車両と伝わってきます。

昭和42年の錦織車庫の写真でもまだポール集電ですが、シングルポールです。通常マイナスの電流はレールに流すのですが、水道管とか埋設設備への影響を避けるため、複式の架線でマイナス電流を戻していたそうで、戦後シングルポールに変更されています。

ダブルポールの外にパンタグラフがあります、京阪本線と京津線直通のために当初から取り付けられていたもので、今もヘッドライトや車内照明はこのパンタグラフ集電によるものと思われます。

3年前60型が70型に牽引され寝屋川車庫内を走行するイベントが開催されました。その時の様子を寝屋川市広報の動画で確認できます。現役時代の様子の紹介、びわこ号復活プロジェクトの紹介もあり、寝屋川出身の豪栄道関が車内から手を振っています。当時「駅」でこの復活プロジェクトの募金箱が置かれていて、自分も僅かながらコインを入れた記憶があります。

8000系スカートの中

8000系特急が駆け抜けていきます。いつもダブルデッカーから眺める寝屋川車庫を反対側から眺めるのも悪くないです。

60型に満足して構内の奥の方へ向かうとマルタイ(マルチプルタイタンパー、レールやバラストを補修する保線車両)の試乗会をやっているみたいなので、列に並んでみました。雨の中10分ほど並んでいたら、係の人がきて、小さいお子様と保護者の方だけなんです、スミマセン、との由。ガッカリよりも恥ずかしさが先に立ちました。

工場内に入ってみるとちょうど8000系をクレーンで移動するデモの真っ最中。

スカート(排障装置)の中を覗くわけで、ちょっとドキドキします。台車取り付けのシャフトが見えます。

横に移動するのかと思ったら縦に移動してこちらに向かって来ました。ゆっくり下りてきてデモが終了。

103系の次に追いかけようかと考えている5000系です。寝屋川市駅の喫煙所でいっぷく。