三井三池鉄道
つきが~でたで~た~、つきが~でた~、ア、ヨイヨイ♪ みいけたんこうの~、うえに~でた~♪
高校の時、友達が指踊りの炭坑節を教えてくれたのを思い出します。その炭坑節の本場が大牟田で、三池炭鉱専用線(三井三池鉄道)の一部が炭鉱閉山後も、三井化学専用鉄道として今も現役と知り、どうしても見たくなったのが今回の旅のもう一つ目的です。
三井化学専用鉄道については、眠れないマクラギを数えてに詳しく紹介されておりありがたいです。しかしながら、工場専用線に公開時刻表があるはずもなく、とにもかくにも行ってみるしかありません。
ところが出発直前、深夜のお引越しショーという投稿。長年仮保管されていた4両の炭鉱電車(電気機関車)が公開のための新しい保管場所に移動することになり、まさかまさかの自分が大牟田に泊まっている深夜にトレーラーで運ばれ、その様子がUstreamで実況されるとのことです。
目覚ましが鳴るまでもなく、3時頃に目が覚め、とりあえずUstreamをチェックしてみたら、「これからセブンイレブン前の踏切を通過します」とのこと。セブンイレブンの踏切ってすぐ近くです。慌ててカメラを持って、ホテルから飛び出しました。
セブンイレブンへ行くまでもなく、ホテルすぐ横の交差点に炭鉱電車がやってきました。クロコダイル形の電気機関車です。
続いて2両目がやってきたものの右折信号が青で止まってくれず、おまけにカメラの設定できておらずまともに撮れませんでした。
3両目がやってきました。南海ED5121形を小さく可愛くして近鉄色に塗装したような凸型の5号機、右折信号が赤で、じっくり撮らせてくれました。
もう終わりかなと思ったらさらにもう1台、草軽電鉄の機関車みたいなこれも5号機です。よく見るとパンタグラフを外して、トレーラーの前に積んでいます。
深夜の自分だけのエレクトリカルパレードにメチャ興奮してしまいました。
大授搦から戻り、Google Mapをチェックしながら三井化学専用線を探します。ストリートビューでも電気機関車の姿が確認できる宮浦町の操車場に着きました。
電気機関車が2両と、タンクコンテナを積んだコキ、空のコキがいます。操車場全体が金網のフェンスに囲われているのですが、操車場を横断する踏切があって、その脇から撮ってみました。
パイプが張り巡らされた三井化学大牟田工場、こういう光景も萌えます。近くの丘から操車場全体を俯瞰できるらしく、そこを探しに行きかけると、機関車のホイッスルの音が聞こえたような気がして、急いで戻ると小さい方の機関車がいなくなっていました。
新栄町駅の方へ行ったのかと探し回ったものの見つからず、操車場に戻ってきました。操車場と工場の間の道路は、工場敷地じゃなくて一般道と分かり、操車場東側の金網フェンスから覗いて機関車を撮影。
さらに奥へ進むと車庫がありました。右側の3両はパンタが外されていたりパンタがサビサビになっていて休車のようですが、未明に見た5号機と同型機と思われる左側の機関車12号機はさっきまで操車場にいたのがここに移動してきたみたいです。
周囲をもう一回りして車庫のところに戻ってくると、12号機がいなくなっていて、自転車でやってきて大汗かいてる大学生くらいの鉄分が濃そうな兄ちゃんが来ていました。若い鉄ちゃんがこんな古めかしい産業用機関車に関心を持ってくれるのはとても嬉しい。
クーラーの効いたくるまで来ている自分が申し訳なく、日陰に入らないと熱中症になるよ、と声をかけておきました。
踏切のところに戻って、さあどうするか、と考えていたら、12号機やってきました!
パンタを下ろして走っています。後ろにバッテリーを積んだ貨車を引いていて、予めパンタからバッテリーに充電して走行するシステムです。この12号機は大正6年製、ピッカピカの99歳!
このミニ南海凸型電機風20トン機が工場内の運搬専用で、クロコダイル型45トン機がJRとの貨物受け渡しを担当しているようです。20トン機は12号機の他に9号機、11号機が、45トン機は19号機の他に18号機が存在するようですが、見かけませんでした。操車場奥の車庫の中だったのかも知れません。(参考:マヤ検&三井化学大牟田専用線編、三井専用線の機関車達)
探し回った甲斐がありました。さっきの自転車の兄ちゃんもやってきて、お互いにガッツポーズ。
まだ時間があるので石炭産業博物館へ行ってみることにします。海の近く、イオンモールの向かい側です。大牟田の商業集積は駅周辺じゃなくて、くるま社会化で湾岸地区に移動してしまっているようです。
一番目立つところに展示されているのがボールドウィンのサドルタンク機、実物ではなくて若干スケールダウンしたレプリカですが、製造銘板や足回りとか本物にしか見えません。
炭鉱断面図のジオラマ、地上では20トン凸型電機がホッパー車の入替をしています。石炭は地下からコンベアで運ばれてきます。
坑道はアリの巣のように続いています。一番地下深くではフィギュアたちが作業中です。
館内の奥に模擬坑道と案内されたエレベーターがあります。薄暗いエレベーターに乗り込んでみると、反対側のドアに地下200m、地下400mという表示があります。他に誰も乗っておらず、ちょっとビビって後ずさりしてしまいました。400mも下りるはずがないと、漸く気が付きもう一度乗ることにします。実にリアルな仕掛けにまんまと引っかかってしまいました。
「地下200m」に着くとゆっくりとドアが開き坑道に続いています。坑道にはコンベアや掘削機械、坑内軌道の車両とか実際に使われていた機械が多数展示されています。
三池炭鉱が閉山したのはまだ18年前のことなので、新しい機械ばかり、掘削部分の歯が実際に高速回転するところも見せてくれます。リアリティにこだわった博物館です。
屋外には坑内作業車の展示、マスコンやブレーキらしきハンドルがあり、自走車両のようです。
もう1か所行ってみたい場所があります。未明に見た炭鉱電車たちの行先、三川抗跡です。三池港の近くのはずですが、なかなか見つからず、ぐるぐる回っていると、なんと貯炭場がまだありました。
有明沿岸道路の築堤の脇に廃墟となった三川抗をやっとみつけました。4両の炭鉱電車が搬入されていて既にパンタグラフが取り付けられています。
右折信号が青で撮れなかった1両は凸形20トンの1号機とわかりました。
殆ど骨組みだけの人車点検場に錆びた人車が並んでいて、線路は坑道に向かって伸びています。
坑道は海へ向かっています。つまり三池炭鉱は海底炭鉱なんですね。シギチやムツゴロウたちを育む豊かな生態系を誇る有明海の底には炭田が広がっている訳です。
人車の坑道の脇に入昇坑口があります。鉱夫たちはここから人車乗り場へと降りて行きました。昭和24年昭和天皇が行幸され、坑内へ入坑された際に造られた日本庭園もあります。
昭和10年に開坑した最新で、かつ平成9年最後まで操業、当時日本一の出炭量を誇る三池炭鉱全体の半分以上を出炭する坑口でした。まさに高度経済成長へつながる戦後の経済復興を支えてきた三川抗です。日本経済を支える一方、三井三池争議や458人が命を落とす戦後最悪の労働災害である三川炭鉱炭塵爆発事故が起こっています。
三川炭鉱炭塵爆発事故が発生したのは昭和38年11月9日、私の父の命日です。父は同じ日に起こった国鉄鶴見事故で命を落としています。鶴見事故の犠牲者は161人、三川炭鉱ではその3倍近い方が犠牲になっていることをちゃんと認識していませんでした。
この日のことは「血塗られた土曜日」と呼ぶそうです。自分は5歳でしたが、日曜日の朝、叔父がウチへ遊びに来て、テレビで父の名前を見つけ大騒ぎになったことは覚えています。鉄道なので搭乗者名簿とかないはずで、持ち物から分かったんでしょうね。
父も鉄分の濃い人で、HO模型をやっていて未完成のレイアウトがありました。真鍮板から切り出したスクラッチビルドのCタンク機が、石炭産業博物館のボールドウィン機にちょっと似ていることに気づきました。父から濃い鉄分を受け継いだ自分が、当時実家の2階から矯めつ眇めつながめていたのが、三井三池鉄道20トン機に似た南海凸型電機です。
三川抗は他の坑口と比べて新しいため、世界遺産の対象にはなっておらず、かなり紆余曲折があったようですが、炭鉱電車がここに保存されることになったことからも、坑口自体が保存整備されることが決定したようです。
秋には炭鉱電車の中に乗り込めるようになるそうで、保存活動のボランティアらしき方からその切符(硬券)をいただきました。
何か見えないモノが自分を三井三池鉄道に案内してくれたような気がしてなりません。