大阪人3月号

「大阪人」去年、タウン誌的な構成から文芸誌的構成に変わり、前号の「鉄道王国・大阪」特集もかなり読ませる内容だったのですが、今号は「司馬遼太郎は『大阪』をどうみていたか」という特集です。

巻頭に、

昭和・平成を生きる日本人の歴史観や文明観、人物観に、彼ほど大きな影響を与えた作家はいないだろう…(中略)…大阪を舞台にした物語やエッセイも数多く、司馬遼太郎が大阪に向けた視線を知ることはこの街で暮らす楽しみの一つでもある。

とあるのですが、これだけのことをいえる内容の濃い特集です。

司馬作品で描かれた大阪のスポット紹介、大阪人による司馬作品読み解き方の対談、司馬が愛し、歩いた街や店を訪ねる、といった、雑誌としてはオーソドックスな切り口ではあるものの、編集者たち自身が、編集者であるよりも、まず司馬ファンだ、ということが伝わる内容です。

「司馬遼太郎クロニクル」では、作品がかかれた年代順ではなく、作品の内容の年代で分けられています。この切り口は他になかったと思います。

圧巻は、全文掲載された、司馬64歳の頃のエッセイ「大阪の原形」です。

五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。この丘陵には水流がなく、水田もなかった。従って、農民はほとんど住んでおらず、むしろ漁民の住む浜だった。この上町台地という変形的な小半島のまわりは、古代の港だったのである。

ビルが並びたつ自分ちの近所の1500年前がどうだったかが目の前に浮かぶような描写です。

「十三、四世紀のころ」の項では、夕陽ケ丘の由来を教えてくれます。単に夕陽がきれいな場所ではなく、「難波の四天王寺の日想観」として知られる仏教の修行のひとつの場だったそうです。

「十五世紀のころ」の項では、石山本願寺をたてた蓮如について語っています。

蓮如が日本の社会に果たした役割は、この国ではじめてヨコの組織をつくったことである。

蓮如は四天王寺という既成の権威に遠慮をし、そのそばに寺を建てようとはしなかった。他の一方のはしである北端(いまの大阪城の位置)に建てた。

「民尊官卑」の大阪の風土の源流は、はるか十五世紀に始まったようです。

しかし、石山本願寺は釈迦や親鸞から離れ、世俗化貴族化し、腐敗していきます。そこに登場するのが信長です。仏教界の腐敗ぶりは仏教徒である司馬をして、信長の叡山焼き討ちについて「信長を攻める気持ちがおこらない」と言わせるほどでした。

十年の戦いを経て漸く信長と本願寺は和睦するものの、翌々年には本能寺の変、信長が大坂に城を築くまでに至りませんでした。しかし、信長は全国の港とつながる穏やかな瀬戸内海という水路に面し、京都とも近い大坂の地理的優位性に着目し、革命家であり、明晰を愛した信長が、大坂に首都をつくろうとしていたにちがいないと司馬は述べています。

その信長の着想を実現し石山本願寺跡に大坂城を築いたのが秀吉です。秀吉の築いた大坂城は今の大坂城の5倍もの広さ、天守閣もはるかに大きなもので、ここで興味深いのが、土木技術者としての秀吉という司馬の視点です。墨俣の一夜城を築き、出世してからも自らの長浜城を築き、姫路城や、さらには安土城で腕をふるってきた訳で、大坂城のマスタープランは秀吉自身がつくったにちがいないと語っています。

秀吉が日本史のなかでやった最大の事業は、貨幣経済(もしくは流通経済)について徹底的な合理化をはかったことだった。…秀吉は、全国経済のただひとつの核を大坂に置くことによって、日本じゅうを支配したのである。それ以前にはなかった統治機構といっていい。

この秀吉が築いた経済機構は、徳川の時代になっても、政治的な首都の江戸と、経済的な首都である大坂へと引き継がれます。そして江戸時代の大坂での商工業の発展、合理主義的思想の発展、そこで育まれた大阪人の独立心、とさらに分かりやすく司馬は説明してくれています。

雑誌記事で、大阪をキーワードにした日本通史を、これだけじっくり学べるとは思いませんでした。680円だと申し訳ないくらいです。