時刻表2万キロ

北陸新幹線開業、上野東京ライン開通ということで、どこへ行くというあてもないものの、JTB時刻表3月号を買ってみました。電車の時間を調べるならネットで検索した方が、お金も要らず、余程便利なので、実用ではなく趣味の領域です。

時刻表を買ったのは3年ぶり。かつては半年毎くらいに買ってきて、矯めつ眇めつ数字を眺め、この電車に乗ってあそこへ行ってみたい、とか色々夢や空想をふくらませていたのですが、イマドキの時刻表がすっかりつまらなくなっているのにがっかりしました。

このつまらなさが何なのか、ブログを書き始めたものの、恨みつらみの羅列みたいになってしまい、読み返して嫌になり書くのを止めたのですが、「時刻表にも愛読者がいる」という宮脇俊三の名著「時刻表2万キロ」の始まりの一文を思い出し、読み返してみたくなりました。

検索すると、Kindle化されているのを見つけ、早速ダウンロードしてみました。

時刻表の面白さは幹線にある。特急・急行・快速・各駅停車などが過密ダイヤでひしめき合い、抜きつ抜かれつの混戦状態を呈していながら、それぞれの列車には起承転結があって、えもいわれぬものがある

いきなり今の時刻表がつまらなくなった理由がでてきました。この本で描かれた旅は昭和50年から52年の話で、新幹線は東京-博多間だけ、東北本線では「特急ひばり」と「急行まつしま」が、上越線では「特急とき」と「急行佐渡」が抜きつ抜かれつしていた頃です。

宮脇さんが亡くなられて既に10年、今もご存命でもおかしくない年齢です。その後、ブルートレインや夜行列車、急行列車がほぼ絶滅、九州新幹線が開業、といった変化があり、そして今月の北陸新幹線開業、東京駅発の湘南電車もほぼ絶滅、「それぞれの列車の起承転結」が全く感じられなくなった時刻表を手にとって宮脇さんはどう感じているか、知りたいものです。

Kindle版で読む

久しぶりに時刻表2万キロをじっくり楽しませてもらいました。しかしながら、とても残念なことにこのKindle版、誤植がかなり多いです。

電卓はこの工場の中に突っ込むように右に曲がり、広い京浜運河に接して停車した。
最終列卓でありしかも急行であるから
私の末乗区間は、この珠洲から先き終点蛸島までのニ駅で
秋田県の残存三線区を一目で乗り換えるには

特に「車」が「卓」になってしまっている箇所が目につき、鉄道が主役の本だけにシラケます。OCRで読み込んで校正をしていないのがバレバレ、出版社の責任なのか、アマゾンの責任なのか、いずれにせよ、著者として校正できないのを宮脇さんが歯噛みしているのは間違いないでしょう。

それでも読み進むに連れ、誤植にも慣れ、どっぷり宮脇ワールドに浸ることができました。紙の本と違って、マーカーで気に入った箇所に印をつけて後から一発検索で読み返したり、分からない言葉や気になった言葉をWikipediaで検索しながら読み進むことで宮脇ワールドの新しい楽しみ方も見つけました。

この本に登場する路線の多くが既に廃線になっています。その廃線になった路線名を検索して、どんな駅があったのか、どんな車両が使われていたか、廃線後の今の様子なども簡単に知ることができます。

例えば九州の国鉄完乗の最後の路線として登場する室木線、実は自分も乗ったことがあります。自分が乗ったのは8620型蒸気機関車(ハチロク)が牽引する3両編成くらいの客車列車(確かぶどう色のオハ61)でした。宮脇さんの乗車した列車も客車列車ですがディーゼル機関車なので自分の方が先です。Wikipediaで調べてみると、蒸気機関車は昭和49年まで走っていたようで、自分は高校生だったとわかりました。

室木線の他、バリバリの新車として登場したばかりのキハ66系「急行はんだ」に乗ったことも思い出しました。写真がどこかにあるはずなんですが、もっと思い出したら改めてブログにまとめてみたいと思います。

線の旅

鉄道好きということの他、酒好き、愛煙家、神経質っぽいところとか、自分との共通点をいくつも感じることも宮脇ファンである理由ですが、それ以上に、その簡潔で洒落が利いていて、それでいて余韻の残る客観に徹した描写がたまらなく好きです。

翌朝六時少し過ぎに玄関に下りると、帳場に人影はなかったが、中央に私の靴がきちんと揃えられ靴ベラが差し込んであった。

いい宿に泊まったということが靴ベラだけでわかります。

(注文したフク刺しに)飛び切り薄いのがあったので、箸でつまんで透かして見ていたら、絣姿の店の姐さんがきて「なにか気に入らんと」と訊ねた。

悪い店じゃなさそうだけどイマイチ気に入らないお店に入ってしまった宮脇さんです。

幼い子どもが一人、列車に向かって一生懸命手を振っている。どこでも見かける沿線風景だが、乗客は私一人しかいないのだから放ってはおけない。窓をあげてこちらも手を振りはじめたが、遮るものがないのでいつまでも見通しがきく。(略)豆粒のようになっても、(略)私も手を休めることができない。

宮脇さんの優しさの真骨頂です。

さいわい、運転士の右うしろの二人掛けの席があいていたので、そこに座った。

行動パターンも自分と一緒です。これを自分はカブリツキと呼んでます。京阪特急や南海高野線2300系等で今も楽しめます。

大方の観光旅行を点とすれば、私のは線で、地理は面ということになろうか。

イマドキの時刻表がつまらなくなったの原因を集約するとこれだと思います。長距離の移動は飛行機か新幹線、在来線は第三セクターになり、細切れにされ、旅で「線の移動」を楽しめなくなってしまいました。時刻表や鉄道会社が悪いのではなく、時代の変化としかいいようがないと思います。かつての「ディスカバージャパン」ではなく、「ディスティネーションキャンペーン」になっているのも「線の移動」の時代が終わったからではないでしょうか。

線の移動ができなくなって、鉄道の旅がつまらなくなったにも関わらず、宮脇さんが「児戯」とも例え、かつての人前で自分は鉄ちゃんだと言うのが恥ずかしかった時代が終わり、逆に今や鉄道趣味かなりメジャーな存在になりました。

「線の移動」から「点の移動」に変化した鉄道の真骨頂としての新幹線のサービスの充実や、「ディスティネーションキャンペーン」で「点」に移動した先の「面」の移動を楽しむリゾート列車、鉄道会社のイベント等が今の鉄道趣味を支える一方、今も断片的に残る「線の移動」の時代の遺物へのノスタルジーが渾然となって今の鉄道趣味の広がりを見せている、とまとめていいでしょうか。

「線の旅」は終わり「点から点への旅」「点を面として捉えた旅」に「時空の旅」が鉄道趣味の世界になった、と思います。いつまでも「線の旅」に拘らず、「点の旅」「面の旅」「時空の旅」を楽しんだ方が得ということのようです。

気仙沼線

もうひとつ、今の時期だからこそ書いておきたい、書かなければならないことがあります。

「時刻表2万キロ」では足尾線間藤駅で国鉄を全線完乗するのですが、そこで終わっていません。最後にもう一章、「気仙沼線-開通の日」があります。完乗を成し遂げた昭和52年、その12月11日に気仙沼線の柳津-本吉間が開通、新たに乗るべき路線ができたことで、宮脇さんはその開業初日に気仙沼線に乗車しています。

気仙沼線沿線、とくに志津川町民による鉄道敷設の陳情は明治三〇年頃からはじまっており、悲願八十年と言われる。
(柳津駅は)日の丸の小旗を持った町の人たちが、ホームの端から端まで、(略)埋めつくしている。
(志津川駅に着くと)サッカーでもやれそうな広い駅前広場はびっしりと人間で埋まっていて、思わず口を開けて見下ろしたところ五千人以下ではない。一万人ぐらいかもしれない。
焦茶色に日焼けし海風に鍛え抜かれたおばさんたちが、花笠をかぶって一連に並び片足をあげて踊る。なんだか申し訳ないような気がする。しかしその顔は嬉々としていて、駆り出されの翳りは微塵もない。
短いスカートの(略)女子高校生のチームもいる。(略)この少女たちが、どうしてあのおばさんたちのようになるのかと思う。
(また赤字線が増えたというマスコミの批判論調に対し)むずかしい問題ばかりだが、私には、駅頭で妙な踊りを踊る日焼けしたおばさんたちの顔だけが、たしかのものに思われる。

八十年の悲願が実現した日を見た宮脇さんの目を抜粋させてもらいました。

それから33年と3ヶ月後の同じ日、あの大津波がやってきました。同じ11日です。3が並んだのも偶然でしょうか。

志津川町はその後の合併で南三陸町になりましたが、志津川はその中心地です。志津川駅周辺の航空写真を見ると、荒涼とした更地が広がる中、駅の東の方にポツンと鉄骨だけが残された防災庁舎が見えます。避難のアナウンスを続けながら津波に飲み込まれ亡くなられた女性の悲劇の場所です。

37年前、日焼けした踊りを踊っていたおばさんたちや、女子高校生のチームの人たちはどうされているのでしょうか。

平成24年8月BRT方式により気仙沼線は仮復旧しました。鉄道の頃より本数も増え便利にもなっているようですが、南三陸町のアンケート調査では、BRT継続よりも2.5倍以上の人たちが鉄路復旧を望んでいました。悲願80年で実現したことが僅か33年で壊されてしまったことへの思いは強いはずです。