ヨタカ

お城の桜広場に数十人のバーダーさんがひとかたまりになって、梅林南端の林に向かってレンズを向けています。

レンズの砲列の先にいたのはヨタカ、この辺りにいるとは聞いていたものの初めてお目にかかりました。太い枝にどっかと腰を下ろしてじっと動きません。夜行性なので薄目を開けてはいるものの、まだお休み中です。

ヨタカといえば宮沢賢治のよだかの星、国語の教科書の挿絵のヨタカも確かこんなポーズでした。ヨタカが醜い鳥ということしか覚えていないので、Kindle版で読み直してみました。

嘴がすごく小さいですが、よだかの星では口が耳まで裂けていると描かれています。ググってみるとヨタカのあくびシーンがありました。グロテスクにすら見えます。

よだかはその醜さで他の鳥たちに嫌われ、蔑まれ、虐められ、かぶとむしが自分の大きな口に飛び込んできて無理やり飲み込んでしまうような(他の命を大切にできない)自分を自己嫌悪し、結局は自らの死を選びます。

よだかは夜空を高く高く飛び、カシオペアの隣に輝くよだかの星になるのですが、かわせみとはちすずめ(ハチドリ)がよだかの兄弟で、よだかがかわせみに別れを告げるシーンがあります。ヨタカはヨタカ目ヨタカ科でヨタカ目の近縁にハチドリ科が属するアマツバメ目があるので、ヨタカとハチドリは兄弟とは言えないまでも親戚と言えそうです。しかしカワセミはブッポウソウ目なので全く他人です。

宮沢賢治は鳥のことを知らないのか、ググっていたら、ビデオ講座宮沢賢治の内なるバードウォッチングというページを見つけました。4編全部で1時間半くらいのビデオ講座が聴講してみました。(Flashなのでスマホでは聴講できません。)

賢治は自然の通訳者であるというバードウォッチャー視点の宮沢賢治論です。賢治は天文学だけじゃなく、鳥にも詳しく、作品には70種類もの鳥が登場してるそうです。カワセミ、ヨタカ、ハチドリがなぜ兄弟なのかについても答えが見つかりました。どうやら当時の分類学ではヨタカもブッポウソウ目に入っていたようです。


大阪城はいつも以上に観光客がいっぱいですが、50m離れただけの神社裏~講道館裏には誰もいません。バーダーさんたちもいません。神社裏は何十羽もカラスがいてちょっとおっかないので、講道館裏で石垣に上ってみました。

キビタキ♀(たぶん)とカワラヒワ。

コゲラが木を叩かないで、忙しく小枝を移動しながら葉っぱをつついています。まるでキツツキじゃなくなってます。

シジュウカラが水たまりで入浴中です。

キビタキ♀(たぶん)

こちらはコサメビタキ、嘴の裏側の根元部分がオレンジです。コゲラがやっといつものキツツキに戻ったようです。珍鳥に会うのと同様に、見慣れた鳥たちの見慣れない生態を見るのもバードウォッチングの大きな楽しみです。


よだかの星をさらにもう一度読み直してみると、賢治とは違う視点にたどり着きました。

ヨタカの口が耳までさけているのは、労せずして餌になる虫が向こうから入ってきてくれるため、味噌をつけたような顔は、木の枝に擬態して虫をおびき寄せるため、よぼよぼの足は、木の枝にどっかと安定して座るため、醜い姿はヨタカにとって最適の進化を遂げてきた結果とも言えそうです。

カワセミやハチドリが美しいことも、コサメビタキの愛らしいことも、コゲラのドラミングが心地いいリズムに聞こえることも、人間のための演出ではありません。自分たちが生きていくための最良の手段として進化してきた結果を人間が主観的に評価しているだけです。

ヨタカの醜さもあくまで人間の主観であって、タカやワシががっしりした足と鋭い爪をもっていることと同様に、この醜さこそがヨタカの生きる手段であって極めて合理的です。だとすると、実在のヨタカたちは、よだかの星のヨタカのように自己嫌悪したりしていなくて、人間から見た醜さそのものに誇りを持っているような気がしてきました。

じっと動かないヨタカが、とりとめのない思索の世界へ誘ってくれました。

とても宮沢賢治のようにはなれるはずはないものの、その何十分の一でも、自分も自然の通訳者になりたいものです。