落語と私

Image of 落語と私 (文春文庫)

本屋さんの冬休み課題図書コーナーに並んでいました。もう3学期は始まっているのですが、読書感想文です。

昭和50年(1975年)に書かれたもので、文庫の初版が1986年、2010年に第8刷になっているので、長い年月を経て復刊されたもののようですが、中学生の課題図書にぴったりの、為になって、ますます落語が好きになりそうな一冊です。

この本自体に笑える要素は多くありません。しかし落語をもっと楽しむための知識や心構えが盛り沢山につまっています。知識や心構えといっても堅苦しく考えることはなく、仕事や勉強や人付き合いの心構えじゃなくて楽しむための心構えなんですから。

「話芸としての落語」では落語の定義付け、「作品としての落語」では落語の役割やポジショニング、「寄席の流れ」ではビジネスとしての落語、「落語史上の人々」では今ある落語を創り上げてきた江戸と上方の落語家たち、と自分なりの解釈ではこんな4章の構成になっていて、特に面白かったのは「寄席の流れ」です。寄席というのは一席の落語だけで成り立つのではなくて、前座からトリまで、考え尽くされた流れで成り立っているということです。

落語だけじゃなくて漫才や奇術、紙切り、声帯模写などの色物があったり、仲入り前で盛り上げて休憩、トリの前にモタレ、モタレの前にシバリ、が登場して、シバリがグッと客を惹きつけ、モタレが気分転換、そしてトリで絶頂に達するという流れがあるというお話です。

ナルホド繁昌亭の番組も必ずそうなってますね。二百二十四週でいうと、色物がタグリィ・マロンと菊地まどか、仲入り前が桂文太、シバリが桂春駒、モタレが桂三金、トリが林家染二ということになります。

この本が書かれた頃と較べて、今や落語ブームも定着、大阪にも定席ができて、落語の隆盛は明らか、それに米朝師匠自身人間国宝です。それでも、落語家になるということは、金銭や名誉ではなく、落語が好きで、それを皆に聞いてもらいたいということだけが目的のようです。この本の最後に、米朝師匠が、その師匠米團治から得たことばがあります。

「…芸人になった以上、末路の哀れは覚悟の前やで」、とても素敵な人生だと思います。

お正月のテレビに米朝師匠が出ているのを見かけました。大変失礼ながら、お見かけしたところ、高座は望めそうにないと思われました。

高座に上がられるならオペラ並みの料金でも観に行きたいのですが…