八瀬と大原

修学院離宮を造営した後水尾天皇のことを調べていると隆慶一郎の花と火の帝に辿り着き早速ダウンロード、後水尾天皇の隠密として暗躍する八瀬童子、岩介の物語です。ガンスケなのかイワスケなのかふりがなが付いておらず、父親の岩兵衛が岩介を「岩」と呼んでいるのでどうやらイワスケのようですが、自分はガンスケで読み進んでいます。

叡電叡山本線の終点、八瀬比叡山口駅のある八瀬。酒呑童子の子孫とされる八瀬童子が、足利尊氏に追われた後醍醐天皇の輿を担ぎ坂本まで駆けに駆けたことにより、以降地租課役の永代免除の綸旨が下され、選りすぐられた長身で頑健な成年男子が鳳輦や輿を舁ぐ駕輿丁として禁裏に勤めるようになり、輿を舁ぐだけでなく様々な雑用を担い、やがて必然的に「天皇の隠密役」を果たすことになります。

八瀬比叡山口駅周辺はごく狭いものの、北へ進むと谷が広がり家屋も増え「八瀬近衛町」というそれらしき地名が今も残されていて、この小説が空想だけのものではなく、史実を土台にしていると分かります。まだ小説の上巻の6割ほどまで読み進んだばかり、天皇の隠密、岩介が大坂方真田の隠密、猿飛佐助と仲良くなったところですが、カワガラスにも会えるかもしれないという期待もあって早速八瀬を訪ねてみることにしました。

天満橋駅3番線に下りると臨時特急と掲げた6000系、春の行楽シーズンで今日から運行されている臨時特急ですが、やはりロングシートはつまらないので3分後の8000系特急にしました。前回投稿の淀川左岸を自転車を漕いでやって来た木津川の土手には菜の花がいっぱい。

出町柳で乗り換えた叡電700系712、徹底的にリニューアルされた内装は新車レベルです。

鞍馬行が2両編成、八瀬比叡山口行は単行なので、鞍馬方面が本線ぽいですが、宝ヶ池駅で八瀬比叡山口行は直進、本線であることを誇示しています。

2月に再リニューアルされたばかりの700系731「ノスタルジック731改」とすれ違いました。おでこに大きな前照灯が取り付けられ悪くないのですが、サビ色の屋根の塗り分けがどうもしっくりしないです。

近鉄吉野駅を小さくしたような八瀬比叡山口に到着。目前に山が迫りまさにドンツキですが、吉野駅と違って通り抜けられる構造になっています。ちょっとググってみると大原方面へ延伸じゃなくて琵琶湖へ抜ける長大トンネルを掘る構想があったようです。

乗ってきた700系712が佇んでいる八瀬比叡山口駅です。

八瀬を歩く

駅前で渓流釣りの人、ターゲットはアマゴあたりと思われますが、カワガラスは不在。

ソメイヨシノは0.1部咲きくらい。聞き覚えのある鳴き声が聞こえヤマガラが見えたものの撮れず。

一年前には「橋桁の緊急点検実施のため通行止め」になっていた橋が完全に撤去されていてビックリ、どうやら点検の結果、完全に架替えすることになったようです。ケーブルカーに乗るにはかなり遠回りになります。

「ひえい」が到着。

この橋の向こうがケーブル八瀬駅。大津側の坂本ケーブルは通年営業ですが、叡山ケーブル・ロープウェイは冬季運休で3月20日に今年の運行再開したばかり。

八瀬地区にある唯一のコンビニ、セブンイレブン京都八瀬駅前店。駅前店とはいうものの八瀬比叡山口駅から400mも離れています。駐車場の一画に灰皿やベンチの置かれた快適な休憩スペースがあります。

国道367号若狭街道、大原まで7km、朽木まで40km、その先小浜まで100kmです。

堰堤が続く高野川、2mもあるような堰堤をアマゴたちはジャンプしていくのでしょうか?

キタテハです。

若狭街道とその旧道の分岐点、もちろん旧道を進み、さらに分岐した川辺の道へ。

八瀬鱒乃坊アーバンコンフォートというめちゃいい環境にある八瀬で唯一の大規模集合住宅です。敷地内に池のある美しい公園も設けられています。結構お高そうですが、分譲だけでなく割と手頃な価格の賃貸もあるようです。これが田園の広がる大原に建っていたら異様ですが、八瀬では周囲を囲む山に溶け込んでいて、バブル期頃の築とは思えない秀逸な設計だと思います。ただネーミングがいけません。アーバンコンフォートじゃなくてルーラルコンフォートにすればよかったかと。

川辺の桜はたぶんヒガンザクラ、三角の山は横高山767m。あの山の向こうは延暦寺の横川エリア。

タンポポの蜜を吸ってるキタテハ。

川辺の道から若狭街道旧道に戻ると猫猫寺、ニャンニャンジと読み、宗教施設ではなくアートギャラリーだそうな。

ヤブツバキが美しい。若狭街道の新道と旧道が交差する地点の北側に八瀬近衛町の住宅が広がっています。空には魚の骨のような薄い雲、肋骨雲というそうです。「花と日の帝」で岩介を鍛える天狗が登場するような雰囲気を少し感じさせます。

八瀬比叡山口駅からアーバンコンフォートまでが八瀬野瀬町、その北が八瀬近衛町、高野川左岸が八瀬秋元町、北端に八瀬花尻町と4つの町で構成された八瀬、北は大原、東は比叡山で滋賀県境、南は上高野、西は岩倉に囲まれた狭いエリアです。2017年の国勢調査では八瀬地区の人口は1787人で829世帯、アーバンコンフォートの182戸が2割くらいを占めているようです。

住宅地に入ると何の変哲もない近衛公園、周囲に遊べる場所がいっぱいありこの公園はあまり利用されていないようで砂場にはネットが掛けられていました。

八瀬保育園には八瀬童子育成のためか体を鍛えるような遊具が多いような気がします。

保育園の裏はすぐ高野川、保育士さんたちは子どもたちから目を離さないように他の保育園以上に気を使っていることかと。スロープのついた堰堤は魚には上りやすそうです。

川の左側が八瀬近衛町、右側は八瀬秋元町です。何度も川面を覗いているのですが魚影は全く見えません。

八瀬消防分団の詰所と器具庫、その隣に芝生で覆われた広い敷地の真ん中に何やら曰くありげな小さな蔵は、天皇から八瀬童子への綸旨や京都所司代の下知状等が保管されていた八瀬童子会宝庫と分かりました。

自分の後ろには左京区役所八瀬出張所がありこの辺りが八瀬地区の中心のようです。Wikipediaによると八瀬の伝統を守るための社団法人八瀬童子会には約110世帯が所属とのこと、アーバンコンフォートを除くと2割近い世帯が参加していることになります。地域社会の団体としては驚異的な結束力かと。

一方「花と火の帝」によると、かつては「嫁を絶対に他村からとらず、女の子は絶対に他村に嫁がず、男たちも離村することは許されない、異常なまでに閉鎖的な暮らし」だったようです。その閉鎖性ゆえに多くの悲劇もあったことかと思われますが、幼なじみの岩介と妻のとらは羨ましいような幸福な家庭を築いています。

ムスカリです。

「八瀬かまぶろ温泉ふるさと」です。近くにある「ふるさと前」バス停の謎が解けました。日帰り入浴もできる宿ですが、コロナ以降ずっと休業のままのようです。和式サウナのかまぶろに入浴でき、庭には壬申の乱で矢を受けた大海人皇子が傷を癒やしたかまぶろの史跡が残されているそうです。背に矢の矢背が八瀬の語源らしい。営業再開されたらぜひ再訪してみたいと思います。

八瀬天満宮社の朱色の鳥居が見えてきました。垣根の下にヤマガラ見っけ。拡大するとゴミ収集所のネットから2mくらい右、石垣の上にピンボケのヤマガラがいます。

飛び立って電線の上に止まったヤマちゃんの後ろ姿です。

ヤマちゃんが電線から木の枝に移動したと思ったらカワラヒワに変身していました。

ヤマガラがいた木立の裏側は狭い畑、農家の繁忙期が始まっているはずですが八瀬で農作業しているところは見かけませんでした。

石垣からパイプが出ていてしめ縄と紙垂が掛けられています。大切な湧き水のようです。

オオイヌノフグリの蜜を吸っている小さな茶色い毛むくじゃらのハチ。

朱色の鳥居を抜けると砂利の道がまっすぐ、周辺には少ない空間が両側に広がっているものの耕作されてはいないようです。

砂利道は石段に続き、八瀬天満宮の本殿、両側に摂社が並んでいます。「花と火の帝」で異能を習得した岩介を父親の岩兵衛が試すシーンがここです。

本殿の裏山に続く石段の脇に石碑、「後醍醐天皇御旧跡」と刻まれています。1336年(建武3年、延元元年)、足利尊氏に追われた後醍醐天皇が八瀬の村人に守られこの地を通り比叡山に逃れています。

切り株だけの杉の木に「区民の誇りの木」とあります。「花と火の帝」に度々登場する千年杉のことかと思ったのですが、小説ではもっと山の奥にあるような表現なので違うようです。

石段の脇に弁慶背比石、弁慶が比叡山から持って下りてきたと伝わる石で元は6尺あったものの現在は150cmほどになっているそうです。大海人皇子、弁慶、後醍醐天皇…、歴史上の有名人が勢揃いの八瀬です。

現上皇后陛下の歌碑、この地へ行幸されたのではなく、京都御所で八瀬の人々による赦免地踊りをご覧になられた時の御歌だそうです。赦免地踊りとは地租諸役免除の特権を守られてきたことを感謝する祭りで現在も毎年10月に行われています。

上述のWikipediaによると地租免除の特権は明治維新後に失われたものの、地租相当額の恩賜金が支給さえていたそうです。見てきたように山に囲まれた八瀬に田畑は殆ど無く、八瀬の人々が農業ではなく駕輿丁として朝廷に奉仕し、租税が免除されていた理由が理解できます。維新後も駕輿丁として歴代天皇の棺を担いでいて明治天皇や大正天皇の葬儀に参加、Wikipediaに掲載された葱華輦を担ぐ練習の写真で八瀬童子の様子がリアルに伝わります。

赤い鳥居の脇の集会所の表に高齢男性が集まっていたので、よほど八瀬童子のご子孫ですか、と訊いてみたかったのですが遠慮しておきました。せめて小説で紹介されていたように、この地では自分のことを「げら」、相手のことを「おれ」、母親は「うま」、父親は「のの」と呼ぶのか訊いて来ればよかったです。

長い歴史と独特の文化がある八瀬ですが、観光客向けの案内版とかはあるものの観光客は全然いません。カフェや土産物店、地元の人のための商店も見かけませんでした。農業が基幹産業ではないことは明らか、八瀬童子と杣伐夫らにより最古の座(同業者組合)が結成されたそうですが、製材所や土場(木材の集積場)も見当たらず北山杉の里のように林業が盛んだったともいいがたいです。

今や四条河原町辺りまでバスで40分ほどなので多くはサラリーマンだろうとは想像できますが、いくら地租免除で駕輿丁を務めていたとはいえ、この地の人々がどのような暮らしを営んできたのか、ふらっと一度訪ねただけではとても理解しきれない歴史がありそうです。それも行き止まりの山奥ではなく、昔も今も通行量の少なくない若狭街道沿いにある不思議な里です。

八瀬を後にして大原へ向います。途中高野川と歩道の無い若狭街道だけの谷になることを来る前に確認しておいたので、八瀬小学校の真ん前にある「ふるさと前」バス停から大原盆地の南端までバスに乗ります。かまぶろ温泉は休業中だし、はじめから「小学校前」にしておけばよかったかと。

バックミラーに映る八瀬小学校、立派な校舎ですが、調べてみると生徒数41人、教職員16人、アーバンコンフォートに住む子どもたちもここに通っているようですが、八瀬に中学校は無く修学院まで通うことになるようです。

「この地はよそ者を嫌いまんねん」という岩介のセリフのように、かなり閉鎖的な社会だった八瀬にアーバンコンフォートが計画された時にはかなりの反対があったがあったのではないかと想像できますが、結局それを受け入れ、かなり遅まきながら「よそ者」と共生する社会に変化してきたものと思われます。アーバンコンフォートがなければ八瀬小学校の維持は難しかったかも知れません。

土日のバスは1時間に4本あるのですが、13:51のバスは待っても待ってもやって来ず、2時を回って13:51のバスなのか、次の14:02のバスなのか分からないバスに乗り込み狭い谷を進みます。

花尻

ふるさと前から3つ目の花尻橋バス停で下車、土井志ば漬本舗本店に併設された「竈炊き立てごはん𡈽井」でランチ、なぜか土に点が付いてます。

さわら西京漬けとたけのこご飯のセットにしました。志ば漬は最初から付いてきますが、この他に10種類以上の漬物やおばんざいがバイキング形式で食べ放題。志ば漬ってもっと酸っぱいと思っていたのですがとてもまろやかな酸っぱさでした。おかわりは白ご飯だけになってしまうものの、かまどで炊いたご飯が美味しく大いに満足。

半端な時間だったので窓際の特等席、窓の外に土井志ば漬本舗の農園が広がっています。窓框に置かれた苔に挿されたマンリョウも素敵。

満腹して農園「志季彩の道」を散歩します。記念撮影用のどこでもドアが置かれています。

ソメイヨシノはまだまだですが、シダレザクラが見頃を迎えています。

堰堤にツバキの花を並べた高野川を渡る花尻橋までは八瀬花尻町、土井志ば漬本舗も住所としては八瀬ですが、地形としては八瀬の北端というより大原の南端です。

花尻橋を渡ると大原、橋の袂の森は花尻の森と呼ぼれツバキで知られるようですが、もう殆ど落ちてしまってました。

大原を歩く

「寂光院、左へ」の道を進みます。クリスマスローズがまだ綺麗。

電線にセグロセキレイ。

穏やかになった高野川に架かる元井出橋から振り返った八瀬の谷です。

元井出端から望む大原盆地。谷はさらに広がり宮川という小川が高野川へ合流する地点です。

民家の石垣の上にスギゴケとハイゴケ、苔に覆われた岩。後ろの車輪は大八車のものでしょうか、牛車かも知れません。

風情のある町並み、昔ながらの石垣やお屋敷が残り、かつての大原の里のたたずまいが残る一角だそうですが、誰もいません。人気観光地の大原も、人が多いのは三千院への参道付近だけ、寂光院へ足を伸ばす人もさほど多くないです。

宮川を渡ると広大な田園が広がり気持ちいい。作業中の農家さんも多く、八瀬とは全く異なる文化や生活のあることを感じさせます。

水の残る田畑も残り、タシギとかいそうな雰囲気ですが見つからず。モズとツグミ。

菜の花畑の向こうにぽっこり見えるのは蓬莱山1174m、振り返ると比叡山頂の展望台が見えます。

タンポポとツグミ。もうツバメがしきりに空を舞っているのでツグミたちは急いで南の国へ渡らなければならないはずですがまだのんびりモードです。

大原盆地のほぼ北端付近からの景色です。

ネモフィラの季節が始まっていました。期待していたカワガラスポイントですがご不在でした。川の左側の建物は京都大原学院、ずっと私立校とばかり思っていたのですが、京都市義務教育学校条例では京都市立大原小中学校だそうです。小中一貫校で小学校に相当する前期課程の生徒数は71人、八瀬小学校よりは大きいものの大差ない感じです。

この先、阿弥陀寺のある古知谷へ向いたいところですがもう遅いので次の機会に。京都駅行のバスに乗り、八瀬駅前でも出町柳駅前でも下りず四条河原町へ向かったものの川端二条辺りからかなりの渋滞、三条京阪前でバスを下りて歩くことにしました。

いつもの高田酒店です。この前の久美浜のお酒は期間限定だったらしく既に売り切れ、代わってマスターが選んでくれたのは佐々木酒造の「古都」、蔵之介さんとこのお酒です。

梅田に到着。

APPENDIX

大原から京都市中へやって来る行商の女性は大原女ですが、八瀬からやってくるのは小原女、販売品はいずれも薪や炭で、「花と火の帝」を読んでいてなんとなく体操の村上茉愛さんをイメージさせる岩介の妻、とらも小原女です。着物が短く膝を出す大原女に対し小原女は出さない、手ぬぐいやたすきの色が異なる等、装束も微妙に違っていたようです(参考)。とすると「花はいらんかえ」は大原女や小原女じゃないのでは、と調べてみると花を売っていたのは白川女、さらに桂女が鮎を売っていたそうです(参考)。

「花と火の帝」では、八瀬童子たちは八瀬バージョンの京都弁ですが、後水尾天皇も関白鷹司信尚もはんなり京都弁です。今年の大河ドラマ「光る君へ」は、お公家さんの眉毛が額の上の方に無いこと以上に京都弁じゃないことにすごく違和感があって結局見るのを諦めました。「どうする家康」で秀吉はおもいっきりみゃあみゃあ言ってたし、「西郷どん」はじゃっどん、おやっとさー、「八重の桜」でも綾瀬はるかさんが「さすけねぇか」だったのに、平安時代と現在の京都弁がかなり違ったとしても紫式部の東京弁は無いかと。