お早く御乗車ねがいます

昭和33年に発行された原著を平成23年に文庫化、それがKindle本になってました。昭和28年から32年頃の鉄話集で、「あとがき」に

この本は、中央公論社出版部の宮脇俊三さんという、奇特な汽車気違いのお蔭で陽の目を見ることになった

と明記されています。阿川弘之38歳、宮脇俊三31歳の頃です。(調べていて気付いたのですが、自分が尊敬してやまない宮脇俊三の誕生日、自分と同じでビックリ)

昔からディープな鉄ちゃんたち

今や鉄ちゃんの存在は社会的にも認められるものとなり、電車区見学会とか鉄道会社主催の鉄ちゃん向けのイベントが頻繁に行われたり、鉄道書籍コーナーで女性が立ち読みしていたり、鉄ちゃんマーケット自体かなりの規模になっているはずです。ちょっと前までは考えられなかったことで、鉄研といえばモテない部活の代表でしたし、自分が鉄道マニアだなんて大きな声では恥ずかしくて言えない雰囲気もありました。

がっ、この本を読むとディープな鉄ちゃんは、自分の生まれる前からも相当数存在していたことがわかります。

昭和12年から毎月欠かさず時刻表を買い求め、書棚に大切に並べている人や、全国の急行列車の時刻を殆ど暗記している人、大阪から京阪特急で京都→急行きりしまで岐阜→名鉄で豊橋→急行阿蘇で東京、というルートでの旅、等々、イマドキの鉄ちゃんと同じこようなことをやっている人が多々紹介されています。

隣り合った駅名で続けて云うと人名になる駅として「萩玉江(山陰線)」「金野千代(飯田線)」「高橋武雄(佐世保線)」とかをあげて遊んでいる人もいます。鉄道むすめの「石田あいこ」「栗橋みなみ」「船橋ちとせ」と発想が同じです。

作家はタレント

阿川センセー、雑誌や新聞の取材で、特急「はと」の機関士になったり、御殿場線のD52の運転したり、急行「銀河」の専務車掌に化けたりしています。実際に検察や乗客の案内をしたりと、よくある一日駅長とかじゃなくて、本当の実務を経験してレポートしています。今ならタモリや中川家礼二が役どころかと思いますが、JRがここまでの実務を資格のない人がすることを認めるとはちょっと考えにくいです。

昭和30年前後にアメリカやヨーロッパでのセレブな鉄道旅の話もいくつか入ってます。観光旅行としての海外渡航制限が解除されたのは1964年で、海外旅行がそれなりに一般化したのはジャンボが就航した1970年以降のことです。つまり阿川センセーはセレブ中のセレブだったことになります。ユングフラウヨッホへ登っているのが昭和33年とは恐れ入ります。

テレビが一般に普及したのも前回の東京オリンピック以降のはずで、それ以前は人気作家がイマドキのテレビタレントの役割をしていたんだなと気付かされます。特に阿川弘之、北杜夫、遠藤周作の3人の存在感はこの当時から大きかったはずです。

独特のゴーマンさやわがままもたっぷり

阿川弘之の文章って傲慢な感じが強くて、読むのが嫌になることがあります。文章の端々に人を見下したように感じられる表現が少なくないです。

本著に国鉄幹部職員の架空セミナーの様子が描かれています。そこでは国鉄職員の無料パスがけしからん、廃止せよ、と言ってる一方、山陽特急「かもめ」の試乗会に申し込んだが落選、ところがコネで広島管理局長に頼んで特別に試乗車に乗り込んでいます。

車内放送がうるさすぎるというのも声高に叫んでいるのですが、「ビジネス特急の走る日-架空車内アナウンス」という一節は、自ら「こだま」の車掌になったことを想定しているものですが、ええかげんにせぇ、といいたくなるくらい、新しい車輌の性能や設備、サービスの自慢、等々、東京発車からおそらく横浜を通りすぎて藤沢あたりまで延々としゃべり続けています。

この自己矛盾、本人も気付いているみたいなのですが、そこはそこ、阿川センセーだからこそ無視してしまえる究極のわがままみたいなものを感じさせてくれます。

タイムスリップすべきかどうか

阿川センセーもディープ、こっちもディープなので、鉄心をくすぐられる表現がそこかしこに詰まってます。

素晴らしかったのは、奈良電鉄の京都奈良間に最近走り始めたと特急と阪神電車元町梅田間にこれも最近走り始めた特急

京都奈良間のは自分が大好きな近鉄680系(奈良電時代はデハボ1200形)のはずです。志摩線で細々とローカル運用についていたこれに乗ったことがあります。近鉄マルーン一色の頃で、トコトコ走る転換クロスシートからの眺めは最高でした。阿川センセーが乗った京奈特急より鉄心を満足させてくれるものだったと思います。

阪神特急は梅田三宮間25分だったそうです。現在、直通特急で31分、停車駅が増えたことによるものですが、阪神、阪急、国鉄でガチンコ勝負やっていた時代です。大阪から三宮へ急ぐならJR、節約するなら阪急、ミナミからだと阪神、という選択にすっかり変わってしまいました。

現在全国の列車で、食堂車を連結しているのは「つばめ」「はと」「かもめ」「阿蘇」「玄海」「きりしま」「雲仙」「筑紫」「西海」「早鞆」「青葉」「みちのく」「北斗」「十和田」「大雪」「まりも」「洞爺」の上り下り34本で、(中略)大部分が日本食堂の経営で、これが実におどろくべきまずい食事を提供してくれる。

何ともうらやましい。まずくてもいいから食堂車の旅を楽しみたいです。ビーフステーキとか頼むのが間違ってます。ビールとチーズくらいで十分です。100系の頃の新幹線食堂車で新大阪から熱海で追い出されるまで粘っていたのを思い出します。「まずい」というより「高い」というのが自分のイメージです。

時間をつぶすために、私は船川線の汽車に乗って、途中に八郎潟を眺めて船川港を見に出かけた。

そんな路線があったっけ?と調べてみたら、昭和43年まで男鹿線は船川線と呼ばれていたと分かりました。

ちょっと武蔵五日市の国鉄駅によってみた。小さな蒸気機関車が蒸気を上げている。形式はC10で・・・

C11じゃなくて、C10 とはすごい。今はE233系オンリーです。電化されたのは昭和36年のようです。

『つばめ』と『はと』の、あのべたべたと全部緑色に塗りつぶしてあるのね、わたし、感心しないの・・・

昔も今も色彩感覚には大きな違いはないとわかります。

タイムスリップしたいと思うくらいなんですが、でも作中の車両区の人のセリフを聞いて、ちょっと思いとどまりました。当時の鉄道のトイレは「垂れ流し」だったんですよね。調べてみると垂れ流しトイレ20世紀末まであったようですが、自分ちも水洗になったのは自分が中学生の頃くらいだったかと思います。現在と昭和30年前後では、衛生に関しての感覚がかなり違っています。タイムスリップしてドアを開けたまま走る客車とか乗って見たいと思いますが、あの頃のトイレはパスですね。

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