母のこと
母が亡くなりました。82歳でした。告別式でごあいさつさせていただきました。個人名削除等、一部変更しています。
母は昭和6年8月1日大阪市阿倍野区で5人兄弟の次女として生れました。通夜、告別式には小学校や女学校以来のお友達の皆さんにもご参列いただきました。実に70年以上の長いお友達です。
昭和32年に大阪府岸和田市へ嫁ぎ、私と弟が生れます。 しかし、父は列車事故で早逝、服飾専門学校講師として祖父母とともに私たちを育ててくれました。 その後、大阪本町でクチュリエを経営、その当時、小学校の同窓会で幼なじみの義父と再会、再婚に至ります。
私たち兄弟の母だけでなく、義妹、義弟の母となります。ふたりの、受験や自立、そして新たな家庭を築き上げるのを見守り支えてきました。
母としてだけでなく、開業医の妻、クチュリエの経営者、と、ひとりで何役もこなすことになります。 やがて、7人の孫たちのおばあちゃんとしての役割が加わり、短歌や太極拳のコミュニティのメンバーとしての役割も母の生活の大きな部分を占めるものとなりました。
経営者としての才能だけは、いささか疑問でしたが、母として、妻として、おばあちゃんとして、コミュニティのメンバーとして、不思議なくらい、とても器用にいくつもの役割をこなしていました。 それと5人兄弟姉妹の要として、また甥っ子姪っ子たちの伯母としての役割も小さくなかったと思います。
ITとか機械とかは全然ダメで、器用ということばはあまり母にはしっくりこないのですが、思い出してみると、洋裁も料理も上手く、意外と器用な人だったんだ、と今になって気付かされます。 厳しさとかにはあまり無縁で、どちらかというと周りにも自分にも優しい人だったと思います。
器用に人生をこなしてきたのは何故なのか、このごあいさつを考えている中で気づきました。
母は、きわめて「人を愛することに長けた人」でした。
ふたりの夫、4人の子どもたち、7人の孫たち、兄弟姉妹、甥っ子たちや姪っ子たち、小学校や女学校以来のお友達、仕事のお仲間、コミュニティのお仲間、皆を愛し、それぞれの人達のために何をすればいいのか、を常に考えていた人だったと思います。
結果82年の幸せな人生を全うしました。
離婚や事業の失敗で、母に心配をかけつづけた私が、このようにごあいさつできる機会をいただけけたのも、母の思いがもたらしてくれたものと感じています。
去年の花見の頃、近所の高津神社へ母と花見に出かけました。
境内に大阪市歌の歌碑を見つけ、母が突然歌い出しました。こんなメロディーです。
友達の多い母でした。