のんのんばあとオレ

去年、出張帰りに訪ねた境港の水木しげる記念館で買い求め、帰りのバスであっという間に読んでしまったのを、改めて読み直してみました。実にすばらしい作品に惚れ直しました。

既に読まれたことがある方も多いのではないかと思われますが、著者が小学生だった昭和初めの境港が舞台、村木家(著者の本名をもじっています)のお手伝いさんだった、信心深く妖怪のことに詳しい「のんのんばあ」と著者の思い出を綴った一冊です。著者が「ゲゲゲの鬼太郎」を生み出す原点がこの「のんのんばあ」だったことを、情緒たっぷりに描いてみせてくれています。

自分は水木先生より数世代若いので、全く同じではありませんが、それでも子供の頃、廻りにこの作品と似た感じの人がいっぱいいました。

母方の祖父の家にのんのんばあによく似た感じの「おまさどん」というお手伝いさんがいました。ずいぶん長く祖父の家で勤めてくれていて、殆ど家族同然でした。いささか太っていたので、従弟や弟とそれをずいぶん揶揄して叱られたことや、悪さをして、のんのんばあの聞かせてくれる話のように、なんか怖いお化けが出てくるよ、と聞かされた記憶もあるのですが、残念ながら、水木先生のように、どんなお化けなのかとか具体的なことは思い出せないです。

主人公のお母さんが二言目には「私の生家は苗字帯刀御免の家系で、家紋だってお殿様の裏紋をいただき、倉が3つあった・・・」と持ち出すのですが、「だからどうした、今落ちぶれてたらしょうがない」という会話、境港同様に古い町で生まれ育った自分の環境そっくりです。

それから主人公のお父さん、実にいいキャラクターしてます。町で初めて東京の大学を卒業した銀行員ですが、副業で映画館の経営を始めて、銀行は宿直を途中で投げ出してクビに。おまけに映画館の映写機が盗まれて、大阪の生命保険会社に勤めるものの、久しぶりに境港に帰ってきたら大阪に戻るのが嫌になって、結局生命保険会社もクビに、という人です。

自分が3歳くらいまで存命だった曽祖父が、映画館を経営したり、市会議員をやったりして、身上を潰したとよく聞かされました。曽祖父の記憶は全くないのですが、たぶんこのお父さんみたいな人ではなかったか、と想像しています。

でもこのお父さんのセリフ、作品の中ですごく大切な役割をしています。例えば、「シャレを愛する心が文化なんだ、金なんか餓え死しない程度にあったらええ」とか、水木先生自身の人生観なのかも知れません。

この作品では、死んでしまう子どもたちが多く登場します。自分の幼稚園から小学生低学年の頃、友だちが少なからず死んでしまったのをよく覚えています。中学、高校では友だちが死んでしまったという経験はありません。医療技術だけじゃなくて、環境衛生も、食事による栄養摂取も今とくらべてかなり貧弱だった訳で、それは昭和30年代でもまだその進化の途中だったんだ、と気付かされます。水洗トイレが普及したのも万博以降でした。

この作品の時代の後、世間は戦争へと向い、先生自身も出征、南方戦線へ送られ片腕をなくして帰還、極貧生活を送りながら、漸く妖怪漫画家として認められるまでの長いつらい人生を送ることになるのですが、この作品の時代の思い出や経験が、この超楽観主義者を支えてきたんでしょうね。

夢と希望を与えてくれるSFの手塚、全てを笑い飛ばしてくれるギャグの赤塚と並んで、古いものを大切にする心を教えてくれる水木作品は、ボクらの世代の大きな宝物であり、とってとても幸運だったと言えると思います。

さて、境港の写真をアップしておきましょう。

境港線のねこ娘列車です。座席の布地、天井、トイレの壁までねこ娘、車内アナウンスは鬼太郎とねこ娘のペアで米子から境港まで案内してくれます。

鬼太郎列車、目玉おやじ列車、子泣きじじい列車です。何が来るかはお楽しみ。

境港駅から水木しげる記念館まで徒歩約15分、町中に妖怪のブロンズ像が設置されています。ハンパじゃない数です。写真は本作品にも登場するあかなめとあずきはかりです。

水木しげる記念館とおみやげ屋さんだけじゃなくて、境港には古い町並みが残っています。海の方にでると、「のんのんばあとオレ」のカラーページの絵とそっくりの風景が広がります。白い客船は隠岐へ向かう高速船です。

駅の売店で見つけた「竹島ものがたり」、白餡のお饅頭です。日の丸楊枝が付いてます。

鬼太郎のポスト、目玉おやじの街灯、この町のこだわりはハンパじゃなかったです。

のんのんばあとオレ