文久三年のミナミ

残念ながら休刊になった大阪人、最後の一冊、5月号増刊、古地図で歴史を歩くに改正増補国宝大坂全図という古地図が付録に付いてました。

※追記(2024/8/15):以前アップしていたデータが消えてしまったので、筑波大学のサイトにアップされていたファイルにリンクを貼っておきます。

文久三年、新選組ができた年です。土方歳三や沖田総司も京から大坂まで足を伸ばしていたはずです。坂本龍馬が脱藩して勝海舟と出会い神戸の海軍伝習所の塾頭を務めていたのも文久三年、土方や龍馬がいた頃の大坂です。

左上の正方形に並んだ四つの橋が四ツ橋です。いずれも戦後になって埋め立てられてしまった長堀川と西横堀川がクロスした位置に、上繋橋、炭屋橋、下繋橋、吉野屋橋の4つの橋がかけられています。

四ツ橋から長堀川の2つ目の橋が心斎橋、心サイバシ、と記されています。この北側が船場です。丁稚さんたちが走り回っていたはずです。周防町、鰻谷といった馴染みある地名も見受けられます。

心斎橋から東へ3つ目の橋が長堀橋、これを南に向かうと日本橋、つまり今の堺筋ですね。さらに東へ進むと東横堀川に出ます。阪神高速ができる前の東横堀川はさぞかし開放的な感じだったと思われます。安堂寺橋、末吉橋、久之助橋、瓦屋橋、上大和橋、と今も全く同じ橋が揃っているのは奇跡的かも知れません。

東横堀川から西へ道頓堀川に入ります。下大和橋、日本橋、相生橋、文左衛門橋、戎橋、大黒橋と並んでいるのも今と同じ。道頓堀五座が赤く印されています。今のように川の歩道のようなものはないので、時代劇のセットに出てくるようなお堀の両岸に芝居小屋や店舗が並んでいた風景が目に浮かびます。


大黒橋から南に斜めの水路が新川です。そのつきあたりが難波御蔵とあり、この平行四辺形、今の南海難波駅そのまんまですね。この難波御蔵、災害時の救援米貯蔵のために幕府が設置したものだそうで、今のなんばパークスのあたりです。

この難波御蔵の周囲は×が並んでいます。何かなと調べてみたらおそらく畑です。つまり市街地を一歩でるといきなり田園風景が広がっていたようです。この畑の産品で知られるのがネギで、鴨南蛮そばの南蛮は難波ネギが語源との説があるのですが、鴨南蛮は江戸が起源と思われ、これはちょっと眉唾です。

今と違って物流環境が整っていないので、大都市のすぐ周りに田畑がないと都市の生活がなりたたなかったはずです。難波は今でこそ大阪ミナミの中心ですが、当時は西成郡難波村という独立した自治体でした。難波御蔵の西側の集落が難波本村で今の難波元町あたりです。この時代の難波は交通拠点や商業集積地ではなく、大坂の食料供給基地だったということがわかります。地図の一番右下隅に池が見えます。茶臼山です。このあたりは天王寺村になります。やはり周囲に田畑が広がっており、天王寺も難波同様に食料供給基地だったはずです。

今の千日前通りにあたる道が見当たらないのですが、道頓堀中座の南側に法善寺、竹林寺があって、その南側に千日ハカとの表記があります。落語のらくだにも登場する千日前の墓地がここですね。今の千日前の繁華街そのものが墓地だったのがはっきりわかります。墓地と竹林寺の間に刑場と表記されています。

その東側の通りの目の細かいところはシンチ、つまり難波新地で、遊郭だったところです。墓地や刑場に劇場や歓楽街、遊郭が隣接していたわけです。

今よりずっと生死が密着した社会だったことが伝わってきますが、この刑場から遊郭のあたりが東西に拡張されて千日前通りになったようです。

千日前通りはないものの、東へ向かうとクランク状の運河があります。今は影も形もありませんが、国立文楽劇場のあたりです。そのまま東へ進むと下寺町、お寺がびっしりつまってるのは今もそのまんまです。その中の赤い部分は生玉神社で、源聖寺坂もきっちり描かれています。推測される千日前通りの位置からするとこのあたりは南北の位置関係がずれてしまっているようです。

このまま真っ直ぐ行って上六に帰ります。一枚の古地図でじっくりタイムトラベルを楽しませてもらいました。